(3)
「じゃあ、さっそくあんみつを作ろうか。と言っても、今日は寒天を作るだけだね。固めるのに時間がかかるから」
次の日。夕ご飯を食べたあと、おばあちゃんが割烹着を着直して腕まくりをした。
「え~っ、そうなんだ……」
私はすっかり、今日のデザートにあんみつが食べられると思って、すっかりあんみみつ腹になっていたのに。アイスや缶詰の果物も、たくさん買いに行ってしまった。
「まあまあ。明日はちょうど定休日だし、三時のおやつに間に合うように残りを作ればいいよ。座敷童だって子どものあやかしなんだから、夜は早く寝てしまうかもしれないし」
「そっか。そういえばそうだよね」
今日はお店の厨房ではなく家の台所で、おばあちゃんとお料理。
厨房ほど広くはないけれど、ほとんどステンレスの厨房とは違って、タイルの壁や木の作り棚がレトロで好きだ。たくさんの料理を作るのは厨房が向いているけど、毎日の素朴なごはんを作るならこんな台所が落ち着くよね、と思う。
寒天って、粉をお湯に溶かすだけでできるものだと思っていたけれど、煮る時間や火加減がけっこうシビアらしい。煮すぎたり、煮る時間が短いと食感が悪くなってしまうのだとか。
粉寒天とゼラチンを半分ずつ使うとお店の寒天のような食感になるらしいので、今日はそのやり方で作ってみることになった。
中火にかけたお鍋をかきまぜながら、おばあちゃんに訊いてみる。
「……おばあちゃんは、大切な約束を忘れて、誰かを怒らせちゃったことって、ある?」
「逆ならあるよ。おじいちゃんに結婚記念日を忘れられて、私が怒ったことなら」
おばあちゃんは、ふふっと笑いながら教えてくれたのだが、私はびっくりして木べらを動かす手を止めてしまった。
「ええ~っ。おばあちゃんでも、怒ることなんてあるんだ」
私の記憶では、おばあちゃんに怒られたことは一回もない。いつも怒るのはお父さんやお母さんの役目で、おばあちゃんは叱られた私を優しくなぐさめてくれた。
だからおばあちゃんが怒るところなんて、まったく想像ができないのだけど……。
「そりゃあ、ありますよ。まだ夏葵が小さいころだったんだけどねえ、結婚記念日だからと思って、お店が終わったあとごちそうを作ったんだよ。おじいちゃんの好きなものばっかりたくさん。でもおじいちゃんったら、閉店間際に来た常連さんと一緒にお酒を飲んじゃったみたいで、酔い潰れて帰ってきて」
「うわあ……」
おじいちゃんはあまりお酒を飲む人ではなかったけれど、常連さんにお酒をすすめられて一緒に飲むことがたまにあった。
「朝、文句を言ったら、飲んでいるうちに結婚記念日のことをすっかり忘れてしまった、って言うんですもの。しばらく口を聞いてあげなかったのよ」
「それは、怒って当然かも」
「でもね、お付き合いだからしょうがないの。おばあちゃんもそれはわかっていたから、お酒を飲んで帰ってきたことは怒ってなかったんだよ。あのときは、忘れられてしまったのが寂しかったんだね」
「寂しい……」
怒っていたわけじゃなくて、寂しかっただけ。怒っている態度の内側には、寂しい気持ちが詰まっていることもあるんだ。
「でもおばあちゃんも若かったから、怒る以外の気持ちの伝え方がわからなくてねえ。結局喧嘩が長引いてしまったんだよ」
「どうやって仲直りしたの?」
「おじいちゃんが、おばあちゃんの好きな花の花束とケーキを買ってきてくれてね。少し遅れたけれど結婚記念日のお祝いだよって。それでもう、許してしまったねえ」
「おじいちゃんが、お花かあ」
花束をプレゼントするなんて、意外とロマンチックなところもあったんだなあ。
「贈り物をもらえたから許したんじゃなくて、おばあちゃんのことを考えて、おばあちゃんの好きなものを選んでくれた気持ちが嬉しかったんだねえ。それで、忘れられたことは帳消しになってしまったよ」
「そっか……」
「夏芽ちゃんも、もし大切なことを忘れてしまったなら、それ以上にたくさんその人のことを考えてあげたらいいんじゃないかい。大事なのは、過去じゃなくてこれからなんだから」
「……うん」
約束や宝物を忘れてしまったことは、話していないのに。やっぱりおばあちゃんは、私の悩みは何でもお見通しみたい。
その日は、バットに流し込んだ寒天を冷蔵庫で冷やしておしまい。あんみつの完成は明日までおあずけになった。
大丈夫ってわかっているのに、「ちゃんと固まるかなあ」って不安になってしまうのは、誰かのために作っているからなのかもしれない。
そして翌日。お昼ごはんをすませた私とおばあちゃんは、残りの作業に取り掛かった。
心配していた寒天は、ばっちりぷるぷるに固まっていた。はじっこのほうを味見させてもらったけれど、固すぎず柔らかすぎず、絶妙に弾力があって甘味処のさながらの味。
