1 ラース、邪神と戦う――【百年前】
「ラースよ、邪神を打ち倒して参れ」
陛下の命令を、ラースは静かに受け止めた。
邪神には早急な対処が必要だ。だが、まさか一人で行けと命じられるとは。
与えられたのは一振りの剣だけだ。かつて邪神討伐のために聖女が祈りを捧げた聖剣だそうだが、長い間しまい込まれたそれは、もはや廃品同然に見えた。
「ラース! 邪神退治を命じられたのだろう!」
前方から掛けられた声にピタリと足を止め、ラースは廊下のわきに退いた。
やってきたのは半分血のつながった兄であり、この国の王太子だ。
兄のニヤニヤした顔つきを見て、ラースはひそかに納得した。
そうか、兄の進言か……。
「そなたになら楽勝だろう? 次期大魔法使いとも噂されるそなたなら!」
ラースは応えず、ただ頭を下げた。
兄の言葉はあまりに的外れだ。大魔法使いとはただの称号ではない。
あれは理を越えた者。只人にたどり着ける境地ではない。
ラースが無反応を貫いたことが面白くなかったのか、兄は舌打ちし踵を返した。
「はっ、せいぜい役に立つんだな!」
彼の足音が十分に遠ざかってから、ラースはようやく顔を上げた。
部屋に戻り、ラースはコツリと窓に頭を押し当て、暗い庭を見下ろした。
窓は鏡となってみすぼらしい王子の姿を映し出す。
短いクルミ色の髪に、深緑の瞳。いつもろくに人と目を合わせることもできずに、半分伏せられたまぶた。十五歳には到底見えない、華奢な体と少女じみた顔立ち。
人より成長が遅いのは、マナを身のうちに多く抱え込んでいる証拠だと、大魔法使いが言っていた。
愛妾の子でありながら、王子としてこの城に留め置かれるのは、魔法の才があったためだ。
だが、そのせいで母は離宮に追いやられ、ラースは王妃と兄に疎まれている。そして陛下にも――。
「陛下は、私に死んでこいというのだな……」
ラースは剣を携え、夜明けとともに城下へ続く長い階段を下っていた。
「一人で行くつもりか、ラース、水臭いのう!」
うしろからのんびりした声が聞こえて、ラースははじかれたように振り向いた。
二十代ほどに見える青年が朝焼けを背に立っていた。
水色の髪をゆったりと腰のあたりで結わえ、長身によく似合う紺色の長いローブをまとっている。
声と姿こそ若々しいが、彼は二百年以上この城を守りぬいてきた大魔法使いだ。
彼が愛用の革袋を肩にかけているのを見て、ラースは目を見開いた。
「グー、どうして……」
「邪神退治じゃぞ? そんな面白そうなことわしが見逃すと思ったか?」
言葉通り、グースレウスの瞳はいたずらっぽく輝いていた。浮き立ちそうになる心を、ラースは細い息とともに静める。
「だがグー、そなたがいなくては、この国の守りはどうなる」
「わしとおぬしが出向いて倒せぬなら、どのみちこの国はもうおしまいじゃ」
キッパリした言いぐさにラースは苦笑して、頷いた。
「違いない」
わざわざ握手など交わさない。二人はそうやってひっそりと出発した。
グーの言う通り、兵士をどれだけ引きつれようとも、邪神の前では無意味だ。
彼らは恐怖を糧にする。心の弱いものが近づけば、たちまち精神を蝕まれて、良くて廃人。悪ければ、邪神の手下となって味方を襲ってしまう。
その光景は人々の恐怖をあおり、そして邪神は、さらなる力を得るのだ。
だから他の者の手助けなど不要だった。
むしろ足手まといでしかない。
二人は馬に乗り王城から休まず南下した。
隣国の境界にほど近いこの場所は、かつてひどい内乱があった場所だ。
今は細々と村が形成されつつあったはずだ。
だが、二人が駆け付けたときにはすでに村は焦土と化していた。
ラースの足元で、炭化した何かがもろく崩れる。
慎重な足取りで焼け跡の中心部を目指す。
燃えるものなどすでにないはずなのに、その場所ではぶすぶすと煙が立っていた。
はじめそれは、焼け焦げた肉塊に見えた。
牛を三頭積み上げたくらいの大きさがある。
真っ黒な塊はラースたちの接近に気づき身じろぎし、ゆっくりと起き上がる。
邪神はサルに似た姿をしていた。毛皮の代わりに黒炎をまとい、金色の目を怪しく光らせている。
ゴウッと音を立て、突然炎が燃え上がった。
だが、ラースたちに届くことはない。
グーが魔法で防いだのだ。気負いもなく、ただ手を一振りしただけで。
もちろんラースも黙って見ていたわけではない。
すぐに魔法による攻撃を開始した。
ラースとグーは土くれを飛ばし、氷を突き立て、風を刃として少しずつ邪神を削っていった。
そうしながら、聖剣を振るう機会を探っていた。グーの見立てでは、加護はまだ残っているそうだ。だが、同時に「一度振るえば砕ける」とも言っていた。
好機は一度だけ。
邪神はグーとラースの攻撃を受け、肩で息をしている。
体の半分を削り取られもなお、彼は戦意を失うことなく怒りの咆哮を上げた。
突如轟音が鳴り響き、辺りに強風が吹き荒れた。むき出しの顔や手に、ピリピリと痛みが走ったものの、邪神の放ったいかずちは、グーの魔法の盾によって防がれた。
「さすがだな、グー!」
ラースも負けじと手の平にマナを貯め、邪神の腹めがけて氷の槍を打ち込んだ。「ギャッ!」と倒れこむ邪神の足元に、グーがすかさず木の実を投げつける。
「さあ、思う存分絡みつくんじゃ!」
グーが命じると、木の実は大地を割って芽吹き、瞬く間に蔓を伸ばして邪神に巻き付いた。
「今じゃ、ラース!」
邪神は狂ったように暴れ、蔓を引きちぎり口から炎を吐いて焼き払った。
だが、一手遅い。
ラースはすでに邪神の首に狙いを定めている。
深く息を吸い込み、止める。
同時にラースは剣を振るった。
――倒せる!
そう思った瞬間、聖剣に亀裂が入り、砕け散った。
「――あっ!」
ほんのわずかな焦りを糧にして、邪神はラースの細い首に手をかけた。
「おのれ許さんぞ! 人間の分際で……我を、ここまで追い詰めるとは!」
「いかん! ラース、しっかりせい!」
「呪ってやる! カ……バラとなって彷徨うがいい!」
今なんて? カピバラ?
次第にぼんやりする意識の向こうで、ラースは考えた。
カピバラというのはアレのことだろうか。温泉に入ってぬくぬくしている大きいネズミのことか?
ああ、それもいいかもな。カピバラになってのんびり暮らすのも。
輝かしい凱旋など、想像もできないラースにとっては、そちらの方がよほど魅力的に思えた。




