第5章:最弱コンビの限界と、絶望の来訪者
翌朝、僕が目を覚ますと、部屋の中は聖油の匂いと、焦げ付いた悪臭が混ざり合い、吐き気を催すような異様な空気だった。
窓ガラスは割れていない。しかし、その外側の壁には、昨夜の激しい衝撃で付着した黒い粘液の跡が、乾いて煤けたタールのようにこびりついていた。
「フン。獅堂の神聖力が薄い守りで、下等な激情を遮断したようだな。だが、知恵のない奴らの力押しは、結界に明確な亀裂を入れたぞ、宿主」
ベリアルの声が、結界の薄くなった部分から、より鮮明に聞こえてくる。まるで、脳の皮膚一枚下で囁かれているかのようだ。
僕は恐る恐る体を起こした。全身が鉛のように重い。昨夜の悪魔の波長が、筋肉の奥にまで染み込んでしまったような倦怠感だ。
ルカさんがいつも通りの明るい笑顔で部屋に入ってきたが、僕にはその笑顔が無理に作られたもののように見えた。
「憂くん、大丈夫かい?」
「ありがとう、ルカさん。悪魔は……もういないんですよね」
「ああ。シドーが夜通し、聖水を撒いて浄化してくれたよ。でもね、憂くん」
ルカさんは、いつになく低い声で続けた。
「下っ端が悪あがきしただけ、と表面上は言うけど、結界の強度は予想以上に低下している。この教会は、目に見えない悪意に囲まれている。君の心の安寧が、少しずつ侵食されているんだよ。怖がるのは当然だ。でも、その恐怖が、奴らの力になることも忘れないで」
彼の言葉は、僕の臆病な心を図星のように刺した。悪魔の力が外側から教会を叩き、氷室の力が内側の僕の心を削り取る。僕の日常は、既に両側から押し潰されようとしている。
その後の午前中の智の訓練は、まるで拷問だった。冷静な法則であるはずなのに、僕には昨夜の憎悪の波長と結びついて、純粋な恐怖の燃料にしかならない。
「フン。貴様の心は水面のように波立っている。波長を制御できなければ、私の知識は貴様の魂を焼き尽くす毒になるぞ、愚かな宿主」
ベリアルの声は冷酷だ。僕には自分の恐怖を制御する方法が全く分からない。僕とベリアルのコンビは、圧倒的な知性と圧倒的な臆病さを組み合わせた、現時点での最弱のコンビだった。
午後、訓練を中断した僕は、重い足取りで学校へと向かった。
学校は、一見平静を装っている。だが、教室の空気の湿り気や、生徒たちの視線の底に、誰も気づかないが確実に増殖している薄い悪意を感じ取れた。
僕の唯一の光である幼馴染の泉田 陸は、明らかに病んでいた。
休み時間、陸は教室の隅で密を強く突き放していた。
「俺の努力が、お前らには理解できないって言うのかよ!」
「違うよ、陸。陸らしくないって言ってるの。いつもならもっと点が取れるはずだよ……」
陸は、顔色が悪く、目元に深い隈を作り、常に苛立ちを纏っていた。彼の活発なエネルギーは、今や自分自身を攻撃する鋭い刃へと変質している。
陸が視線を向けた先には、氷室怜央がいた。彼は静かに本を読んでいる。周囲の人間の焦燥や嫉妬を、まるで自分の法則のように受け止め、増幅させている。
(陸の努力という光の法則が、氷室怜央への嫉妬で捻じ曲げられている……)
僕の心の拠り所が、最も僕を傷つける形で蝕まれている。氷室怜央は、直接的な暴力ではなく、僕の日常を構成する最も大切な絆を、静かに腐らせていた。この間接的な恐怖は、昨日感じた悪魔の咆哮よりも遥かに重い絶望となって、僕の胸にのしかかった。
絶望の来訪者:静かなる法則の執行者
放課後、僕は陸の異変をルカさんと獅堂神父に報告するため、教会へと急いでいた。
人気のない裏通りを曲がった瞬間、異様な存在感が僕を立ち止まらせた。
僕の目の前に、一人の男が立っていた。それは氷室怜央だった。
彼は黒いパンツと白いシャツというシンプルな服装にも関わらず、その立ち姿は夜の闇の中で際立って静かで、深かった。彼の瞳は、冷たい月光を閉じ込めたような銀色に輝き、僕という器の奥底を見透かしている。
その男の体から放射される波長は、ベリアルとは比べ物にならないほど巨大で、冷酷な智の法則そのものだった。それは、感情を完全に排除した、宇宙の真理を知り尽くした究極の傲慢。
僕の体内のベリアルが、激しく法則を乱し、苦悶の声を上げた。
「クッ!……貴様……!なぜこの世界に……!許さん……!」
ベリアルの威厳が崩壊するほどの激しい動揺。
氷室怜央は、僕に向かって静かに微笑んだ。その微笑みは、法則的な美しさを持っていた。
「お久しぶりです、ベリアル。貴方の器は、最弱の名に相応しいようですね」
そして、冷たい銀色の瞳を僕に向け、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「蓮見 憂。貴方は、私の実験の鍵となる存在です。私はベリアルのように智の支配など微細なものに興味はない。私の真の目的は、智の法則が絶対ではないという証明です」
彼は、僕の恐怖を楽しむように、僕という器の目の前で、ベリアルとの会話を続ける。
「ベリアル。貴方は智を絶対と信じた。ならば、智を極限まで高めた貴方が、最も愚鈍な本能と暴力によって打ち破られる様を、私はこの世界に見せたいのです。智の法則の絶対的敗北こそが、私の最高の智の証明だからです」
彼は教師のように諭すような口調で、僕に絶望を植え付ける。
「貴方は、その脆い器の中で智の力を最大化しなさい。智を捨てて、欲望に堕ちてしまっては、実験になりませんよ。もっとも、淫魔たちが貴方の器を堕落させようとしていますがね。彼らは、智を無効化するための、最も原始的な力です」
氷室怜央の静かなる言葉と、究極的な智と傲慢が、僕の気弱さと臆病さを極限まで追い詰めた。
「絶望しなさい、蓮見 憂。貴方たち最弱のコンビの運命は、既に私の智によって決定されている。それが法則です」
その瞬間、僕の魂の底から純粋な絶望が湧き上がってきた。




