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113、枢意エネルギー

 悪意の反対は善意ではない。

 悪の反対は善ではない。


 善というものは世の中の事象のうちの何がよくて何が悪いかを知っていればそれを実行するだけでいいからだ。代償を伴わないものだ。これは本当の善ではない。では本当の善とは何だろう。


 ここに悪意がある。人が出す負の産物だ。

 誰かが苦しむ姿を見て自分じゃないと思う。

 誰かの不幸な姿を見て自分じゃないと安心する。

 こういった邪(よこしま)は誰もが出すものだろう。その集積が集合思念壊無(えむ)だ。

 遥か昔に大宿り主が人々の安息を祈り、邪を引き受けるようになった。そのときに処理しきれなくなった邪。そうして生まれたのが壊無だ。


 冬介は森の中で自分の邪を恥じた。それは自身に伸し掛かり苦しみとなった。これが壊無を一切出さないやり方だ。

 このように自分の邪は自分で悔い改めて処理するのが自然な姿だが、いつからかそれを引き受ける大宿り主が現れる。


 邪が悪ならその反対、不幸だったり苦しんでいる人間が善ということになる。

 つまり悪と邪の反対は苦しみだ。本物の善とは苦しむことだ。

 とある男がいる。この男は心にある制約を負っていた。あるものを思い浮かべてはいけないという制約だ。それは壮絶な葛藤だ。ポケットの中に安全ピンを持っており、思い出しそうになるとそれで足を刺した。周りが見えない。何もせずにただそこにいることさえ苦しかった。彼の精神世界は非常に窮屈なものとなり、髪も髭も伸び放題で煤けた服を着て部屋で俯く。ある日、病院の受付で下を向いて硬直していた。思い浮かべてはいけない回路が働いている。それは人を傷つけてしまうというイメージだ。あるとき、ラジオを聴いているとき、ふと心細い気持ちに襲われた。すると司会の人間が舌を噛んだ。何かがつまずくような気がした。すると同時に舌を噛んだ。道を歩いている子どもが転ぶと思えば転び、喋っている人間が舌を噛むと思えば舌を噛む。これは偶然ではなく、ネガティブな気配を出すと周りもそれに引きずられるという現象が稀にある。bタキオンの一種だ。男はそんな稀なネガティブな気配を出し、物事を誇張して捉えるのもこういった人間の特徴だ。自分にはイメージしたものが現実になるという特殊能力があると思い込んだ。それは絶望的な時間の始まりだった。人の姿が壊れる妄想をする。妄想は行動よりも簡単だ。次々と湧いてくる。男はその全てを抑え込んだ。現実のものにするわけにはいかない。実際にイメージ通りに人が傷ついたことはない。自分が抑え込んでいるからだ。ここでもそう思い込んでしまった。腹の底から力んで抑える。年中無休、二十四時間営業だ。話だけ聞けば誰もが滑稽だというだろう。しかし男にとっては切実な問題だ。もの凄い形相で前のめりになって力んで俯いている。命が懸かっているからだ。安全ピンをズボン越しに刺す。子どもでも呆れるほどの愚かさだ。しかし受付の女はそれを見て涙を零しそうになっている。これが男から女への善だ。この男は、後に世界を救うきっかけとなる男だ。乞食のような格好をして病院の前の坂道を下りていく。ときどき立ち止まる。思い浮かべないための作業が始まっている。それを窓の向こうに看護婦たちが憐れんで見る。彼はこの先、死ぬまであの作業を続けるのだろうか。


 集合思念壊無。


 人の悪意の結晶だ。

 生存本能と呼べるものがあるのかもしれない。それはわかっている。どこにその潜在的な可能性があるのかを。自分をいつか脅かすであろう潜在的な力の可能性だ。しかしこれは賭けでもある。もし討ち損じればより力をつけるかもしれない。

 今は水面下での戦いだ。それは何かしらの胎動だ。


 男は一人、精神の牢獄の中にいる。

 壊無の照準はそれを逃さず捉えた。

 その結果だ。

 壊無は自分を消し去る力を持つであろう人間を先回りして殺していった。


 人間誰もの願いだ。

 どうか、死なないで。


 しかし、祈りも願いも必要ない。

 壊無の殺しは失敗に終わる。


 彼はイメージの中で人を守り続けた。思い浮かべない作業という休みのない苦しみだけを、それを遂行するだけの人生をやり抜いたのだ。


 ここにエネルギーの奔流がある。それは黒い螺旋を描き、天空へとそびえる。遠い宙の果てから見ると地球上にいくつもの黒い螺旋が突き立ち、渦を巻いているのが見える。これを枢意エネルギーという。壊無の与えた役に打ち勝ったものたちの消息だ。これは壊無を抑える力を持つ。現在、全世界において思い浮かべないという役を退けた、彼の螺旋がその高度において第一等だ。そこにさらに他の精神病患者たちが後に続く。

