第3章:禁忌の正体
シーン1:研究者の訪問
北砦から城に戻って、三日が経った。
作戦は成功した。
第二区画を奪還した。損害は最小限で、戦闘不能者はゼロ。アルヴェルトは戦場で指揮を執りながら、私の料理で回復した兵士たちを的確に動かした。終わった後、彼は私に一言だけ言った。
「——よくやった」
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
問題は、帰還した翌朝のことだ。
あの夜、確かに手が震えた。今は震えていない。でも、体の奥の違和感は、まだ薄く残っている。疲弊、と呼ぶには少し質が違う。燃料が減った感じ、というか——何かが、少し欠けた感じがする。
「……ぐる」
「うん、起きてる」
パフが枕元で鼻を鳴らした。
私はベッドから出て、窓を開けた。秋の朝の空気が流れ込んでくる。ローズマリーの香り。いつもと同じ。
でも今日は、それが少しだけ薄く感じた。
嗅覚が鈍っているのか、と思って首を振った。
気のせいだ。
厨房に行こう。ミオが待っている。
食堂の廊下を歩いていると、見慣れない顔があった。
五十代くらいの男性。白髪交じりの髪を後ろで束ねていて、丸い眼鏡をかけている。服装は貴族風だが、あちこちに本の染みがついている。書斎の人間だ、と一目で分かった。
右手に分厚い本を抱えている。左手にメモ帳。廊下を歩きながら本に目を落としていて、壁にぶつかりそうになっているのに全く気づいていない。
「——危ないです」
「ふわっ!」
男性が飛び上がった。眼鏡がずれた。本が床に落ちた。
「す、すみません! 気づかずに——あなたは?」
「リリア・エルフェンです。この城に——」
「あっ!」
男性の目が、眼鏡越しにキラキラした。
子供みたいな目だった。この年齢でこの目ができる人間は、何かに純粋に夢中な人だ、とすぐ分かった。
「あなたが、料理をする令嬢ですか!」
「……そう呼ばれているようです」
「ちょうど探していたんです! 私はセドリック・ヴォーン、王都魔法研究院から参りました。専門は——ちょっと待ってください、名刺が——」
ポケットをごそごそ探し始めた。
本を床から拾いながら、私は表紙を見た。
「魔法の媒介体に関する歴史的考察・第三版」
「あ、落ちましたね! それ、今回の件で絶対に必要な本なんです」
「今回の件」
「北砦の報告書を受け取りまして! 食料不足の前線で、料理によって戦闘可能者が三十二名増加、という記録です。これは通常の栄養補給では絶対にあり得ない数値なんですよ」
私は黙っていた。
「それで、料理に何らかの魔法的作用があるのではないかと仮説を立てまして、アルヴェルト公爵に研究許可を申請したところ、承認していただきました。つまり、あなたの料理を科学的に分析させていただきたいのです!」
一気に喋り終えて、セドリックが息を吸った。
「……それは、私に選択権はありますか」
「えっ」
「研究対象になることを、私が断れますか」
「あ——」
セドリックが固まった。
おそらく、研究対象が意見を言うとは思っていなかったのだろう。
「……い、一応は、あなたの同意が必要ということになっておりまして」
「では、条件があります」
「なんでしょう」
「研究の結果を、私にも全部教えてください。隠さずに」
セドリックが、また輝いた顔になった。
「もちろんです! むしろ、あなたに最初に伝えます! 当事者ですから!」
「分かりました。協力します」
「ありがとうございます!!」
廊下に響く声で言われた。
「ぐるるっ!」
パフが袖から顔を出して、セドリックを見た。
「あっ、ハリネズミ!! かわいい!!」
五十代の研究者が、廊下でしゃがみ込んでパフに手を伸ばした。
「ぐっ」
パフが棘を立てた。
「あいたっ!」
「慣れるまで時間がかかります」
「なるほど! ハリネズミは警戒心が強いんですね! メモしておきます!」
この人が研究者で良かった、と思った。
悪い人ではない、と直感が言っていた。
シーン2:料理の分析
その日の午後、セドリックは厨房に来た。
大量の測定器具を持って。
