(4)
ガスパチョを魔法瓶に移し、きゅうりを挟んだサンドイッチ、きゅうりを入れたポテトサラダをランチボックスに詰めた。
要は丸ごと一本のきゅうりが怖いのだから、切ってしまえばどんな料理だって問題ないってことだ。キムチ漬けじゃなくて普通のぬか漬けだって、きっと食べられたはず。
半袖のTシャツに黒のオールインワン、日除けにつばの広い麦わら帽子をかぶったら、牧場の人みたいなコーディネイトになってしまった。
裏口から出ると、家の塀の上でソウセキがひなたぼっこしていた。毎日のように夕飯を食べにくるけれど、昼間は普通の猫みたいに過ごしていたのか。
首元には、日暮さんがお墓に供えていた赤い首輪が居心地良さそうにおさまっている。ソウセキがこっそり持ち出したのを、私がつけてあげたのだ。
「夏芽、どこに行くニャン?」
「うん、ちょっと裏の川にね」
「なんだか手荷物からおいしそうな匂いがするニャン。吾輩もおともするニャン!」
ソウセキがひょい、と塀から下りて、ついてくることになった。
「おーい、かがちゃーん! いたら返事してー!」
川辺に着き、私が叫びながらかがちゃんを探していると、ソウセキが耳をぴくぴくさせながら聞いてきた。
「それ、誰の名前ニャン?」
「河童だよ」
「河童だったら、探さなくても匂いですぐ分かるニャン! 夏芽、こっちだニャン!」
ソウセキは、四足歩行になってぴゅーっと走って行ってしまう。
「ま、待ってよ、ソウセキ」
川辺は石が多くて走りにくい。転ぶと川に落ちてしまいそうな気がするし。スニーカーを履いてきて良かった、と思いながらソウセキに追いつくと、ソウセキは止まって鼻をひくひくさせていた。
「はぁ、はぁ。河童って、どんな匂いがするの?」
ちょっと走っただけなのに脇腹が痛い。中腰になりながらソウセキに尋ねると、鼻の穴を一段とふくらませながら自慢げに教えてくれた。
「河童は、魚みたいな生臭い匂いがするんだニャン。かみついてもおいしくなかったけど」
かみついたことがあるのか……。きっとお腹がすいてどうしようもなかったんだろうけれど、その河童にはちょっと同情する。
「だんだん匂いが強くなってきたニャン」
「ソウセキ、隠れて!」
視界の先に緑色のかたまりが見えたので、ソウセキを抱いて木の陰に隠れる。
「どうしたニャン?」
「河童がいる。かがちゃんと、あと知らない子たち」
橋近くの水面に、顔を出している河童が数匹見える。
「なんで隠れたんだニャン?」
「お、思わず……」
ソウセキとかがちゃんであやかしに耐性ができたと言っても、河童が集団でいるところに突っ込んでいくのはさすがに怖い。あと、なんだか様子がおかしい。
耳をすましていると、河童たちの話し声が聞こえてきた。
「カガミ。まだきゅうりが食べられないんじゃろ」
「きゅうりが食べられないなんて、河童じゃないやい」
「河童じゃないなら、仲間じゃないのう」
「リーダーもこんな弟を持ってかわいそうじゃ」
うなだれたかがちゃんに、河童たちが寄ってたかって囃し立てている。
「口調がねちっこいニャン。意地悪な河童だニャン」
ソウセキは憤慨しているけれど、私は自分が悪口を言われたように萎縮してしまった。体温が下がって、胸が苦しくなる。
呼吸が荒くなった私を、ソウセキが心配そうに見上げる。
「夏芽、どうしたニャン……?」
「なんでもない、大丈夫」
そうだ。つらいのは私じゃない、かがちゃんなんだ。ソウセキを撫でながらゆっくり呼吸を繰り返していくと、ばくばくしていた心臓が落ち着いてきた。
私が自分を立て直すのに必死になっている間に、河童たちはかがちゃんをからかうのに飽きたのか、ばしゃばしゃと水飛沫をあげながら泳ぎ去って行った。
かがちゃんはそれをぼうっと見送ったあと、とぷっと川の中に頭を沈める。
「……かがちゃん!」
我に返った私は、やっと川岸に駆け寄ったけれど、すでにかがちゃんの姿はなかった。
「どうしよう、見失っちゃった……」
途方に暮れていると、ソウセキが私の腕からぴょんと下りた。
「夏芽、あっちから河童の匂いがするニャン!」
ソウセキが前脚で指し示したのは、橋の欄干の部分。
じっと水面に目を凝らしてみると、昆布のようにたゆたう黒い髪の毛と、その真ん中にお皿のような物体が見えた。ちょうどタイミングよく雲の隙間から顔を出した太陽が、お皿に反射してきらめく。