 この世界を維持する秩序ともいうべき枢意エネルギー。苦しみの対価だ。この世に精算されないものはない。壊無を凌ぐ力は各地で今、揃いつつある。しかし、壊無を生み出す人の悪意も際限なく作られ続ける。戦いだ。敗れるわけにはいかない。

 壊無に対抗する精神的苦痛を持つもの。いじめ、病気、自殺。ユグドラシルでも彼らを取り囲む周囲の気配は次第に思いやりとなりつつある。一人も失うわけにはいかない。中心が苦しみ、周りが支える。霊的な視点で見れば、世界ははっきりと壊無対人間の全身全霊をかけた全面戦争になりつつあるのだ。


 冬介は白い無限空間がずっと苦しみだった。遥かな先まで広がる真っ白な世界。何もないというのは恐怖だ。部屋の中に洋服や飲み物や食べ物や本などを散乱させているものは少なくない。人間は散らかっていることによって本能的に落ち着く習性がある。動物的本能だ。整理整頓された動物の巣はない。何もない空間よりも、何かがあることで安心するのだ。

 冬介の白い無限空間は今では砂川と果歩、その他に座卓の前でお茶菓子を摘まんでいる佐藤小豆。そのそばに眼鏡を拭いている斉藤政次。そして猿田、ノエル、芽留だけでなく、露九戊もいる。一番遠くには風呂に浸かっている寿郎もいた。この前まではいなかった室井義範もいる。たばこの数を数えている。人だけでなくものもいくつか見える。室井と買いにいったたばこの自動販売機もそこにある。背後にはいつの間にか自分の部屋があり、フクメンとビタモンの人形が並んでいた。ものはこれからも増えていくだろう。もう怖くない。これが冬介の白い世界だ。

 慶一は飾蒲生からの外壁に悩まされていた。それ以外にも彼は自身の中に眠る御力を抑え続けた。吾妻家の男児に受け継がれてきた外道が血と共に騒いだからだ。俺は誰のコントロールも受けない。それは古代人が世界を安定させるために残したという御力そのもののことだった。俺の体は俺のものだ。誰の指図も受けない。そういって最後には御力と外壁を屈服させた。定型技能(プラクティス)と御力は元々古代人のものだ。古代人に逆らう形となった慶一の生き方は定型技能を覚えられないという結果に至る。慶一の外道はときどき表に現れる。そのときは御力も抑えから解放されることになる。飾蒲生の外壁は一時、爆発的な殺傷能力を持った。五年前の壊無の影響によるものだ。このときに御力持ちを大量に殺し、天体観測へ移行した。慶一はこのとき、殺しの外門を受けて源力を得ている。これら外と内からの干渉に抗う精神的な戦いは精神病といってもいいぐらい悲惨なものだった。

 筧行郎は精神病に陥り、神部から呪いを受けて源力を得ている。藤嶋への復讐を誓ったが、精神病になりそれは覚束なくなった。

 このように抜庭は全員かなりの消極的な精神世界に由来する枢意エネルギーを持っている。



 夜の食堂内にて。

 いつも通り三人で食卓を囲んでいる。


「冒険者ってどれぐらいいるのですか?」


 三人とも蕎麦を注文した後で尋ねてみた。


「いっぱいいるよ。青学を卒業することが条件になっているからスキルを持っていることが前提だが、スキルの有無は特に審査されない。その代わり体力と知能審査がある。この二つは推薦を受ければパスされるが、多くの一般人は受けることになる。知能審査は少し変わっている。いくつかあるテーマの中から一つ選んで短編小説を書いて下さい、と言われたり、あなたの価値観や死生観を表現した随筆を書いて下さい、と言われる。小説のテーマはSFだったりディストピアだったり色々あるな。その人間の奥深さを審査するんだ。ここで優秀だった作品は実際に書籍となって売られてもいるよ。冒険者の資格を得たままそこで小説家としての才能を自覚して小説を書き続ける冒険者も中にはいるな」


 それは知らなかった。支部長である露九戊の推薦で入ったからだ。


「とにかく冒険者はなろうとするやつもなっているやつも多い。ピンからキリまでいるけどな」


 猿田は知能審査で短歌を作ったらしい。ノエルは詩文だ。

 冒険者協会というのはなかなか粋な審査をするものだ。


「今日の蕎麦はうまいな」


 ノエルが珍しく料理を褒めている。


「俺たちは蕎麦の絆で結ばれたドメインだ」


 確かに蕎麦はうまい。きっと俺が小麦なのだろう。


「よし、写真撮ろう」


 そう言って猿田が携帯を水の入ったコップに立てかけた。


「何しているんだ、お前たち」


 芽留がタイミングよくやってきた。


「いよ、仕事帰り」


「芽留さんも入って下さい」


 パシャ


 四人の記念写真が撮れた。座卓に蕎麦が三つ並んでいる。

 後でみんなの携帯にも送ってもらった。


 記念写真だ。この一枚があとでどれほど大事なものになるか、このときの俺はまだ知らない。

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