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後編

 それからというもの、俺の視界には必ずと言っていいほど井沢がいた。井沢が果たして本当に本気であのチョコレートを俺に渡したのかを見極めるのが第一の目的だったのだが、そのためにはまず井沢の性格を把握しなければ話にならないと思ったからだ。

 まず最初に、時折教室中に響き渡るほどの声は、大きいというよりもむしろよく通るのだという事に気がついた。体育館での卒業式の練習で、一人ずつ名前を呼ばれる時の返答が、大きさはさほどないようなのに、静まり返った体育館の隅にまで届いているのが分かったのだ。

 笑う時は、お前女だろうが、と突っ込みを入れたくなるほど豪快に楽しそうに笑う。大げさなほどのリアクションだが、数人で内緒話をしてはくすくす笑っている奴よりはましだと思えた。

 友人はそれなりに多いようだが、男とはあまり話をしていない。まともに話をしている所を見かけたのは、吉野と熊本、あとは同じ光学部の奴らくらいだろうか。隣のクラスの小室とは、中学一年の時からの友人だとか。思った事をすぐに口に出してしまう傾向が強く、それで人付き合いがこじれる事もあるようだ。後悔しては毎回深く反省するらしいのだが、学習機能が足りていないのだろうか。

 現国と古典が得意で、漢文は苦手。それ以上に英語全般が苦手で、そんなのでよく文系クラスに通っているものだと呆れた。社会も苦手で数学はそれなり。化学と生物は得意だが、物理はどん底。文系も理系も得意と苦手が混在するという、なんとも不可思議な頭の造りをしているらしい。体育が得意というよりも、体を動かす事が好きなようだ。短距離では、運動部並みの足の速さ。バスケの時は、ディフェンスで手を上下左右に振りまわしている姿を見た吉野が、千手観音のようだと笑っていた。

 俺がセンター試験を利用した国公立大と私大をいくつか受験するのに比べ、どうやら井沢は商業科がある短大の一般入試一本に絞っているらしい。よほど自信があるのか、それともよほどの馬鹿なのか。不合格だった場合の事を考えていないのだろうか。

 熊本からの情報では、最初は就職を希望していたが、二生年の三学期に商業系の専門学校に変更。さらに両親から大学か短大へ進学するように強く請われ、三年の夏になって進路を変更したのだそうだ。自宅から通える商業科のある短大が二校しかなく、そのうちの一校は、入学金と授業料が高く却下。もう一校が、相場よりも安いという理由で受験を決めたらしい。入学金は両親が払うが授業料は出世払いの約束までしているというから、井沢なりにいろいろ考えての結果のようだ。時期的に推薦入試に間に合わなかったのだが、推薦を受けられるような成績でもなかったのだとか。そんな理由から担任も、滑り止め的な他校の受験を勧めようとはしなかったらしい。

 なぜ熊本がそれだけの情報を持っているのかと訝しんだが、進路調査の時期にちょうど席が井沢の後ろで、本人から直接聞いたという。進路の話を、たまたま席が近いという理由だけでたいして親しくもない熊本にしてしまうあたり、実はあまり物事を深く考えていないのかもしれない。

 少し気が短くて負けず嫌いでおっちょこちょいで、落ち着きがなくて勉強が嫌い。低血圧で朝に弱くて、完全な夜型人間。ぼーっとしているからか物忘れがひどく、いつも陽気で元気すぎるほどに元気。喜怒哀楽が激しく、落ち込んでも立ち直りが驚くほどに素早い。考えている事がすぐに顔と口に出るためないしょごとなどは苦手だが、他人の秘密に関しては貝のように口が堅い。だから友人から相談を持ちかけられる事も少なくはなく、いちいち親身になれるほどのお人好し。好きな事には一生懸命で、突っ走りすぎて時々エンジンが切れたかのように失速する。

 それが、卒業式までの自由登校日のほんの一週間で得た情報だった。けれど井沢という人間が周囲から受けている評価は、恐らくこれがすべてであり事実なのだろう。とてもではないが、からかい目的で告白などするような奴じゃない。

 そしてその事実は、俺の井沢に対する評価が間違っていた事を自覚せずにはいられないだけの重さを伴っていた。




 井沢は、卒業式に姿を見せなかった。

 運悪く唯一の受験がその日に重なったためだったのだが、当日撮影された卒業写真にも、当然ながら井沢の姿は写っていない。井沢の友人達はもちろん、吉野や熊本までもがそれを知っていた事に驚いた。知ろうとすれば知り得たはずのその情報は、けれどその努力を怠った俺に、事前にもたらされる事はなかったのだ。

