第八十話 「心の闇に差し込む手──黒い子と語らうひととき」
長い夢を見ていたような気がした。
(……あぁ、結局守れなかったんだ)
前世では、何かをしようとしても、いつも無力だった。
だからこそ、この世界では強くなろうと、誰かを守れるようになろうと必死にもがいてきた。
けれど――足りなかった。
“運命を変えるほどの強さ”を、僕は掴めなかった。
その瞬間、ゼールさんの言葉が脳裏を掠める。
――弱肉強食。弱い者は、強い者には逆らえない。
あんなもの、間違っている。
そう思ってきた。
でも今、こうして倒れ伏している自分を見ると、あの言葉も真実味を帯びてくる。
最後の記憶は、右脚を斬られ、それでも這いずって、
芋虫のように足掻いていたところで途切れた。
(痛かった……でも、よく頑張ったよな、僕)
堪えていた涙が、つっと溢れた。
前世では――誰かのために、死ぬほど必死になったことなんて一度もなかったのに。
(悔しい……悔しいよ……お母さん……お父さん……)
前世の記憶が邪魔をして、この世界の家族に素直に甘えることができなかった。
“本当の子”として抱きつくこともできず、
ずっと遠巻きに愛情だけを見つめていた。
来世があるなら――今度こそ、甘えたい。
ちゃんと、一人の存在として生きたい。
願ったところで叶わないと分かっていても、
胸の奥がどうしようもなく痛んだ。
(……そういえば、さっきすごく心地いい夢を見たな。ナティアの英雄? 僕が?)
くすぐったいような嬉しさが胸に広がり、自然と口角が上がった。
そのときだった。
「……奪われそうになったから、奪い返して……君を守りたかったのに……
どうして……どうして守れなかったの……」
すすり泣く声が、右下から聞こえた。
薄暗い世界に、小さな人影――黒い“影の子ども”が座り込んでいた。
(僕と同じくらい……いや、それより幼い?)
身体を起こし、そっと声をかける。
「君……どうしたの? 大丈夫?」
影の子はびくりと震え、涙声で答えた。
「君が……悲しむの、見たくなかった……
守りたいって、思ったの……でも、守れなかった……
ごめんね……ごめんなさい……」
泣きじゃくるその声は、幼くて、痛いほど純粋だった。
(僕のために……頑張ってくれたんだね)
理由なんて分からない。
でも、“ありがとう”と言わなきゃいけない気がした。
僕はその子を慰めるように抱き寄せようとした。
触れた瞬間――
痛み、憎悪、孤独、殺意、苦しみ。
乾いた炎のような感情が、脳内に一斉に流れ込んだ。
ゼールさんを痛めつけようとした自分。
三人の魔族を残酷に追い詰める自分。
カールアさんに迫る殺意。
シルファさんへ振り下ろした斬撃。
どす黒い映像が連続で脳を刺し、僕は膝をつき叫んだ。
「ぐああぁ!!」
黒い子が慌てて身を寄せる。
「大丈夫!? 痛いの……?」
息を乱しながらも、僕は無理やり笑顔を作った。
「だ、大丈夫……ありがとう」
悲しんでいる誰かを放っておくなんて、できなかった。
ぎゅっと抱きしめ返しながら言う。
「僕ね……ずっと一人で寂しかったんだ。
よかったら……もっと話そうよ。君と話してると……寂しさが薄れる気がする」
影の子は驚いたように目を丸くした気がした。
続けて、ぽつりと呟いた。
「……え?
君が初めてだよ……僕を、人として抱きしめてくれたの……」
声がかすかに震え、でも、さっきよりずっと柔らかい響きだった。
(……ずっと、誰にも触れられなかったんだ)
そう思った次の瞬間――
「二人とも。僕も混ぜてくれる?」
左側から声がした。
人影がひとつ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
髪は長い。
背は高い。
女性でも男性でもないような、威厳を帯びた輪郭。
そして――どこか懐かしい声。
(……律? いや、違う……違うけど……)
僕の困惑を察したのか、人影は静かに言った。
「違うよ。僕は“そいつら”とは別物だ。
ただ一つだけ言えるのは――
僕は君の“味方以上の存在”だ、アイザック」
(味方以上……? なんで僕の名前を――)
問いを形にする前に、その人影はそっと膝をついた。
そして、僕と黒い子の両方を、まるごと抱きしめた。
温かい。
涙が出るほど、優しい温度だった。
「よく……ここまで頑張ったね」
胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛む。
黒い子も、僕も、ただその腕の中で固まった。
(……どうして……この人、泣きながら笑ってるんだ?)
やがて、人影は僕たちをそっと立たせ、背中を押した。
「さあ、行っておいで。
君たちを、待っている人たちがいるよ」
僕は振り返り、叫ぶ。
「待ってください! あなたは……誰なんですか!?」
人影は頭をかき、何かを言う前のように目元を軽くほぐす仕草をして――
口を開いた。
「僕は――■■■■であり、■■■■■■■だよ」
(……聞こえない……!)
肝心な部分だけ、砂嵐のノイズのように掻き消される。
もう一度聞こうとした瞬間、
僕と黒い子の身体は白い光に包まれ始めた。
黒い子が、僕の左手をぎゅっと握る。
さっきまでの痛みはなく、ただ温かい。
「ま、待って! まだ聞きたいことが――!」
「……もう時間だよ。
僕も本当は、君ともっと話したいけどね」
優しい声が遠ざかり、
僕の意識は水面へ浮かび上がるように戻っていった。
――そして目を開ける。
最初に飛び込んできたのは、青空だった。
雲が流れ、冬なのに不思議と温かさを感じる色。
右手が、いつの間にか空へ伸びていた。
「……すごい。現実みたいだ」
呟きながら、左手を振り返る。
黒い子が握ってくれていた感覚が、まだ微かに残っている。
そのぬくもりを追うように、左へ顔を向けた。
――ピクン。
左手がわずかに震え、その先にいたのは。
「……カールアさん……?」
その隣には、ミーナさん、ミリエルちゃん、ミゼスさん、ロッカさん、ティーネさん、ララさん、ガルドさん。
そして――シルファさん。
(みんな……僕のそばで寝てる……)
(待って…なんで生きてるんだ?)
視界がじわりと滲んだ。
そのとき、視界の端に“誰か”の影が映った。
背の高い騎士の男が、城壁の壁に寄りかかりながら腕を組んでいた。
真面目そうで、でも妙に酒癖が悪そうな雰囲気の――
(……誰?)
目が合った。
男は軽く顎を上げて言った。
「あ、起きた」
その瞬間、僕は盛大に叫んだ。
「わあああああああ!!!! なんかいるう!!」
――このあと、城壁の上はちょっとした修羅場と化すのだが、それはもう少し先の話だ。




