表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能令嬢として隣国に売られましたが、私の料理を食べたら“限界突破”します。婚約者の執着が重すぎて困っています  作者: はりねずみの肉球


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/4

第1章:追放と最初の一皿

シーン1:婚約破棄の朝

冷たい。


石造りの広間は、真夏でも骨の芯まで冷えるように作られている。それが王城の設計思想だと、私はずっと思っていた。でも今日、ようやく分かった。


冷たいのは、石じゃない。


「リリア・エルフェン。本日をもって、汝との婚約を破棄する」


声だ。


壇上に立つ第三王子――カイル・ルミナス。十九歳にして国内随一の魔力量を誇ると言われている彼は、私をまっすぐ見下ろしながら、まるで天気の話でもするように続けた。


「理由は明白。魔力値・計測不能。すなわち実質ゼロ。侯爵家の令嬢といえど、魔法なき者を王族の伴侶として迎えることは、国益に反する」


国益。


その二文字が広間の空気に溶けた瞬間、私の周囲にいた貴族たちがいっせいにざわめいた。その波は小さく、でも確実に私の足元まで届いてくる。好奇、哀れみ、それから――安堵。自分じゃなくてよかった、という顔をした人が、三人は見えた。


私は深呼吸する。


十八年間、この日が来るかもしれないと思っていた。だから動じない。動じてやらない。


「……殿下」


声に出したら、思いのほかしっかりしていた。自分で少し驚く。


「魔力値の計測に、誤りがある可能性は検討されましたか」


「誤りはない。三度測定した。すべて同じ結果だ」


「三度、すべて同じ術式で?」


一瞬、カイルの眉が動いた。


「……当然だ。計測術式は国定の標準式のみが有効とされている」


「なるほど」


私は微笑む。引きつってないといいけど、と心の中で呟きながら。


「では私には、反論の余地もございませんね」


それ以上、何も言わなかった。言っても意味がないと分かっていたから――じゃない。本当のことを言うと、私にはまだ、自分の力の正体が分からなかったから。


計測術式が反応しなかったのは事実だ。でも、私は知っている。何かがある、と。料理をするたびに感じる、あの奇妙な感覚を。包丁を握ると、指先に電流のようなものが走って、何を作ればいいかが"降りてくる"感覚を。