 校内コーラス大会の時には人一倍張り切っていた井沢が、卒業式の練習の時に気合が入らず気だるそうだった事を思い出す。らしくないなと感じてはいたのだが、その理由にようやく合点がいった。

 井沢は、俺の勝手な勘違いと思いこみで傷ついたまま、一足早く学校を去っていたのだ。




 手に持った荷物が立てるがさりという物音に我に返り、目の前の見知らぬ景色に意識を戻す。初めて訪れた街並みの中、道行く人達も当然知らない顔ばかりだ。まるで珍しい物でも見るような視線を向けられるのは、恐らく俺の手にあるこれのせいだろう。

 空いている方の手で、上着のポケットに突っ込んでいた携帯電話を取り出す。画面に呼び出したアドレス帳のデータを確認して、俺は発信ボタンを押した。

 僅かの間の後聞こえて来る呼び出し音に、しなくてもいい緊張をしてしまったらしく、心臓の落ち着きがなくなっていくのが分かる。

≪はい?≫

 呼び出し音が途切れ、電話越しに訝しむような響きの声が聞こえると、俺はほっと息を吐いた。

「俺、足立だけど」

 電話の向こうで息をのむ気配が伝わって来る。

≪足立、くん? え? な、んで?≫

 動揺しているその姿が目に浮かぶようで、それまで感じていた焦りや緊張が解れていく気がした。

「小室さんから、携番を教えてもらった」

 そう。あの卒業式の日。式が終わり教室での担任との挨拶をすませた俺は、友人達がかけて来る声にも応えずに、隣の教室に飛び込んだ。こちらも既に挨拶などは終わっていたらしく、互いに写真を撮りあったり別れを惜しんで抱き合ったりしている中を、俺はまっすぐに目指す相手のもとに向かった。

 小室かおりの腕をとり強引に教室の外に連れ出すと、勘違いした連中がなにやら騒がしい声を上げていたが、そんな事には頓着しない。手を離し、相変わらず鋭い目つきで敵愾心を露わにしている小室に、深々と頭を下げた。

『まだ、井沢さんに謝っていないんだ』

 だから連絡先を教えてほしいと、拒否される事を覚悟で頼み込んだ。驚いたように大きな目を見開いた小室は、けれど予想外にあっさりと望みを叶えてくれた。

『ひーこちゃんを傷つけた事、やっと認める気になったんだ? ちゃんと謝るのよね?』

 念を押されて頷くと、その眼から、ずっと感じていた刺々しさが消えていた。ああ、そうなのか、と。その時、妙に納得をしたのだ。

 あの時。普段穏やかでおっとりとしている小室が、形相を変えてまで俺に詰め寄って来た。滅多に怒りを面に出す事などない小室にこれだけ慕われている井沢が、人の心を弄ぶような事をする奴のはずがないのだと、再確認したと言うべきか。

『携帯、貸して』

 言われるままに携帯電話を差し出すと、小室は慣れた手つきでボタンを操作していた。ほどなく戻って来た俺の携帯電話の画面には、見知らぬ電話番号が表示されていた。〇九〇で始まるそれが携帯番号を意味する物だと理解して、アドレス帳に登録しておいた。さらに小室は、メモに走り書きで井沢の住所まで書いて渡して来た。謝りに行くのなら必要だろうと。どうやらこれから先、小室には頭が上がらなくなりそうだという嫌な考えが頭を過ぎったが、この際それも仕方がないかとあきらめた。

「今、井沢さんの家のすぐ近くまで来ているんだ。出て来られないか?」

≪近く?≫

 実は、井沢の家の目と鼻の先にまで来ている。その事を告げると、井沢は

≪す、すぐに、行くっ!≫

 と叫んで電話を切ってしまった。やっぱりおっちょこちょいで落ち着きがないのは間違いがないなと思うと、おかしさがこみ上げて来る。

 川の堤防を兼ねた土手でぼんやり待つ事五分余り。その間頭を占めていたのは、何日も前から考えていた、井沢に対する謝罪の言葉だ。

 名を呼ぶ声に振り返ると、完全に部屋着だろう、トレーナーにジーンズ姿という出で立ちの井沢がいた。恐らく慌てて出て来たのだろうが、ショートカットの髪のところどころが跳ねている。