「今日はあんこと白玉を作るけれど、あんこが一番手間と時間がかかると思うよ」
とおばあちゃん。難しそうなのは雰囲気でわかるけれど、そう言われるとますます不安になってきた。あんこがおいしくなかったら、あんみつ自体がイマイチの味なってしまう。これは、気合いを入れて頑張らないと。
一晩水につけておいた小豆を鍋に入れ、いよいよあんこ作り開始だ。
あんみつにはこしあんが載せてあることが多いけれど、座敷童が小豆好きならきっと粒が残っているほうが好きだろうということで、今日は粒あんを作ることにした。
小豆を煮て、煮汁を捨てるという工程をなぜか二回繰り返す。
「どうして煮汁を捨てちゃうの?」
「渋切りと言って、アクを抜くための作業なんだよ。やらない人もいるけれど、おばあちゃんはあっさり目のあんこが好きだから、昔から二回渋切りをしているんだよ」
「へえ~」
決まった工程ではなく、人によってやり方が違うというのがおもしろい。
次は、水をひたひたの状態にして、じっくり煮る。途中で水が減ってくるので、そのつど足していく。
「水が多くても少なくても、豆がつぶれてしまうからね」
小豆は繊細だから、たっぷりの水でグラグラ炊いてはダメらしい。
真夏の台所、扇風機をつけてもコンロの熱気のほうが勝ってしまう場所で、根気強くじっくり豆を炊くのは大変な作業だった。
動いていれば気がまぎれるのだけど、ずっとお鍋の前で番をしていなきゃいけないし。
お盆に帰省すると、おばあちゃんはいつもあんころもちを出してくれていたけれど、こんな大変な作業を毎年やっていたんだな。
知らないことをひとつ知るたびに、おばあちゃんの愛情に触れていく。
「うん、よく煮えてる。そろそろいいかねえ」
小豆を指の腹でつぶしたおばあちゃんが、満足そうにうなずいた。
そのあとは三十分ほど蒸らすので、つめたい麦茶を飲んでひとやすみ。
そして、いよいよ最後の練り上げ作業だ。水で溶かした砂糖を豆に入れて、火にかけて練り上げる。
練るほど硬くなっていくので、最後のほうは力がけっこういる。でも、つやつやで甘そうなあんこが完成形に近づいていくのが嬉しくて、私も汗をぬぐいながら一生懸命木べらで練り上げた。
「うんうん。いいあんこだねえ。夏芽ちゃん、初めてなのにすごく上手だよ」
「ほんと? 良かったあ」
できあがったあんこは、バットに入れて粗熱を取っておく。
「じゃあ次は白玉だね」
これは調理実習で作ったことがあるので簡単だった。耳たぶくらいの硬さにこねた白玉粉を、お団子の形にしてゆでるだけ。
「あんこも白玉もしばらく冷ましておくから、三時になったら盛り付けようね」
そわそわしながら、三時を待つ。夏休みの課題をしながら、ちらちらと家の中の様子をうかがっていたけれど、座敷童の気配はしなかった。
本当に、出てきてくれるだろうか……。また、寝ている間にあんみつを食べて、私の前には出てきてくれないんじゃ。
そんなマイナス思考を打ち消すために、おばあちゃんの言葉を思い出す。
もし今回がダメでも、これからもずっとあの子のことを忘れずにいればいい。そうすればきっと、いつかまた顔を見せてくれるはず。
年代物の柱時計が、ぼーんぼーんと鐘を三回鳴らした。小さい頃はこの音が怖くて苦手だったけれど、家のどこにいても時間がわかるので、実は便利なのだと気付いた。
「よしっ、最後の盛り付けだ」
ガラスの器をみっつ用意し、正方形に切り分けた寒天、缶詰の桃とみかん、白玉だんごを盛り付けていく。その土台の上にアイスとあんこ、さくらんぼを載せればお手製白玉クリームあんみつの完成だ。
「夏芽ちゃん。仕上げにこれ」
おばあちゃんが、黒くてとろりとした液体を渡してくる。
「これって、黒蜜?」
「黒糖を水に溶かすだけだから、こっそり用意しておいたんだよ。座敷童にはあんこだけじゃ甘さが足りないかもしれないからね。おばあちゃんからのおまけ」
「おばあちゃん、ありがとう……!」
おばあちゃんのサプライズに感謝し、黒蜜をあんみつの上にとろっとかけた。バニラアイスと白に黒蜜がよく映えて、実においしそうだ。
今すぐスプーンを持って平らげたいけれど、その前にやることがある。
私はちいさなちゃぶ台を仏壇の部屋に運ぶと、その上にあんみつとスプーンを置いた。
こうしておけば、あの子が出てきて食べてくれるかもしれない。
「うちの座敷童は恥ずかしがり屋だから、ここで見ていると出てきてくれないかもしれないよ」
ちゃぶ台の上をじっと見つめる私の肩を、おばあちゃんがぽんと叩く。
「……うん。むこうで食べることにする」
茶の間のちゃぶ台でおばあちゃんと向き合い、あんみつをひとくち食べると、不安な気持ちもどこかに飛んでいってしまった。