それが魔法かどうかも、まだ分からない。


だから黙っている。


「下がれ」


カイルはそう言って、視線をすでに私から外していた。


広間を出た廊下で、最初に声をかけてきたのは母だった。


エルフェン侯爵家の女主人。魔力値Aランク。政略結婚のプロ。そして今日だけで、私に三回目の失望の顔を向けている人。


「リリア。父様が話があると言っているわ」


「分かった」


「……こういうことになって、本当に残念ね」


残念。


その言葉の重さを、母は分かって言っているんだろうか。残念、という言葉は、誰かへの同情ではなく、自分の期待が外れた時に使う言葉だ。


「残念なのは私も同じよ、お母様」


それだけ言って、私は父の執務室に向かった。


父の部屋は、いつも煙草の匂いがする。魔法で浄化すればすぐ消えるのに、父はいつまでもその匂いの中にいる。それが唯一、この人の人間らしいところだと思っていた。


「座れ」


父は書類から目を離さずに言った。


私は革張りの椅子に腰を下ろす。背筋は伸ばしたまま。ここで縮こまったら、それは負けだと思っているから。


「決まった。お前を隣国グランディア王国に嫁がせる」


「……いつ決まったんですか」


「今朝だ」


今朝。つまり、婚約破棄が正式に宣言されるより前に、すでに次の手が打たれていた。


「グランディアの第一公爵家、アルヴェルト・グランディアに縁談を打診した。向こうは受け入れた」


「条件は」


「持参金なし。代わりに、お前への干渉権はすべてグランディア家に移る」


持参金なし、で受け入れた。


それが何を意味するか、十八年間で磨かれた私の政治的勘が静かに告げる。


向こうは私に何かを期待している。あるいは、何かを試そうとしている。


「承知しました」


「……怒らないのか」


初めて父が書類から目を離した。


その顔に浮かんでいるのは、罪悪感だろうか。それとも単純な驚きだろうか。どちらにしても、今さら気にする気にはなれなかった。


「怒っても何も変わらないでしょう。それに」


私は立ち上がる。


「グランディアには、厨房があるんでしょう?」


父は答えなかった。


それで十分だった。


シーン2:馬車の中のハリネズミ

出発は翌朝だった。


荷物は三つのトランクに収まった。ドレスが七着、本が十二冊、そして――厨房道具一式。包丁三本、砥石、鍋二つ、スパイスケース。


侍女のアンナは「もっとお洋服を」と言ったけれど、私は首を振った。服は向こうで用意されるだろう。でも自分の道具は、自分で持って行かないといけない。


馬車が動き出して一時間。エルフェン侯爵領の森を抜けたあたりで、私はトランクの蓋を開けて包丁を確認した。刃の状態、柄のぐらつき、鞘の締まり具合。問題なし。


「……ぐるる」


声がした。


私は動きを止める。


もう一度聞こえた。今度はもっとはっきり。


「ぐるる……っ」


スパイスケースの隙間から、小さなものが覗いている。


茶色。丸い。棘だらけ。


「……ハリネズミ?」


「ぐるるっ!」


本人(本ハリネズミ?)は断固として否定するように鳴いたが、どう見てもハリネズミだった。手のひらに乗るくらいの大きさで、まんまるとした目で私をじっと見上げている。


「どこから入ったの」


「……ぐ」


返事のつもりらしい。


私はケースを少し開けて、中を確認した。砕けたシナモンの粉が散乱している。こいつがかじったのか。


「あんた、シナモン好きなの?」


「ぐるぐる」


「……まあ、いいか」


私は棘に気をつけながら、そっとハリネズミを手のひらに乗せた。思ったより重い。ふわっと甘い匂いがした。シナモン染みてる。


「名前は?」


「ぐっ」


「じゃあ、パフ」


「……っぐ」


なんとなく、気に入ってくれた気がした。


パフは私の手のひらの上で二、三歩歩き回ってから、丸まった。完全に信頼しきった寝方だった。この状況で気を許せるこの生き物のことが、私は一瞬で好きになった。


窓の外、エルフェン領の風景がどんどん遠くなっていく。


見慣れた塔の先端が、木々の向こうに沈んだ。


「……行くよ、パフ」


「ぐ」


それだけで十分だった。


シーン3:グランディア城・到着

グランディア王国との国境を越えたのは、夕刻だった。


空の色が変わった、とまず思った。エルフェンの空は、どこか白みがかっていて、柔らかい光が特徴だった。でもグランディアの空は違う。青が深くて、雲の輪郭がくっきりしている。空気も違う。乾いていて、澄んでいて、緊張するような透明さがある。