小さなガラス管、羽根のような繊細な計測棒、それから魔力を視覚化する「発光石」と呼ばれる半透明の石。魔力が近くにあると、石が反応して光る。
「では、いつも通りに料理をしていただけますか」
「何か指定はありますか」
「いいえ! いつも作るものを、いつも通りに」
「分かりました」
私は棚を開けた。
今日はシンプルなものにしよう。卵と、バターと、ハーブ。オムレツ。材料が少ないほど、変数が減る。
「ミオ、卵六つ出してください」
「はい! あの、その人は?」
「研究者の方です。今日は見学してもらいます」
「研究、ですか」
ミオが少し緊張した顔でセドリックを見た。
「はじめまして! セドリックです! あなたも厨房に関わっていますか?」
「はい、助手をしています」
「あなたも、スープを飲んだことがありますか?」
「……最初の日に」
「その時、どんな感覚でしたか」
ミオが私を見た。
「答えていいですよ」
「えっと……体が熱くなって、体を動かしたくなりました。頭もすごく冴えて、でも三時間くらいで戻って、ちょっと眠かったです」
セドリックが激しくメモを取った。
「——素晴らしい! 典型的な、です!」
「典型的な、何ですか」
「——あ、それはまだ言えません! 先入観を持たせると、データが歪むので!」
「分かりました」
私は卵を割った。
ボウルに入れて、泡立て器で混ぜる。
「——おっ!」
セドリックが発光石を持って、私の手元に近づいた。
石が、ほんのり光った。
「……あの、近いですが」
「すみません! でも反応しています! 卵を割っただけで!」
「いつもこうなんですか」
「いいえ! 通常の料理では、こんな反応は出ません! あなたが卵に触れただけで、魔力の波紋が走りました!」
「魔力の波紋」
「そうです! あなたの手から、食材に何かが移っています!」
私はボウルを見た。
卵液が、いつも通りに見える。でもセドリックの石は、確かに光っている。
「続けてください! 止めないでください!」
「……はい」
バターをフライパンに入れた。
溶けていく。
石が、さらに明るくなった。
「——すごい! 熱と組み合わさると反応が増幅しています! これは触媒型の魔法ですよ!」
「触媒型」
「料理人が魔法を使うんじゃなくて、料理のプロセスが魔力を変換しているんです! あなた自身が魔法を出力しているんじゃなくて、調理という行為がトリガーになっています!」
「だから魔力測定で反応しなかった」
「正確には——測定式が、こういう形の魔力を想定していなかったんです! 標準式は、直接放出型の魔力を計測します。あなたの能力は、媒介を通じて発現する型だから、数値がゼロと出た」
私は手を止めた。
「……媒介型魔法」
「そうです! これは非常に珍しい型です。歴史上、ほとんど記録がない——」
セドリックが、突然言葉を止めた。
眼鏡の奥の目が、何かを考えている。
「……先生?」
ミオが不思議そうに言った。
「いえ——少しだけ、気になることがあって」
「何ですか」
「……それは、料理が完成してから聞いてください。データが先です」
「分かりました」
私はオムレツを仕上げた。
フライパンを傾けて、半月型に折りたたむ。
石が、最も強く光った。
完成した瞬間だけ、石が白く輝いて——
消えた。
「……完成した瞬間に、エネルギーが封入される」
セドリックが呟いた。
震えた声だった。興奮なのか、それとも別の何かなのか、判別できなかった。
オムレツを前に、三人で座った。
「食べていいですか」
「……どうぞ」
セドリックがオムレツを一口食べた。
変化が出るまで、十秒かからなかった。
顔が上がった。目の焦点が変わった。それから、ゆっくり深呼吸した。
「——ああ」
「どんな感じですか」
「頭が……すごく、動く感じがします。いつも考えが追いつかないのに、今は思考が速い」
「他には」
「体が軽い。それと——これは少し不思議なのですが、今まで解けなかった問題の、答えの方向が分かる気がします」
「問題?」
「研究上の問題です。ずっと詰まっていたところが——糸口が見える感じがします」
私はメモを取った。
今まで聞いた効果の証言と、照らし合わせる。
ミオ——身体能力の向上、思考の鮮明化。クレイグ——戦闘能力の覚醒。セドリック——思考処理の向上。