 手に持った物を井沢に差し出すと、予想通り驚いたように、一重の目を大きく見開いた。見開いていても普段の小室よりも目が細いんだなと、どうでもいい事を考える。

「え? なに、これ?」

「今日、ホワイトデーだろう」

 訳がわからないといいたげな表情をこちらに向ける井沢に端的に説明すると、あ、と小さく声が漏れた。

「えーっと。もしかして、もらって、いいの?」

「他に誰に渡すんだよ」

 今この場にいるのは、俺と井沢の二人だけだ。

「や、まあ、そうなんだけど」

 ためらいながらなかなか受け取ろうとしない井沢に業を煮やし、俺はずいっと彼女の胸元にそれを押し付けた。そしておもむろに手を離すと、落ちかけるそれを井沢が慌てて受け止める。

「うわあ。花束なんて、両親の結婚式以来だ」

「え」

 いきなりとんでもない事を言い出した井沢を、ぎょっとして見つめた。

「うちの両親、わたしが十二歳の時に再婚したの。その結婚式のお祝いの花束を、お義父さんからもらって以来。よく考えると、あの時からお義父さんの親ばか子煩悩が始まっていたんだなあ。って、ご、ごめんね、こんな事足立君に話しても仕方ないのに」

 てへへ、と半分花に埋もれさせながら困ったような笑みを浮かべている顔が、けれどどことなく嬉しそうに見える。

「卒業式、いなかっただろう」

「あー、うん。受験だったから」

「あの日、井沢さんに謝ろうと思っていたんだ」

「謝る?」

「井沢さんの事をよく知りもしないで、俺の勝手な思い込みで傷つけたままだった」

 井沢の体が強張ったのが、見ていても分かった。

「小室さんに言われたからじゃないけれど、あれから井沢さんの事をいろいろ知ってみて、俺が間違っていたって分かったから。だから、ごめん」

 俺は、井沢に向かって深々と頭を下げた。それは卒業式の日に小室に対して取ったのと同じ態度で。

「ああ、そっか、そうだよ、ね。だから、この花束、なんだ?」

 溜息とともに吐き出された呟きのような声を聞きとめ、俺は顔を上げた。花に埋もれた表情は、俺からは見る事ができない。

「うん、分かってくれたのなら、もういい、よ。わざわざ、ありがとう」

「井沢さん」

 名前を呼ぶと、びくりと肩が大きく跳ねた。泣いているのかと思ったが、ゆっくりと持ち上げられた顔には薄い笑いを刷いていて、正直ほっとした。

「あのチョコレート、捨てられたのかと思っていたんだけど。そうじゃなかったって、かゆちゃんから聞いて嬉しかった。ありがとう」

 どことなく震えながらのその言葉に、俺は返答に詰まった。そう、嘘は言っていない。捨てていないのは確かなのだが。

 あの後予備校に行き、筆記用具やテキスト類を机の上に出した際、とりあえず鞄の中に入れておこうと小さな包みを机の上に出した。それを目ざとく見つけた隣の席の奴に本命かと指摘され、正直に『違う』と答えた。どうやらそいつは義理チョコの一つももらえなかったらしく、ひどく羨ましがられてしまった。そしてどうせ処遇に困る物だからと、欲しがられるに任せて渡してしまったのだ。

 捨ててはいないがそれに近い事をしてしまったのだと、井沢の事を知るにつれ、後悔の念に駆られるようになっていた。

「井沢さん。実はあのチョコレート」

 俺が後ろめたさに苛まれて事実を話してしまうと、井沢の顔色が明らかに変わる。僅かに浮かんでいた笑みさえも消えていた。

「足立君」

 いきなりずいっと、渡したはずの花束を押し付けられた。

「これ、いらないから」

「え」

 あまりに意外なその言葉にうっかりそれを受け取ってしまい、茫然として井沢を見る。あのバレンタインデー以来どうしても俺と目を合わせようとしなかった彼女の視線が、初めて真っ直ぐに俺に向けられていた。

 上目遣いでまるで睨むように見上げられ、その眼に込められた力の強さとあまりの綺麗さに見惚れてしまった。そういえば井沢の眼が澄んでいて羨ましい、と、誰かが言っていた事を思い出す。

