9、化け物と涙(2)
家は木造の平屋だった。
玄関の戸は開いていた。靴のまま中へ入る。家の中は廊下の辺りまで散らかっており、獣の匂いがする。家の外はゴミだらけだった。しかし中はそれほどではない。
部屋はどこも窓ガラスが割れており、雨戸が閉められていて薄暗い。一番奥の部屋が問題の部屋のようだった。斉藤がゆっくりと竹筒の先を木槌で叩き始めた。コンコン、という乾いた音が薄暗い家の中に響き渡る。もし猫が寝ていてもこれで起きるはずだ。
奥の部屋のドアの前で先頭の砂川がしゃがみこんだ。そして、ドアの取っ手に手を掛けようとした、そのとき――。
グラッ――
「なっ、何だ?」
突然、目の前の景色が回り始めた。固定されているはずのドアと廊下の壁が回転し始めた。グルグル回っている。自分も回っているようだ。思わずその場に倒れ込んだ。
「始まったな。斉藤、どうだ」
「今のところ大丈夫です」
何が起きているのかわからない。上を見ると砂川と斉藤がしゃがみこんでいる姿が見えた。起き上がることができない。
「冬介、立とうとするな。慣れるまでは座っていろ」
慣れるまで? どうやらこれが敵のスキルみたいだ。立ち上がるどころか、座ることなんかできないぞ。世界がグルグルしている。
まずい、これでは完全に足手まといだ――。
そんなことを考えていると、すぐそばで銃声が響いた。
そして、そのすぐ後に遠くで小さな悲鳴が上がったのが聞こえた。獣の声だ。
するとその直後にグルグルと回っていた世界がピタッと止まった。どうやらスキルが解除されたみたいだ。二人が立ち上がり、部屋へと入っていく。
遅れて俺も後に続くと、そこには大型犬くらいの大きさの猫が床に横たわってこちらを見上げている姿があった。片方の目がつぶれていた。おそらく病気か何かだろう。腹部を撃ち抜かれて血が流れている。
「捕獲できるかもしれんな」
「どうでしょう。致命打ではないですが、腸を撃ち抜いてます。長くは持たないかと」
砂川と斎藤が猫を見下ろしながらスキルで威圧している。猫は上体を起こそうとして抗っている。
部屋は薄暗くてよく見えないが、他の部屋よりも散らかってはいないように見えた。不自然に片付けられたような跡がある。衣類の上にやかんが乗っていたり、ものが無造作に一ヶ所に集められたりしている。まるで勝手のわからない子供が片付けた跡のように見えた。排泄物の跡もこの部屋には見られない。
どうやらこの部屋は寝室のようだ。端に布団がある。殺害現場はあの写真から見ると居間のようだった。
「あれは何でしょう」
斉藤がそう言うと、猫が何かを下敷きにして倒れているのを見つけて、それを引っ張り出して砂川に見せた。
どうやら何かのノートみたいだった。
「……」
砂川はそれを少しだけ眺めた後、おもむろに右手に火気をつくり始めた。
「いいのですか?」
斉藤の声には答えず、そのままノートを燃やそうとする。その直後――。
「ガアアッ!!」
ダンッ――
「ぐおっ、な、何だ――?」
全員が壁に叩きつけられた。
ドアがあった方の手前の壁に背中から、叩きつけられたというよりはまるで落下したような感覚だった。
前方を見ると床が真っすぐに伸びている。その先で猫が上体を起こしてその床に乗っている。猫だけでなく布団やストーブまで床に乗って見える。
今度は世界が四半分回転してしまったようだ。天井と思われる場所に西側の窓があり、足元から伸びる壁に全部が張り付いている。
布陣型自由スキル、【天地無用】。
砂川と斉藤もこれには対抗できないようだった。
そしてさらに、それに追い打ちをかけるかのように三人の目の前にそれが映った。
ちょうど猫のいる場所と倒れている俺たちとの間に、先ほど砂川が放った火気が中途半端に燃えながら落ちていたのだ。
まずい、消さないと火がつく――。
しかし、身動きが取れない。凄まじい力で押さえ込まれているかのように起き上がることができなかった。
実際には壁を背にして立っているだけのはずなのだが、全く動けない。
猫は完全に起き上がり、こちらを見据えている。スキルを解く気はないらしい。床のゴミに火がついた。
「う、おおおおおっ!!」
全身に力を込めた。しかし、体が変に力むだけだ。こうじゃない。こんな単純な力じゃないはずだ。
どうすればいい。源力っていうのはどうやって使うんだ。
そのとき、床に落ちていたあのノートがふと目に入った。開いた状態で落ちている。ページには日付と文字が書いてあった。
日記のようだ。おそらく飼い主の女性が書いたものだ。
“もう何も買えない”
何も買えない――餌のことか?
“もう生きたくない、ごめんね”
日付は最近だ。おそらく死ぬ間際に書かれたものだ。
――もう一度会いたい。
最後の一文だ。
そのとき、暗闇の中で夫婦と猫の姿が映って見えた。
小さなテーブルを囲んで笑っているように見えた。
気がつくと俺は無心で猫のスキルを破っていた。
急いで窓のところへ行き雨戸をこじ開けた。
外はすっかり明るくなっていた。
火はもう取り返しのつかない状態になっており、その後、三人は急いでその場から脱出した。
燃える炎の中で、俺はいつまでもあの猫の姿を思い出していた。
逃げるとき、視界の隅の方で猫が日記を下に、またうずくまる姿が映ったような気がした。
最後に見た猫の片目には、何もない静かな眼差しだけが残っていた。
こうして最初の任務は終わりを告げた。
しかし、それはあまりにも後味の悪いものだった。
俺があの日記を見たとき、その姿を見てあの猫はスキルを弱めた。
俺は源力持ちでも抜庭でも何でもない、ただのひ弱な人間だ。
猫にまで助けられてしまう、どうしようもない人間なんだ。