エピローグ
春の朝
冬が終わった。
気づいたのは、厨房の窓を開けた時だった。
入ってくる風の匂いが、変わっていた。土の匂いが戻っていた。昨日まで石のように固かった庭の地面が、少しだけ柔らかく見えた。
「——春だ」
誰にともなく、言った。
「ぐるるっ」
パフが棚の上から応えた。
「去年の春と、今年の春と、どっちが好きですか」
「ぐっ」
「去年はここに来たばかりだったね」
あの春、私は何も持っていなかった。
婚約を破棄されて、家族に売られて、魔力ゼロの烙印を押されて——それでも包丁だけは手放さなかった。
今は。
「ぐるるっ」
「分かってます。仕込みをします」
ミオが来たのは、それから十分後だった。
走ってきた音がした。いつも通りの、小走りの足音。
「——おはようございます」
「おはよう。今日は何を作りますか」
「春キャベツのガレット。昨日、セドリック先生の本で見ました」
「作ったことはありますか」
「ないです」
「では一緒に——」
「一人でやります」
私は手を止めた。
ミオが、まっすぐ私を見ていた。
「失敗したら、その時に聞きます。でも最初は、一人でやってみます」
「分かりました」
「見ていてください」
「見ています」
ミオが動き始めた。
材料を確認する。キャベツを手に取って、葉の張り具合を確かめる。小麦粉の分量を量る。手つきが、半年前とは違う。迷いが、ない。
「ぐるるっ」
「そうね」
育った、と思った。
私が育てたんじゃない。ミオが、自分で育った。
その場所に、私がいただけだ。
セドリックが来たのは、朝食が終わった頃だった。
いつも通り、大量の書類を抱えて。眼鏡がずれていて、髪が少し乱れていた。昨夜も遅くまで研究していたのだろう。
「——リリア様、朗報です」
「おはようございます」
「おはようございます。バルム草を使った調理法の最適化が、ほぼ完成しました」
「どのくらい改善されましたか」
「以前の調理法と比べて、術者への負担が推定で六割減少します。つまり——」
「今まで三回作ると消耗していたものが、七、八回作っても同じ消耗に抑えられる」
「正確です。さすが当事者の理解が速い」
「先生のおかげです」
「いいえ。あなたが毎回正確にデータを提供してくれたおかげです。私は分析しただけです」
セドリックが眼鏡を光らせた。
「——それから、もう一つ」
「何ですか」
「魔法省から、正式な研究協力の打診が届きました」
厨房が、少しだけ静かになった。
「——強硬派から、ですか」
「いいえ。慎重派の研究部門から、です。セレナ・ヴァルディア嬢が仲介してくれました」
「セレナ様が」
「——あなたの力を兵器としてではなく、医療や福祉に応用する研究をしたい、という申し出です。傷の回復を早める料理の可能性、疲弊した人々への栄養的魔法的支援——そういう方向での、共同研究の提案です」
私は窓の外を見た。
庭に、バルム草の小さな芽が出ていた。
「——受けたいと思いますか」
セドリックが聞いた。
「先生はどう思いますか」
「私は——受けるべきだと思います。あなたの力は、使わないことが正解ではない。正しく使うことが、正解だと思っているので」
「私も、そう思っています」
「では」
「アルヴェルト様と話してから、決めます。私一人で決めることじゃないので」
セドリックが頷いた。
「ぐるるっ」
「パフも賛成しているようです」
「っぐ」
「賛成していないつもりらしいですが、尻尾が揺れています」
「ぐるるっ」
「——可愛いですね」
「っぐ」
昼の執務室
アルヴェルトに話したのは、昼食を持っていった時だった。
今日の昼は、春野菜のパイ包みだった。
新しいバルム草のレシピで作った、最初の一皿。
テーブルに置いて、向かいに座った。
「——今日は座るのか」
「話があるので」
「食べながら聞く」
「はい」
アルヴェルトがパイを一口食べた。
いつものように、一瞬だけ目を閉じた。
それから開いた。
「——今日は、違う」
「何が違いますか」
「体への入り方が、なめらかだ。いつもより、重くない」
「新しいレシピです。バルム草を使った、消耗を減らす方法が完成したので」
「セドリックの研究か」
「はい」
「——お前の体への負担は」
「大幅に減りました。自分でも確認しました。手が震えない。欠けた感覚がない」
アルヴェルトが、少しだけ息を吐いた。
「——良かった」
「はい」
「それが話か」
「——もう一つあります」
「言え」
「魔法省の慎重派から、研究協力の打診が届きました。セレナ様が仲介してくれました。内容は、医療と福祉への応用研究です」
アルヴェルトが、パイを持ったまま止まった。
「——魔法省と、組むのか」
「全体ではなく、慎重派の研究部門だけです。セレナ様が保証してくれています」
「セレナの保証が、どこまで有効か」
「彼女は、約束を守る人だと思っています」
「——根拠は」
「お兄様のことを、ずっと守り続けてきた人だから」