「足立君、わたしの事、何だと思ってるの? 馬鹿にするのもいい加減にして。確かに馬鹿だけど。足立君から見れば、きっと救いようのないくらいの馬鹿だけど」

 細い肩が震えているように見えるのは、俺の眼の錯覚ではないはずだ。

「わたしは、足立君に、気持ちを伝えたかっただけなの。知ってほしかっただけなの。誤解されて悲しくて辛かったけれど、こんな物が欲しかったわけじゃない。そんな言葉が欲しかったわけじゃない。なんで。どうして、よりによって、今日なの。そんな話を聞かされるくらいなら、チョコレートなんて、いっそ捨てられた方がましだった。分かったって、いったいわたしのなにを分かってくれたの? この花は、何のための花?」

 花束を持った手に、じわりと汗がにじむ。何のための物なのかはさっき伝えたはずではないか。そう思っても、からからに乾いた喉からは声が出てこない。

「足立君の気持ちは、分かったから。分かりたくないけど、そこまで馬鹿じゃないから。だから、用が済んだのなら、もう帰って」

 泣き出しそうに歪んだ井沢の表情を見て、愕然とした。俺はいったい井沢の何を分かっていたというのか。分かったつもりでいただけだったのではないだろうか。

 井沢の目尻からぽろりと大粒の涙が落ちるのを見た時、体中の体温が一気に冷えた気がした。




 思えば俺は、子供のころから理屈っぽい人間だった。何にでも説明を求め、たとえ大人相手であっても納得がいくまで踏み込んで追及するような、可愛げのないガキだった。他人に対してのみならず、自分自身の行動に対しても、無理矢理でもこじつけでも何でもいいから理由を必要とした。屁理屈も理屈のうちを地でいくような考え方は、年を経るごと知識を得るごとに強くなる傾向にあった。

 ほとんど言葉を交わした事のない井沢陽菜乃が俺にチョコレートを渡そうとした時も、その理由が全く分からなかった。だから俺なりに、勝手に理由をこじつけてしまったのだ。誰かに唆されたか何かのゲームの一環で告白させられたのか、と。そうでなければ彼女の行動を説明できない、と、本気でそう思っていた。だからこそ、俺は井沢に対してあんな暴言を吐いたのだ。

 小室かおりに詰め寄られるまでもなく、本当は心のどこかで分かっていたのかもしれない。たとえ十ヶ月間も同じ教室という閉鎖的な空間の中にいたにもかかわらず、井沢の表面上しか見ていなかったのだとしても。現に付き合いが浅いはずの吉野や熊本までもが、井沢には可愛い所があるのだと、彼女のいい面もちゃんと見ていたというのに。

 それでも俺は、井沢を傷つけてしまった事に対する理由を、自分に求めずにはいられなかった。そうする事で無意識のうちに、あの暴言を正当化しようとしていたのだろう。

 けれど吉野と熊本から聞かされる井沢の日ごろの様子、周囲からの彼女に対する評価を知るにつけ、次第に俺の思い込みが間違っていたのだと理解しないわけにはいかなくなった。その期に及んでもなお、俺は自分の行動に対する理由を必死に求めていた。

 そして。何の非もないはずの井沢を傷つけた事に対する罪の意識に苛まれた俺は、その重さから解放されるためつまりは自分自身のために、井沢に謝罪する事を選んだ。傷つけた事を、井沢に謝罪するための根拠と理由にしたのだ。その事で彼女をより深く傷つけるであろう事を、予想しもしないで。

 俺が取った言動の結果、目の前で涙を流している井沢の姿を目の当たりにするまで、間抜けにも俺は、自分の犯した罪を本当の意味で理解していなかったのだ。謝罪の意を込めた俺の良心とも言える花束を突き返されるなどという、井沢の予想外の行動に理不尽な憤りさえも感じて。

「も、いいから。どうせもう、会う事もない、と思うから。だから、このまま帰って。これ以上、掻き回さないでよお」

 言葉の合間合間にしゃくり上げ、鼻水をすする井沢の姿は、まるで幼い子供のように見える。分かっていたはずだ。井沢は純粋で純情で、とても嘘などつけない性格をしている。だからこそ、とても傷つきやすいのだという事を。