馬車が城門に近づくと、衛兵が二十人以上並んでいるのが見えた。


全員、甲冑が統一されている。剣の帯び方まで揃っている。


「……お迎えのつもりかしら」


「ぐるる」


パフが袖の中から顔を出した。完全に私のローブを巣だと思っている。追い出す気にもなれない。


馬車が止まった。


扉が開く。


最初に見えたのは、白い手袋をした手だった。


差し出された手を取って、私は馬車を降りた。


出迎えの人間は十数人いた。全員が深くお辞儀をしている。その最後列に、一人だけ直立している人物がいた。


身長は高い。黒い軍服。銀の飾緒。それから――


氷みたいな目。


灰色でも青でもない、その中間のような色。光の角度によって変わる、そういう目をしている人が世界にいるとは知らなかった。


「リリア・エルフェン嬢」


声は低くて、平坦だった。感情が乗っていない、というより、感情を乗せることに慣れていない声だった。


「アルヴェルト・グランディアだ」


「はじめまして、アルヴェルト様。リリア・エルフェンです。本日からお世話になります」


礼をする。顔を上げたとき、彼の視線がまっすぐ私を見ていた。


審査するような目だ、と思った。


採点、じゃない。分析だ。


「……荷物の中に、厨房道具があると報告を受けた」


「はい」


「確認だが、お前は料理人として来たわけではない」


「存じています。ただ、厨房の使用許可をいただけると嬉しいです」


一拍の沈黙。


「無駄だと判断したら許可しない」


「では、無駄ではないと分かっていただくまで、お時間をください」


彼の目がわずかに動いた。驚き、ではない。もっと小さな変化。何かを――確認した、みたいな。


「……案内しろ」


そう言って、彼は踵を返した。


私はパフが袖からこぼれ落ちないよう腕を固定しながら、その背中について歩いた。


シーン4:与えられた部屋と、小さな厨房

部屋は思っていたより広かった。


窓が二つあって、一つは中庭に面している。石畳の庭に、手入れされたハーブが植わっているのが見えた。ラベンダー、ローズマリー、タイム。私の知っているものばかりで、少しだけ安心した。


「不満があれば申し付けろ」


部屋の前でそう言った執事風の老人が、扉を閉めて去っていった。


私は部屋の中を一周した。ベッド、クローゼット、書き物机、本棚(空)。それから――


「厨房じゃないわね」


独り言。


パフが袖から完全に出てきて、机の上をちょこちょこ歩き回った。


「ぐるぐる」


「そうね。まずは確認から」


トランクを開けて包丁を取り出す。刃を確認する。問題なし。砥石を出して、軽く研ぐ。カシャ、カシャ、という音が静かな部屋に響いた。


この音を聞くと、落ち着く。


子供の頃から、そうだった。魔法の授業で置いていかれても、社交の場で浮いても、料理の時間だけは違った。包丁を持つと、体の中の何かが起動する感覚がある。考えるより先に、手が動く。材料を見ると、何を作ればいいかが「見える」。


これが魔法じゃないなら、何なんだろう、といつも思っていた。


「……使っていいって、言われてないけど」


パフが振り向いた。


「でも聞いてない、とも言われてないし」


「ぐっ」


「そうね。行ってみましょうか」


厨房は城の地下一階にあった。


広い。業務用の大きさだ。六つのかまど、長い調理台、天井からぶら下がった大小の鍋。壁一面のスパイスラック。裏口には野菜の納入口があって、籠の中に今朝届いたらしい根菜が積まれていた。


