言葉の通じない出会い
言葉の意味は分からない。けれど、息を切らしながらも自分を気遣う声から怪我がないか確かめているのだろうとシルは察した。
シルが小さくうなずくと、女性はゆっくりと体を起こした。
そこで初めて、二人の目が合う。
女性は一瞬、目を見開いた。シルの顔をじっと見つめ、長く尖った耳や見慣れない服装へと視線を移していく。
やがて、女性の頬が赤く染まっていった。
ふいに目をそらすと、今度は自分の手元へ視線を落とした。先ほどまでシルの手を握っていた、その手に。
『あ、あの……さっきは……』
女性は言い終えると、気まずそうに視線を泳がせた。頬の赤みはまだ引かず、片手で顔をあおいでいる。
シルは、助けてくれた相手に礼を伝えようとした。
『助かったわ。ありがとう』
胸元の首飾りがトクトクと脈動する。だが、こちらの言葉を相手に伝えるには、魔導具の解析がまだ足りなかった。
女性はあおぐ手を止め、シルの声に耳を澄ませた。音を聞き取ろうと眉を寄せ、口元をわずかに動かす。それでも意味は伝わらなかったのだろう。困ったように眉をひそめ、視線を地面へ落とした。
短い沈黙のあいだ、彼女は考え込んでいた。やがて、何かを思いついたように顔を上げる。シルの目を見つめ、自分の胸元に手を当てた。
『わたし……ミサキ。ミ・サ・キ』
指先で自身を示し、口元をゆっくり動かして、名前の音を一つずつ区切って伝えようとしている。
(……名前を教えてくれているのね)
『ミサキ?』
女性の顔がぱっと輝いた。嬉しそうなうなずきに、発音が合っていたのだとシルにも分かった。
シルはもう一度その名を口にし、今度は自分の胸に指先を当てた。
『私はシル。シ・ル』
『……シル?』
美咲が首を傾げて聞き返した。シルは微笑み、しっかりとうなずく。
互いのことはまだ分からない。それでも、名前だけは通じ合えた。シルの胸に安堵が広がり、美咲の表情からも、先ほどまでの困惑が和らいでいった。
そのとき、美咲の鞄から電子音が鳴った。
美咲は鞄からスマートフォンを取り出し、画面を確認した。何が表示されていたのか、シルには分からなかったが、美咲の表情がさっと変わった。
スマートフォンを握ったまま弾かれたように顔を上げたとき、美咲の体はすでに公園の出口を向いていた。シルの長く尖った耳を指さし、焦りをにじませた声で早口に告げる。
『その耳……! 写真……撮られてた……気をつけて……!』
言葉のすべては理解できない。けれど、耳を指す仕草と先ほど撮影されたことを思い返し、注意を促されているのだとシルは察した。
『耳がどうかしたのかしら』
問い返したものの、美咲に答える余裕はなかった。
スマートフォンを握り直し、公園の出口へ向かって歩き出す。数歩進んだところで振り返り、空いた手を大きく振った。
シルも小さく手を振り返す。美咲の華奢な背中が木立の向こうへ消えるまで、静かに見送った。
しばらく公園に立ち、遠くの気配に耳を澄ませてみた。
大通りの騒ぎはまだ完全に収まっていないようで、細い路地を伝って微かな喧騒が漏れ聞こえてくる。
長居をすれば、余計な厄介事に巻き込まれるかもしれない。
シルは胸元の首飾りを確かめる。今もトクトクと微弱な脈動を刻み続けている。
(音声がどれだけ集まったか、確認しないとね)
シルは胸元の銀細工に触れ、音声収集を終了させた。首飾りから伝わっていた微かな脈動が止まった。
シルは公園を出ると、大通りの騒ぎを避けて裏道へ入った。街へ来たときの記憶をたどり、最初に降り立った路地を目指す。
アスファルトを滑る無数の車、目新しい衣服や甘い焼き菓子の匂い。突然絡んできた男の無遠慮な視線と、執拗につきまとう態度。手を引いて走ってくれた美咲の温もり、そして去り際の言葉。
今日目にした光景や触れた感触を胸に刻みながら、静かに歩みを進めた。
人通りの途絶えた薄暗い路地の奥で立ち止まり、周囲を見渡す。人影はない。
懐から出口制御魔導具を取り出して魔力を流し込むと、空間の歪みを確認する回路が無音で作動し、帰還の術式を静かに立ちあがった。
薄暗がりに青白い光の裂け目が広がり、その向こうに工房の床と作業台が覗いた。
シルは迷わず、光の裂け目を通り抜けた。
靴底に伝わる感触が、舗装路の均一な硬さから、工房の石床のわずかな凹凸へと変わった。
先ほどまで歩いていた異界の街並みには心を惹かれたが、やはり見慣れた工房に戻ると、自然と肩の力が抜けていく。
シルは胸元の首飾りを外し、作業台の測定器に接続して解析状況を確かめた。
今日集めた音声は、無事に記録されていた。
繰り返される音や言葉の区切りには、いくつかの規則性が見つかっている。だが、それぞれが何を意味しているのかを読み取るには、まだ解析が足りない。
(でも、手掛かりは得られたわね。解析を進めれば、次に訪れたときには簡単な日常会話くらいできるかもしれないわ)
シルは測定器の表示を眺めながら、首飾りの銀細工にそっと指先を触れた。




