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第一話の前日

携帯がメールを告げる音を奏でた。

私は、座卓に並べた書類を鞄に入れる手を止め、携帯を操作する。


「美鈴、雨が降って来たよ!明日は晴れたらいいけど。明日から、ドキドキだけどお互い頑張ろうね!!」


友人からのそんなメールに、思わず、くすりと笑う。


明日からの教育実習に、自分と同じように緊張している人が居るというのは、少し嬉しい。


メールの返信を送った後、私はそっとカーテンを開けた。

すると、友人の言葉通り、暗闇の中で窓ガラスに水滴がついているのが分かった。

私は嘆息すると、窓ガラスに額を寄せる。コツと小さな音を立て触れた窓ガラスは、少し冷たかった。



ああ、そういえば。


葵ちゃんを、ずっとガラスのような少女だと思っていたな。


初めて会ったあの日。

電車の隣の席に座る彼女は、私に強烈な印象を与えた。


体を小さくさせるように荷物を抱えるようにして座る様子は、どこか儚げだった。だが、それ以上に、美しかったのだ。


鋭利な、と表現すべきだろうか。


そんな、研ぎ澄まされた美しさがあった。



小料理屋松風で働き始めてからの笑顔も、好きなんだけどね。


私は窓ガラスに向けて、口角を上げた。


葵の、目を細めてから、そっと口角を上げる、優しい笑みを真似しようとした。だが、窓ガラスにぼんやり映るそれを見て、やはり自分には似合わない。



窓に背を向け再び鞄の元へと戻った私はぺたんと床に座った。


鞄に入れるべき書類を再び手に持ちながら、だが、思考は、葵へと向かう。



「怖いもの、溺れるもの、かな」


葵を思い出しながら、そう言ってみる。


重みが違う。そう思って、私は自嘲の笑みを零した。



彼女にとって、愛とはどんなものなのだろう。



葵がヴィクトルとかいう男に連れて去られたあの日。

瀬崎から説明されたのは、家族に恵まれず、ヴィクトルの想いから逃げ出したという簡単なものだけだ。


詳しくは教えてもらえていないが、確実に、私の想像以上の経験をしているのだろう。




私は手にしていた書類をそのまま座卓に戻すと、鞄に一度収めた手帳を再び取り出した。

そして、手帳に挟んだ一枚の写真を手に取る。


葵と二人で、昨夜撮ったものだ。

写真は慣れないと言う葵は、少し眉を下げては居るが、笑顔を浮かべている。



昨夜。

一ヶ月ぶりに小料理屋 松風に、葵はヴィクトルとともに現れた。


色素の薄い髪と目を持つヴィクトルと、漆黒の髪と目を持つ葵は、私には一対の人形のように見えた。


葵はヴィクトルに入り口の側で待つように言ってから、私と女将の側まで来ると、頭を下げた。


「突然、居なくなってご迷惑をおかけしました」


綺麗に礼を取る葵は、だが、震えてもいた。


「いいのよ、葵ちゃん。瀬崎さんから、色々伺ったわ」

女将はそう言って、葵に頭を上げさせた。

「今は、もう、逃げ出したくはないのね?」


そう尋ねる女将に、葵は、照れたようにはにかんだ後、首を縦に振った。



その後は、ヴィクトルを交えて四人で談笑した。


教育実習があって、少し不安だと言えば、葵は心配そうに話を聞いてくれた。


女将はというと、週に一日だけでもいいから働かないかと葵に交渉し始めた。結局、ヴィクトルの猛反対を押し切って、葵は再び、週三日、小料理屋 松風で働くことになった。


「週三日も…」と落ち込むヴィクトルの腕に葵がすりよると、ヴィクトルは簡単に機嫌を回復させた。


そして、機嫌を良くしたヴィクトルは、面白可笑しく話をするので、私と女将はいつの間にか、声を上げて笑っていた。

葵もまた、そんなヴィクトルを呆れたように見ながらも、笑顔でいた。



確かに昨夜は楽しかった。

だが、時折向けられるヴィクトルへの葵の笑顔は、まるで万華鏡のように艶やかで華やかで。


仮初めの恋しか経験したことのない私には、彼女のその笑顔は、まぶし過ぎた。




羨ましい。


私も、あんな風に笑える愛を知れるだろうか。



そう思ってしまった。




私は写真を手帳に挟み直し、鞄に収めてから、深く息を吐いた。


思考を、明日からの実習へ戻すべく、頭を振り、座卓の書類を鞄に入れる作業を再開した。




実習は、二週間だ。

どんな生徒たちだろうか。どんな日々になるだろうか 。

考え始めれば、胸に宿るのは、先程までの焦燥ではなく、明日からの日々への期待だ。


県立如月高校で、私は明日から、先生なのだ!