夕食の準備が終わった後らしく、厨房は空だった。


私は調理台に近づいて、表面を確認した。きれいに磨かれている。使い込まれた傷があるけれど、手入れが行き届いている。料理を大切にしている場所だ、と分かった。


「誰だ」


振り返った。


扉のそばに、少女が立っていた。


十六歳くらいだろうか。エプロンをして、手に野菜ブラシを持っている。黒髪を後ろで一つにまとめていて、目が大きくて、そして――怪訝そうな顔が最高に正直だった。


「リリア・エルフェン。今日から城に来た者です」


「……あ、婚約者様ですか」


「そうなります」


「えっと……なんで厨房に?」


「料理がしたくて」


少女の顔が、ぽかんとした。


「……使用許可は?」


「今から取ります」


「今から?!」


「あなたは?」


「え? あ、ミオです。ミオ・クライン。厨房助手を……してます」


「ミオ。この厨房を管理している人は誰ですか」


「料理長のガルドさんですけど、今夜は在席してなくて……」


「では明日、許可をいただきます。今夜は確認だけ」


「確認……?」


私は棚を開けた。スパイスの配置を見る。小麦粉、砂糖、塩の位置を確認する。油の種類、保存状態。冷却庫の中身。


全部、頭に入れていく。


「……すごいです」


ミオが言った。


「何が?」


「そんなに早く確認して……全部覚えるんですか?」


「料理に必要なことは全部、覚えます」


「すごい……」


「特別なことじゃないです。ただ、好きなだけ」


ミオが、何か言いかけて止まった。その代わりに、視線がパフに向いた。


「……それ、ハリネズミ?」


「ぐ」


「しゃべった!?」


「返事のつもりみたいです。名前はパフ」


「かわいい……っ! さわっていいですか」


「棘があります」


「大丈夫です、なれてます!」


パフは最初、ミオの手の上でふんっと鼻を鳴らした。でも三秒後には丸まっていた。現金な生き物だな、と思いながら、私はスパイスの在庫確認を続けた。


シーン5:初めての一皿

許可が下りたのは翌朝、というより、私が料理長を朝食前に捕まえて直談判した結果、朝食後に許可が下りた。


「一食分だけ」というのが条件だった。


「それで十分です」と私は言った。


材料は在庫の余り物で構わないと言われた。私はそれで構わなかった。余り物の方が、実力が出る。


見回すと、玉ねぎが半端に残っていた。鶏の骨がある。セロリ、にんじん、タイム。バターが少量。卵が三つ。


「……スープにします」


「ぐるる」


「コンソメじゃなくて、ビスク風。でも軽く仕上げる」


思考が加速する。


これが、私の好きな感覚だった。材料を見ていると、何を作ればいいかが「降りてくる」。今日降りてきたのは、鶏のブロスに根菜を合わせた、シンプルな一杯だった。でも何かを加えたい。何かが、足りない。


棚を見た。


奥の方に、見慣れないスパイスの瓶があった。ラベルが古くて、文字が少し読みにくい。


「これ、何ですか」


ミオが覗き込んだ。


「えっと……シャルバン草、かな? 古い補助薬の材料って聞いたことあります。苦くて、普通は料理に使わないやつです」


「少しだけもらいます」


「え、でも苦いですよ?」


「ほんの少しだけ。後味に奥行きを出したくて」


包丁を握った瞬間、指先に例の感覚が来た。


ピリ、と走る電流。


それに乗るように、手が動き始める。


玉ねぎを薄切りにする。弱火でバターと一緒に炒める。焦がさないように、ゆっくり、甘みを引き出すように。鶏骨を別鍋で煮出す。最初の灰汁を丁寧にすくう。その間に根菜を整える。