共通点は、「その人が最も必要としている能力が上がる」ことだ。
兵士には戦う力。研究者には考える力。
「……選択的に引き出しているのか」
「何か言いましたか?」
「いいえ。続けてください、先生」
「あと、一つだけ——お願いがあります」
セドリックが、珍しく真剣な顔になった。
「今夜、図書室を使わせていただけますか。確認したいものがあります」
「何を確認したいんですか」
「——古い記録です」
「古い記録」
「この城の図書室には、王国の歴史的文献が保管されているはずです。その中に——もしかしたら、あなたに関係する記録があるかもしれない」
私は彼を見た。
「私に関係する記録」
「確認してからお伝えします。まだ仮説の段階なので」
「……でも先生は、すでに何かを知っているんですよね」
セドリックが止まった。
眼鏡が、少しずれた。
「——鋭いですね」
「顔に出ていました」
「そうですか。では——正直に言いましょう」
彼が眼鏡を直した。
「この型の魔法について、私は一度だけ、文献で読んだことがあります。非常に古い記録で、信憑性が確かめられていなかったので、今まで研究対象にしていませんでした。でも今日、あなたの料理を見て——」
「確信した?」
「……ほぼ、はい」
「その記録に、何が書いてありましたか」
セドリックが、ゆっくり言った。
「——その力は、禁忌として封印されています」
厨房が静かになった。
ミオが息を呑んだ。
パフが棚の上で体を硬くした。
「禁忌」
「はい。詳しくは——今夜、文献を確認してからお話しします。ただ一つだけ、今言えることがあります」
「何ですか」
「あなたは今まで、料理をした後に体の違和感を感じたことがありますか」
私は一瞬、黙った。
「……ある、かもしれません」
「やはり」
セドリックの顔が、硬くなった。
「——必ず、今夜話しましょう。大切なことを、あなたは知る必要があります」
「分かりました」
私は頷いた。
表情を動かさないようにした。
でも心の中で、何かが揺れていた。
禁忌。封印。違和感。
全部が、一本の線で繋がろうとしている。
その線の先に、何があるのかを——私はまだ、見たくない気持ちと、見なければならない気持ちが、半分ずつあった。
シーン3:古文書の夜
夜、図書室に向かった。
アルヴェルトには話してある。「セドリック研究員と図書室を使う」と言ったら、「何時まで」と聞かれた。「分からない」と答えたら、「ハロルドを同席させる」と言われた。
護衛ではなく、管理のためだと思う。
図書室は城の中央棟にある。天井まで届く本棚が四列。石造りの壁に、魔法灯が等間隔に並んでいる。夜でも読める明るさだ。
セドリックはすでに来ていた。
テーブルに三冊の本を開いて、羊皮紙のメモを広げている。眼鏡が光を反射していて、顔の表情が読みにくい。
「来ましたね」
「はい。何が分かりましたか」
「座ってください。長い話になります」
私は椅子に座った。
ハロルドが部屋の隅に立った。
ミオが隣に座った。「私も聞いていいですか」と聞いてきたので、「どうぞ」と言った。
パフが私の膝の上に乗った。
「——では、順を追って話します」
セドリックが本を開いた。
「まず、媒介型魔法について。これは非常に古い形式の魔力発現です。現代魔法が『個人から直接放出する型』に進化する前、人類が魔力を扱い始めた初期の形態がこれです」
「原始的な形、ということですか」
「そうとも言えます。でも——」
セドリックが指を立てた。
「原始的であることは、弱いことじゃない。直接放出型は、使用者の魔力量に上限が決まります。でも媒介型は——媒介の質と、術者の技術によって、理論上、上限がない」
「上限がない」
「食材の持つエネルギーと、調理という変換プロセスと、術者の能力が三重に重なる。そのポテンシャルは、現代の最高位魔法使いを遥かに超える可能性があります」
ミオが「すごい……」と呟いた。
私は黙って聞いた。
「次に、歴史的記録です」
セドリックが別の本を開いた。
こちらは明らかに古い。羊皮紙の色が黄ばんでいて、文字が古語で書かれている。