この鏡のような光り方は、間違いない。
「か、かがちゃん……?」
おそるおそる河童の頭に向かって声をかけると、ぶくぶくと気泡が立ったあと、かがちゃんがざばっと姿を現した。
「河童だニャ!」
ソウセキは耳としっぽをぴんと立てて興奮しているけれど、私とかがちゃんの間には気まずい沈黙が流れていた。
かがちゃんの髪の毛からぽたぽたと滴が落ちては、乾いた地面に吸い込まれていく。「えっと、あの」しか言えない私を、かがちゃんはじっとりした目で見つめていた。
「オイラを……笑いに来たのか?」
かがちゃんは私から目を逸らし、硬い声でつぶやいた。
「ち、違うよ! 私、かがちゃんに謝りたくて……。あと、今日何も食べられなかったでしょ? お腹すいてると思って、お弁当を持ってきたの」
トートバッグに入れたお弁当をずいっと見せたとき、かがちゃんのお腹がぐーっと鳴った。
「吾輩も早く食べたいニャン。夏芽、河童、あそこの木陰に座るニャン!」
「河童って呼ぶな! オイラはカガミじゃ!」
振り返りながら走るソウセキを、かがちゃんが追いかけていく。
あのふたり、仲良くなれそうだなとか、ソウセキがいてくれて良かったとか、ホッとした気持ちでふたりのあとを追った。
「おいしそうだニャン!」
持ってきたシートを木陰に敷いてランチボックスを開けると、ソウセキとかがちゃんがきらきらと目を輝かせながら覗き込んできた。
「ガスパチョとポテトサラダには玉ねぎが入ってるから、ソウセキにはこのツナサンドをあげるね。かがちゃんには、はい」
ソウセキにツナサンド、かがちゃんには紙コップについだガスパチョを渡す。濃いめの味付けにして砕いた氷を入れているので、冷え冷えのままおいしく飲める。
自分も、トマトとレタスのサンドイッチを口に運ぶ。外でお弁当を食べるのなんて、いつぶりだろう。小学校の遠足だろうか。自分で作ったサンドイッチでも、外で食べるっていうだけで特別おいしく感じる。
「ツナサンド、おいしいニャン! マヨネーズで和えたのはカロリーが高いからダメって言って修治はくれなかったけれど、これには入っていないニャン!」
「ツナサンドにもきゅうりを入れたかったから、醤油で和風の味付けにしたの。おばあちゃん流だよ」
「この、ポテトサラダっていうやつも、うまいのう。パンに挟んでも良さそうじゃ」
「ポテトサラダサンドも、おいしいよ。きゅうりサンドに挟んであげるね」
ふたりの世話を焼きながら、どこで食べるかよりも、誰かと特別な時間を過ごすっていうのがおいしく感じる理由なのかもなと思った。
「かがちゃん、ごめんね。あんなに怖がらせちゃって……。私、苦手な理由もちゃんんと聞いていなかったのに、急ぎすぎてたよね」
握りしめた手のひらに力を入れながら、かがちゃんに謝罪した。胸がドキドキして痛かったけれど、かがちゃんは「いいんじゃ。夏芽が悪いんじゃない」と首をふるふると振った。
「オイラがわざと、言わなかったんだから。言えないんじゃ、あんなひどいことをしたせいで、きゅうりが食べられなくなったなんて。自業自得だって、笑われるのがオチじゃあ」
かがちゃんは、サンドイッチを置いて私たちから目を逸らした。
「さっきの、見てたじゃろ。あんなふうに仲間の河童からも軽蔑されてるんじゃ。言い返せもしない情けないオイラを見て、がっかりしたじゃろ」
かがちゃんの姿を見て、思った。もし自分がかがちゃんの立場で、いじめられているところを仲良しの友だちに見られたら……。
恥ずかしくて、情けなくて、隠れたい気持ちになってしまうだろう。
かがちゃんは今、そんな気持ちを抱えながら、私たちの前から逃げ出さずにいてくれているんだ。
「笑わないよ。がっかりもしてない。かがちゃんがいいなら、話して欲しい」
私だって、おんなじだよ。味方だよ。そんな気持ちが伝わるように、じっとかがちゃんの目を見つめる。
「夏芽……」
かがちゃんの大きな黒目がちの瞳が、水の膜を張ったようにゆらゆら揺れる。意を決したようにくちばしを開いたと思うと、不安そうにまた閉じる。その様子を見ていたソウセキが助け舟を出してくれた。
「吾輩だって自業自得でキャットフードが食べられなくなったけど、夏芽は助けてくれたニャン。大丈夫だニャン」
「そうじゃな……。夏芽はオイラをお腹いっぱいにしてくれた、恩人じゃ」
かがちゃんは、遠くを見ながら話し始めた。