アルヴェルトが、少し考えた。
窓の外を見て、また私を見た。
「——お前は、やりたいのか」
「はい」
「なぜ」
「——私の力は、人を強くするだけじゃなくて、癒せる可能性があります。戦わなくていい人が、料理で元気になれる。傷ついた人が、食べることで少し楽になれる。そういう使い方をしたいと、ずっと思っていました」
「ずっと、か」
「北砦で、兵士たちが食べた後の顔を見た時から。あの顔が、私の料理の一番の答えだと思ったので」
アルヴェルトが、パイを置いた。
「——条件がある」
「聞きます」
「研究の内容は、全て俺にも報告すること。不審な動きがあれば、即座に協力を打ち切る権限を俺に持たせること」
「——分かりました」
「それから——」
「それから?」
「お前が消耗しすぎた場合、俺が止める」
「止める、とは」
「——料理をやめさせる。一時的に。無理をしていると判断した時に」
私は少しだけ、考えた。
「それは——私の選択を、あなたが奪うことになりませんか」
「奪うつもりはない。ただ、お前が自分の状態を正しく判断できない時のために、俺が見ている、という意味だ」
「信頼してくれているから、ですか」
「——信頼しているから、目を離さない。それが俺のやり方だ」
「——分かりました。お願いします」
「条件を全部飲むのか」
「あなたの条件なら、飲めます」
「……理由は」
「あなたが、私のために回り道をする人だと知っているから」
アルヴェルトが、少しだけ目を逸らした。
「——それは、いつの話だ」
「庭でバルム草を見た日です」
「……覚えているのか」
「料理人は、大切なことを忘れません」
「——大切なことか」
「はい」
「俺が言ったことが、大切だったのか」
「——とても」
アルヴェルトが、また窓の外を見た。
春の光が、執務室に入ってきていた。
「——返事は、セドリックに伝えろ。受ける、と」
「ありがとうございます」
「礼はいい。ただ——」
「ただ?」
「——その研究で、誰かが美味しいと言ってくれる場面が増えるなら、俺も悪くないと思っている」
「——悪くない、ではなくて」
「何だ」
「良いことだと思っている、と言ってください」
「……良いことだと、思っている」
「ありがとうございます」
「語尾を指定するな」
「でも、ちゃんと言ってくれたので」
「——うるさい」
「はい」
パイの残りを、アルヴェルトが食べ続けた。
春の光の中で、執務室が温かかった。
夕暮れの庭
夕方、庭に出た。
バルム草の芽を確認するためだ。
小さな緑が、土から顔を出していた。
冬の間、ずっとここで眠っていたものが、春になって目を覚ました。
「——育ちましたね」
しゃがんで、葉の端に触れた。
指先に、わずかな電流。
食材に触れた時の感覚と、同じだった。
生きているもの全部から、私は何かを感じ取る。
それが——禁忌と呼ばれた力の、本当の意味かもしれない。
生きているものの声を、聞く力。
それを料理に変える、技術。
「ぐるる」
パフが横に来た。
芽を、鼻先で嗅いでいた。
「食べないでください」
「っぐ」
「食べようとしていましたね」
「ぐっ……」
「——認めましたね」
「ぐるるっ」
「落ち着いて」
「ぐるっ」
「シナモンクッキー、今夜焼きます」
「ぐるるっ」
単純な生き物だ、とは思わなかった。
この生き物は、嬉しいことに正直なだけだ。
私も、そうでありたい、と思った。
「——ここにいたのか」
後ろから声がした。
アルヴェルトだった。
「はい。芽が出ていたので」
「見に来たのか」
「確認です。料理に使う材料は、自分で状態を見たいので」
アルヴェルトが横に来た。
バルム草の芽を、黙って見た。
「——小さいな」
「これからです」
「夏までに育つのか」
「育ちます」
「——それで、新しい料理を作るのか」
「作ります。もっと良いものが、できると思います」
「今より良いものが」
「毎回、今より良いものを目指します。それが料理人だと思っているので」
アルヴェルトが、少しだけ私を見た。
「——お前は、満足しないのか」
「満足します。でも、満足したままでいると、次が作れなくなります」
「向上心と満足は、両立しないのか」
「両立します。今日の一皿に満足しながら、明日の一皿を考えます」
「——それは、疲れないか」
「楽しいです」
「楽しい、か」
「あなたが、毎日食べてくれるから。明日は何を作ろうか、と考えることが、楽しいんです」
アルヴェルトが、芽から目を上げた。
夕暮れの光が、彼の横顔を照らした。
「——俺も、同じだ」
「何が、ですか」
「明日、お前が何を作るか——考えることが、楽しい」
「それは——」
「食べることを、楽しみにしている。毎日。初めて、そういう気持ちになった」
私は、その言葉を静かに受け取った。
「——良かったです」
「何故良かったのか」
「食べることが楽しいと思ってもらえることが、料理人として一番嬉しいことだから」