「二百年前の戦史記録です。当時、大陸では三国が覇権を争っていました。その中に、ある一族が記録されています」
「——一族」
「エルフェン前身家系、とだけ記録されています。詳細な家名は——意図的に消された痕跡があります」
私の体が、わずかに硬くなった。
「エルフェン前身家系は、戦場に料理人を派遣していました。彼らが作った料理を食べた兵士は、限界を超えた力を発揮した——と記録されています」
「……それは」
「そうです。あなたと同じ能力です」
「その一族は——どうなりましたか」
セドリックが本のページをめくった。
少し、時間がかかった。
「……戦争に勝ちました」
「勝ったのに、なぜ禁忌に」
「勝ったからです」
「意味が分かりません」
「——そこが核心です」
セドリックが眼鏡を外した。
素顔が、年齢より疲れて見えた。
「その戦争で、一族は料理を使いすぎた。戦況が悪化するたびに、より強い料理を作り続けた。限界を超えた料理を。結果——」
「兵士が、壊れた」
静寂。
「……どういう意味ですか」
「強制的に限界を超えた体は、限界を戻せなくなった。筋肉が、骨が、神経が——人体の設計図を超えた出力を強いられ続けて、回復不能になった兵士が出ました。記録では、戦後に戦闘不能になった者が全体の四割」
「四割」
「戦争には勝った。でも、味方の四割が廃人同然になった。そして——」
「作った側は」
セドリックが私を見た。
まっすぐ、見た。
「……記録には、こう書かれています。一族の最後の料理人は、最終決戦の翌朝、動けなくなったと」
「……動けなくなった」
「食材に込めるエネルギーの源は、術者自身です。材料が乏しければ乏しいほど、術者から引き出される分が増える。あなたが北砦で感じた違和感は——」
「私自身が、削られていた」
声に出したら、はっきりと分かった。
あの夜の手の震え。体の奥の欠けた感覚。
疲れじゃなかった。
「——そうです」
セドリックが小さく言った。
「使うほど、あなたの何かが消えていく。それが、この能力の代償です」
「何が消えていくんですか」
「記録では、生命力、と表現されています。現代の医学魔法で言えば、細胞の再生能力、あるいは魔力の根本部分——正確には、まだ分かりません」
ミオが私の袖を、そっとつかんだ。
振り向いたら、ミオが泣きそうな顔をしていた。
「……リリア様」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです」
「——今は、全部聞きます。それから考えます」
ミオが唇を噛んだ。
泣かなかった。
私のために泣かなかった。それが、逆に胸に来た。
「先生、続けてください」
「……はい」
セドリックが本を閉じた。
「最後に、封印について」
「なぜ封印されたんですか」
「王族が恐れたからです。制御できない力、という理由もあります。でもそれだけじゃない」
「もう一つの理由は」
「——エルフェン前身家系が、王族の命令を拒否したんです」
「何の命令を」
「次の戦争でも、料理を使え、という命令を」
私は、そこで初めて気持ちが動いた。
怒り、じゃない。もっと静かな何か。
「断ったんですか」
「そうです。代償を知っていたから。仲間が壊れるのを見ていたから。一族の筆頭が、王族に向かって言ったそうです——私たちは料理人だ、兵器ではない、と」
「……それで」
「能力を禁忌として封印された。一族の記録を歴史から消された。そして——その血筋は、何世代もかけて散り散りになった」
「でも消えなかった」
「消えなかった。あなたがここにいる」
図書室が、しんと静まった。
魔法灯の光が、ゆらゆらと揺れている。
私は本の表紙を見た。
古語で書かれた文字。二百年前の誰かが、書き残した記録。
「その一族の筆頭の名前は、記録にありましたか」
セドリックが一瞬、止まった。
「……一つだけ残っています。ファーストネームだけですが」
「何ですか」
「——リリア、と書かれています」
私は動かなかった。
パフが膝の上で、ぐるっと一回、動いた。
「……偶然ですかね」
「——偶然、とは思えません」
「そうですね」
私は窓の外を見た。
夜の空に、星が出ている。