 分かっていたはずの俺が、井沢を泣かせている。それを見ながら己の行動を冷静に解析しているような、冷たい人間なのだ。

 けれど。子供のように手の甲で頬を拭いながら泣き続ける井沢が、どうしようもなくいじらしく見えて。どうしてもこのまま放っておくなど、できそうにもなくて。こんな時にまで理由をつけようとする俺自身が滑稽に思えた。

 花束は邪魔だと思い、けれど踏んだりする事がないように、一歩離れた足もとに置く。深呼吸を一つして、肺に新鮮な空気を送り込む。先ほどまでごちゃごちゃ考えて煮詰まっていた頭が、とたんにすっきりとした。

 意を決して腕を伸ばし、震える細い肩に触れてみる。びくりと勢いよく跳ねた肩が逃げ出そうとする前に、掴んで、引き寄せた。

 凍りついたように動かなくなる体は、予想通りあまり肉が付いていない。それでも夏の体育の授業で水着姿を見た時には、もう少しましだったなと思い出す。もしかすると俺の言動で傷つけた事で痩せたのかと思うと、いてもたってもいられなくなって、背に回した腕に力を込めた。

「な、なにっ?」

 慌てて身を捩る井沢を、けれど放す事などできなくて、抱きしめるというよりもむしろ縋りつくかのように抱き込んでしまう。

「ごめん。ごめん、井沢さん」

 他にもっと言うべき事があるはずなのに、出て来るのは謝罪の言葉ばかりで。そんなものはさっき井沢に拒絶されたばかりだというのに、そうする事しか知らないかのように、ただひたすら同じ言葉を繰り返す。

「あ、だちく、ん?」

 気がつくと、井沢の戸惑うような声が耳に届いた。ようやく腕の力を少し緩めると、ほっと息をつく気配が伝わる。よくよく考えてみると、力いっぱい締め上げてしまっていたようなもので、華奢な井沢が苦しくないはずがなかった。

「あ。えっと、悪い」

「いいよ、大丈夫」

 さらに腕に入れた力を抜く。それでも井沢を囲い込んだまま放す事ができなくて、これはいったいどうした事だと自問した。

「わたしも、ちょっと感情的になりすぎたから。ごめんね」

 僅かに身じろぎする井沢は、恐らくその気になれば逃げ出せるはずなのに、そうしようとはしない。それどころか、宙をさまよっていた腕が俺の背に回され、とんとんと規則正しいリズムでやさしく撫でられていた。そのぬくもりが、なぜだか泣きたいほどに切ない。

「お花、ありがとう。わたしのために持って来てくれたのよね。さっきは勢いでいらないって言っちゃったけど、やっぱりもらっておいてもいい?」

 驚いて、体を離した。背中を抱いていた手は、無意識のうちに井沢の腕を掴んでいる。まるで逃げられる事を恐れるかのようなその行動が、自分でも不可解だった。

「そ、れは、もちろん」

 井沢の頬に血色が戻り、さらにはぎこちなさはあるものの笑みまで浮かべている。

「足立君の気持ちは、ちゃんと受け取るから。だからもうあの日の事は、お互いなかった事に」

「冗談じゃない」

 全てを言い終わるのを待たずに否定する。今さらなかった事になど、できるはずがなかった。

 井沢が俺に想いを寄せてくれていた事を。一度ならず二度までも、俺が井沢を傷つけてしまった事を。井沢という人間を知り得た事を。俺が今抱いている、この不可解な感情を。そのすべてを忘れる事など、できるはずがない。

 俺は深呼吸を一つして、ゆっくりと井沢の腕を放した。足下に置いてあった花束を拾い上げ、戸惑ったようにその様を見つめている井沢に差し出す。

 この不可解な感情の正体は、多分、すぐに分かるだろう。あのたった一つのチョコレートが起こした中で、恐らくこれが一番の奇跡だから。何の根拠もないけれど、なぜだかそんな気がした。

「井沢さん。まだ時間、大丈夫かな」

「は、はい? うん」

「聞いてほしい、話があるんだ」

 理屈も理由もあとからいくらでも作ればいい。そんな不遜な事を考えながら。

 目の前にいる彼女を捕まえておくためには、さて、どこから話せばいいのだろうかと、俺はこっそり思案を巡らせた。

※この作品は、2007年2月に書いたものです。大学受験システム・日程等は当時のもので、現在とは異なっていますので、ご了承下さい。

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