第1章 夜の出会い
夜は、いつも通り静かだった。
街灯の光が、濡れたアスファルトにぼんやりと映っている。
昼間の喧騒が嘘みたいに、すべてが遠く感じる時間。
俺は、その中を歩いていた。
目的なんてない。
ただ、眠れない夜をやり過ごすために。
「……おい、持ってるもん全部出せよ」
不意に、声がした。
低くて、粘つくような声。
聞き慣れている。
こういう声の先にあるものなんて、だいたい同じだ。
面倒ごと。
関わらないのが一番いい。
そう分かってる。
俺は足を止めずに、そのまま通り過ぎようとした。
「や、やめてください……」
小さな声だった。
ほとんど聞き取れないくらいの、かすれた声。
なのに——
足が、止まった。
舌打ちが聞こえる。
「は?聞こえてんだろ」
「早くしろよ」
複数いるらしい。
気配だけで分かる。
その中心にいるのは、小さな影。
街灯の下で、肩をすくめている。
……関係ない。
そう思った。
俺には関係ない。
でも、気づけば振り返っていた。
「……あ?」
俺を見た男の一人が、眉をひそめる。
「なんだよ、お前」
答える必要はない。
ただ、足を一歩踏み出す。
それだけで、空気が変わる。
「チッ、なんだこいつ」
もう一人が笑う。
軽い笑いだ。
自分たちが優位だと信じているやつの笑い。
面倒だ。
本当に、面倒だ。
なのに、体は勝手に動いていた。
最初の一人が殴りかかってくる。
遅い。
避けて、掴んで、そのまま地面に叩きつける。
鈍い音。
一人が崩れる。
「な、なんだよこいつ!」
残りが一斉に動く。
拳が飛んでくる。
蹴りが来る。
全部、見える。
全部、遅い。
避けて、返して、倒す。
それだけだ。
いつも通り。
気づけば、全員が地面に転がっていた。
荒い息だけが、静かな夜に残る。
「……くそっ」
誰かが捨て台詞を吐いて、逃げていく。
残ったのは——
俺と、あの少女だけだった。
しばらく、沈黙が続く。
風の音だけが通り過ぎる。
「……大丈夫か」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。
少女は、小さくうなずいた。
顔はよく見えない。
俯いたまま、動かない。
「……帰れるのか」
問いかける。
少しの間。
そして——
小さく、首が横に振られた。
「……ないのか」
返事はない。
でも、それで十分だった。
また、面倒なことに関わった。
そう思った。
「……来い」
気づけば、そう言っていた。
少女が、ゆっくりと顔を上げる。
街灯の光に照らされたその表情は——
どこか、壊れそうなくらい静かだった。
「……いいんですか」
かすれた声。
「別に」
短く答える。
理由なんてない。
ただ——
あのまま置いていくのが、少しだけ気持ち悪かっただけだ。
少女は、少し迷ってから、ゆっくりとうなずいた。
二人で、夜の中を歩き出す。
さっきまでと同じ街のはずなのに、
どこか違って見えた。
その時はまだ知らなかった。
この出会いが——
逃げ続けてきた俺の人生を、
全部変えることになるなんて。