「——料理の効果ではなく?」
「効果は関係ないです。ただ——美味しいと思って、明日も楽しみだと思って、食卓に来てくれること。それだけで、十分です」
アルヴェルトが、少し黙った。
風が吹いた。
バルム草の芽が、揺れた。
「——一つ、言っていいか」
「はい」
「——俺は、お前の料理だけを楽しみにしているわけではない」
「と、言うと」
「お前が厨房にいることを、楽しみにしている。お前がミオと話している声が廊下から聞こえることを、楽しみにしている。こうして庭で話すことを、楽しみにしている」
「……」
「料理は、その一部だ」
私は少しだけ、時間をかけた。
「——それは」
「何だ」
「告白ではないですか」
「——事実の報告だ」
「そうやって返すんですね」
「お前に習った」
「……」
「何か、問題があるか」
「問題はないです」
「——では」
「私も、事実の報告をします」
「聞く」
「あなたが執務室にいることを、知っていて料理を持っていきます。あなたが食べ終わった後の顔を、見たくて持っていきます。今日のパイも、明日のスープも——あなたに美味しいと言わせたくて、作ります」
アルヴェルトが、私を見た。
「——それは」
「料理の話です」
「料理だけの話か」
「——料理の話と、もう一つの話が、混ざっています」
「どちらが先か」
「——どちらも同時です。私には、切り離せません」
アルヴェルトが、また夕暮れの空を見た。
春の空だった。
どこまでも淡くて、柔らかい橙色だった。
「ぐるるっ」
パフが二人の間に割り込んできた。
「——邪魔するな」
「っぐ」
「関係ないと言っている」
「ぐるるっ」
「関係ある、と言っているようです」
「——なぜ関係があるんだ、お前には」
「っぐ」
「……」
「一番最初から、一緒にいたから——ということだと思います」
アルヴェルトが、パフを見た。
それから私を見た。
「——そうだな」
「はい」
「お前が来た日から、この城が変わった」
「うるさくなりましたね」
「——悪くない変化だ」
「それは——」
「良い変化だ。そう言えばいいか」
「言えてます」
「……慣れてきた」
「良かったです」
風が、もう一度吹いた。
夕暮れが深くなっていく。
「——今夜の夕食は何だ」
「春野菜のポタージュを作ります。バルム草も少しだけ入れます」
「——初めて使うのか」
「はい。どんな変化が出るか、楽しみです」
「お前が楽しみにしているのか」
「料理する側も、楽しみがないと、良いものは作れないので」
「——そうか」
「楽しみにしていてください」
「——している」
「ありがとうございます」
「毎日、している」
「毎日、ありがとうございます」
「同じ返事をするな」
「毎日、言ってもらえるから、毎日、ありがとうございます」
アルヴェルトが、少しだけ息を吐いた。
笑いを堪えた音だった。
「ぐるるっ」
「パフまで笑わないでください」
「っぐ」
「笑っていない?」
「ぐるっ」
「笑っていますよ」
「っぐ……」
「認めました」
三人で——正確には二人と一匹で——春の夕暮れを見た。
城の下から、夕食を知らせる鐘の音が聞こえた。
「——行くぞ」
「はい」
「ポタージュが冷める」
「急ぎます」
「急がなくていい。俺が待つ」
「……」
「何だ」
「——それは、嬉しい言葉です」
「何故だ」
「待ってくれる人がいるということが、嬉しいので」
アルヴェルトが、少しだけ——目を細めた。
「——俺も」
「俺も、とは」
「待っている間が、嬉しいと思う」
「——どういう意味ですか」
「料理ができるまでの時間が——楽しみで、待てる。待てるのが、嬉しい」
私は少しだけ、胸が温かくなった。
料理の効果じゃない。
ただ、この人の言葉が——胸に来た。
「——作ります。美味しいものを」
「——知っている」
「毎回、美味しいと言わせてみせます」
「——毎回、言う」
「約束ですか」
「約束だ」
「では、私も約束します」
「何を」
「——毎回、あなたのために作ります。自分の意思で、ずっと」
アルヴェルトが、静かに頷いた。
「ぐるるっ」
「パフも約束しますか」
「っぐ」
「クッキーを食べすぎない約束?」
「ぐるっ……」
「難しい約束だったですね」
「っぐ……ぐるるっ」
「頑張ります、と言っています」
「——それで十分だ」
アルヴェルトが歩き始めた。
城の灯りが、夕暮れの中に浮かんでいた。
私はその灯りを見た。
半年前、初めてここに来た夜も、この灯りが見えた。
あの夜は、怖かった。
何も知らない場所で、一人で、包丁だけを持っていた。
今は——
「美味しいって言わせてみせる」
小さく、呟いた。
これからも。
一皿ずつ。
その先へ。
「ぐるるっ」
「うん、行きましょう」
パフが先に走った。
私は、その後を追った。
城の灯りに向かって。
夕暮れの庭に、春の風が吹いた。
バルム草の芽が、また揺れた。
来年も、揺れる。
その先も、ずっと。
完