二百年前の同じ名前の人間が、同じ力を持って、王族の命令を断って、歴史から消された。
その血が、私の中にある。
「先生」
「はい」
「もう一つ聞いていいですか」
「何でしょう」
「——使い続けたら、私はどうなりますか」
セドリックが、少し時間をかけて答えた。
「記録では——最後の料理人は、三年後に亡くなっています」
「三年」
「ただし、その間も料理を作り続けた。限界突破の料理を何度も作った。早く消耗した、という可能性は——」
「あります」
「——はい」
「使わなければ」
「分かりません。先例がないので」
「つまり、使わなければ普通に生きられるかもしれない」
「……おそらく」
私は頷いた。
「分かりました。全部、教えてもらってありがとうございます」
「——リリア様、あなたは随分と落ち着いていますね」
「落ち着いていないと、考えられないので」
「……強いですね」
「強くないです。ただ——知りたかった」
「知ることは、時に辛いことです」
「知らないままの方が、もっと辛い」
セドリックが、眼鏡を拭いた。
「今後、研究を続けさせていただけますか。代償を軽減する方法があるかもしれない。材料の組み合わせを変えることで、術者への負担を減らせる可能性も——」
「お願いします」
「ありがとうございます」
私は立ち上がった。
「一つだけ、先生に言わせてください」
「何でしょう」
「私は料理が好きです。この力がどういうものでも、料理をすること自体は好きです」
「……はい」
「だから、使わない選択だけを考えるつもりはないです。ただ——正しく扱えるように、知りたい」
「それは——」
セドリックが、初めて笑った。
本当に嬉しそうな顔だった。
「——二百年前のリリアも、きっと同じことを言ったと思います」
「そうですか」
「文献にはこう書かれています。彼女は最後まで、誰かのために料理をしていたと」
私は図書室の扉に向かった。
ミオがついてくる。
パフが袖の中でおさまっている。
「ぐる」
「うん」
廊下に出た。
石畳の冷たさが、靴越しに伝わる。
「リリア様」
ミオの声。
「はい」
「怖くないですか」
「怖い」
「……そうですよね」
「でも、怖いのと、やめるのは違うから」
「——うん」
ミオが頷いた。
泣いているのに、声は真っ直ぐだった。
それを見て、私は少しだけ笑えた。
「帰って、何か作ります。今夜は疲れたから——簡単なものを」
「食べます!」
「でも限界突破はなしで」
「当たり前です!」
廊下を歩いた。
城の夜は静かだった。
二百年前の血が、私の手の中にある。
名前まで同じ誰かが、同じ力で、同じ選択の前に立った。
違うのは——私には、まだ時間がある。
そして——
「——リリア」
廊下の角から、声がした。
アルヴェルトが立っていた。
遅い時間に、なぜここにいるのか。
「図書室から出たのが分かった。ハロルドから連絡が来た」
「……お気遣いなく」
「顔色が悪い」
「夜だから」
「そうじゃない」
彼が、一歩近づいた。
「——何か、分かったか」
私は少しだけ考えた。
全部話すべきか。まだ話さない方がいいか。
でも、アルヴェルトは既に北砦で何かを感じている。胸の温かさのことも、私の手の震えのことも、見ていた。
「——話があります。でも今夜は、疲れたので」
「明日でいい」
「明日、話します」
「分かった」
彼が一歩引いた。
通り道を空けてくれた。
私が横を通り過ぎようとした時、アルヴェルトが言った。
「——今夜は、無理をするな」
「料理はしません」
「それだけじゃない。考えすぎるな」
私は立ち止まった。
振り返らなかった。
「……どうして分かるんですか」
「お前の背中が、そう言っている」
私は少しだけ、息を吐いた。
「おやすみなさい、アルヴェルト様」
「——ああ」
廊下を歩いた。
考えすぎるな、と言われても、頭は止まらない。
でも——
一つだけ、決めた。
使う時は、自分で決める。
削られるとしても、削る量を、自分でコントロールする。
それが、二百年前の私と——今の私の、違いにする。
「ぐるるっ」
「うん、知ってる」
パフが袖の中で丸まった。
星が、まだ出ていた。