「……速い」


ミオの声が遠くから聞こえる。


「包丁の使い方、すごいですね。なんか……動きが」


「普通ですよ」


「普通じゃないです。なんか光ってません? 指先」


一瞬、動きを止めた。


「……見間違いじゃないですか」


「そうかな……」


続ける。


スープを合わせる。タイムを加える。仕上げにシャルバン草をほんの少し。目分量で、でも確信を持って。


完成した瞬間、スープがわずかに輝いた気がした。


気がした、だけかもしれない。


「できました」


香りが広がった。


鶏の旨味と根菜の甘み。タイムのハーブ感。それから――シャルバン草の僅かな苦みが、最後に舌の上で余韻を残す。


複雑、なのに温かい。そういう匂いだった。


「食べてみますか」


ミオが固まっている。


「あ……私、食べていいんですか」


「作った分は余ります。どうぞ」


スープを一杯、ミオの前に置いた。


ミオはスプーンを持ち、恐る恐るすくった。一口。


「……っ」


声が止まった。


「辛くないですよね?」


「ちがう、そうじゃなくて……」


ミオが顔を上げた。


頬が、赤い。


「なんか……体が、熱い」


「スープだから」


「そうじゃないんです。なんか……中から、熱い。体の芯が……起きてくる、みたいな」


私は黙って観察した。


ミオの呼吸が少し速くなっている。目の焦点が一瞬揺れて、次の瞬間、くっきりした。


「……野菜、切らせてください」


「は?」


「今すごく、手を動かしたい。なんか体が動きたくて、じっとしてられない感じで——」


ミオはもうエプロンの紐を結び直していた。


私は口を開けて、その様子を見た。


「ぐるるっ」


パフが棚の上から私を見下ろしている。


うん、と私は内心で頷いた。


やっぱり、ある。


このスープには、何かある。


シーン6:婚約者と、最初の沈黙

その日の昼、アルヴェルトが厨房に来た。


「昨日、スープを作ったと聞いた」


「はい。余り物でしたが」


「食べた使用人が、午前中の仕事を三倍速で終わらせた」


私は答えなかった。


ミオのことだ、と思った。ミオは朝の仕事を全部終わらせて、それでも有り余るエネルギーで昼前の下ごしらえまで手伝っていたらしい。


「……お前が作ったものが原因か」


「可能性はあります」


「断言できないのか」


「まだ一回しか作っていないので。データが足りません」


アルヴェルトはしばらく私を見た。


例の、分析する目で。


「もう一杯作れ」


「今ですか」


「今だ」


「材料は?」


「何でもいい。指定しない」


私は棚を見回した。


在庫を確認する。スープなら昨日と同じものが作れる。でも彼が求めているのは再現性の確認だ。同じレシピで、同じ結果が出るかを検証したい。合理的だ。


包丁を持った。


指先に、例の感覚が来た。


「……見ていてもいいですか」


アルヴェルトが言った。


「構いません」


「動かないでいる自信はある。邪魔はしない」


「分かりました」


彼は壁際の椅子に座った。


腕を組んで、ただ見ている。


プレッシャーを感じる性格ではない、と思っていたけれど、あの目で見られると、さすがに少し心拍数が上がった。でも手は動く。料理中の私の手は、心拍数に関係なく動く。それだけは、ずっとそうだった。


十五分後、スープが完成した。


「どうぞ」


彼の前にカップを置いた。


アルヴェルトはスープを見た。においを嗅いだ。それから――


一口、飲んだ。


沈黙。


私はその沈黙を観察した。


最初の三秒は変化なし。四秒目に、彼の眉が微かに寄った。五秒目に、目の焦点が変わった。それまでの「分析モード」から、何か別のものに。


「……」


六秒目に、彼はカップを置いた。


「もう一度、作れ」


「今、飲んだばかりです」


「明日も。明後日も」


「……それは命令ですか」


「依頼だ」


私は彼の顔を見た。


表情は変わっていない。口調も変わっていない。でも何かが、たった今変わった。


私には分からない。何が変わったかは、まだ。


「考えます」


「お前に考える理由があるか」


「あります。私は嫁いできましたが、料理人として来たわけではないでしょう」


一瞬の沈黙。


「……それはそうだ」


「ですから、条件があります」


「聞こう」


「厨房を自由に使う許可。材料の調達権。それから、ミオを助手につけること」


アルヴェルトはしばらく黙っていた。


計算している、という感じがした。損得を測っている。


「承諾した」


「ありがとうございます」


「一つ聞くが」


「はい」


「今、俺の体に何が起きている」


私は答えを考えた。


正直に言うべきか。でも正直に言えるほど、私もまだ分かっていない。


「……美味しいスープを飲んだ後の、自然な反応ではないですか」


「それにしては、妙に体が軽い」


「滋養のある食材を使いましたので」


「……そうか」


彼は立ち上がって、扉に向かった。


そこで一度振り返った。


「明日も、頼む」


命令でも依頼でもない、その言い方だった。


私は頷いた。彼が出ていくのを見送って、ため息をついた。


「ぐるる」


パフが袖から顔を出した。


「うん、分かってる」


何かが、始まった。


明らかに、何かが。


そしてそれが何なのか、今の私にはまだ見えていない。


でも――包丁を握るたびに感じるあの感覚、料理が完成する瞬間の微かな光、飲んだ者の体に走る変化。


これが魔法じゃないなら、いったい何なんだろう。


「……美味しいって言わせてみせる」


呟く。


それが私の言葉で、私の証明で、私の武器だ。


この世界がどんなルールで動いていても、私には包丁がある。


それだけで、十分だ。今は。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