準備を終え、布団に潜り込む。緊張と興奮で中々眠れなったが、ようやくうつらうつらとし始めた頃。



ああ、


そういえば。


実習先が、県立如月高校と言った時、葵とヴィクトルが少し驚いて見えたのは何故だろう。



薄れ行く意識の端でその理由を考えているうちに、私は意識を手放していた。





*****


小さなボロボロの家の前で、足が痛いとうずくまって、声を上げて泣く。すると、金の髪の少女はその家から慌てて出てきた。


「アルフレッド、どうしたの」


「…姉さん。こけた。痛い」


そう言って差し出す膝は、少し赤くなっているだけだ。それを見て、アンジェリカはふふと笑った。


「アルフレッドは、本当に泣き虫ねえ。私の弟なら、強くならないとね」


そう言って、アンジェリカはアルフレッドの頭を撫でた。


「姉さん。ありがとう。大好きだよ」

「あら、アルフレッド。私の方がもっと好きよ」


金色の髪が、風に揺れる。長いまつげに彩られた、少しつり目がちの目を和ませて。

薔薇色の頬のアンジェリカは笑った。



美しい姉。大好きな姉。




その映像が、次第に薄くなり、消えていく。




ああ。

意識が現実に戻っていく。



胸に宿る幸せな感情の余韻に浸りながら、僕はくつりと笑った。


懐かしい。

そう思っていたところに、「国分寺君」と少し苛立ちを含んだ声がかけられる。


僕は一度頭を軽く振って、その声の主を見た。


中年の女性教師が、眉を寄せて僕を見ている。


「国分寺君。ボーとしてないで、授業を聞きなさい」

「すみません」


教師から注意を受け、僕は今が、授業中だったことを思い出した。



机の上に出された教科書と、黒板の前の内容があっていない。


だいぶ、前世に意識が飛んでいたようだ。



僕が謝ったことで満足したのか、教師は黒板に向き直った。




僕は教科書をめくりながら、今日葵に会いに行くことに決めた。





日向 葵。


僕の母親違いの姉。

アンジェリカを前世に持つ彼女と、再び出会えたのは、一ヶ月前。

ヴィクトルを介してだった。




葵はヴィクトルによって逃避行から連れ戻され、紆余曲折ーーというよりも、ヴィクトルの押しに根負けして、ヴィクトルのマンションで一緒に暮らすことになったらしい。



僕がリビングに入ると、葵はヴィクトルと隣同士でソファに座っていた。

白いワンピースがよく似合っていた。


葵は僕に気付くと、不思議そうな目をヴィクトルに向けた。ヴィクトルは、その瞳に頷き、微笑んだ。

「葵。君の弟だ」

その言葉に、葵は目を瞬かせた。

そして、ゆっくり首を傾げ、正面に立つ僕を見た。


「あの人の子ども?」



『あの人』というのが、僕らの父のことをいうのか、父の愛人ーー僕の母のことをいうのか、僕には分からなかった。

だが、その言葉に頷いて見せた。


「ーー姉さん。そう呼んでも、許されますか?」


声が震えた。


僕の言葉に、一度驚いたように目を見張り、そして、ヴィクトルへ顔を向けた。

ヴィクトルは、そんな葵の背にそっと手を添えた。


「葵。立季は、父親も互いの母親も関係なく、葵と姉弟でありたいと、言っている」

「姉弟…」

「ああ、そうだ。だが、葵がそれを望まないなら、俺は君を優先するよ。立季を君の前に、二度と現れないようにする。どうかな」


ヴィクトルはそう言って、葵の手を持ち上げ、その指の爪に唇を寄せた。


ちゅっというリップ音に、僕は苛立ちを覚えた。

僕の姉に何をするんだ。


「ちょっと、何するの」


葵は、照れたように頬を赤く染めながらも、眉を寄せてその手を振り払った。そして、僕を見て、困ったように笑った。


「…なんて顔をしてるの。今にも泣き出しそうじゃない。私のーー」


葵はそこで区切ると、一度深呼吸をしてから、目元を和ませた。


「私の弟は、泣き虫なの?」



僕は、その言葉で、本当に泣いた。






葵に弟だと認められたその日から、僕も、僕の心の奥にいるアルフレッドも機嫌が良い。

そのせいか、アルフレッドは記憶を僕の頭の中に蘇らせることが多くなった。


ふとした瞬間に、アルフレッドの記憶が頭を占めてしまう。気持ちが浮ついてしまう。


周囲は、最近の僕の機嫌が良過ぎると、不審がっているようだが。


僕はあまりそれを気にしてはいない。



だって、


しょうがないじゃないか。


僕は前世からの最愛の姉を、ようやく手に入れたのだから。





アンジェリカとアルフレッドは、子爵位を持つ家柄だった。だが、両親が事故で亡くなってからは、暮らしは苦しくなるばかりだった。


それでも、アンジェリカは、貴族としての誇りを忘れず、教え、学び、相応しい振る舞いが出来るようにと、幼いアルフレッドを育て上げた。



アルフレッドは、そんな姉に答えようと、国の宰相にまで、上り詰めた。



アンジェリカは、アルフレッドにとって、姉であり母であり、父だったのだ。






僕は学校を終えてすぐに、ヴィクトルの暮らす高級マンションに向かった。


扉を開けると、その広い玄関に男物の靴と寄り添うように赤いパンプスがある。

長い廊下の先、リビングへ向かえば、そこには柔らかなソファの上でさらに柔らかなクッションに体を預けた姉 葵が居た。少し気怠げな様子の葵を上機嫌で甲斐甲斐しく世話するヴィクトルに、殺意に似た思いを感じる。


やっぱり、反対すれば良かったかな。


そんなことを思ったからだろう。

リビングのドアを開いた僕を確認したヴィクトルは、瞬時に顔をしかめた。


ふん。と鼻で笑ってやる。



「なんのようだ、立季」

「ヴィクトル、やめて」


迷惑そうな様子を隠さないヴィクトルを睨んだ葵は、僕に顔を向け直した。

そして、自分の側に寄るように手招きされるのに従い、僕は葵の正面に腰を落とした。


葵の横に居るヴィクトルが嫌そうに眉を寄せているが、無視して、僕は葵だけを見つめた。



「姉さん」



本妻の娘と愛人の息子。

そんな関係の僕らだ。

葵は、僕のことを本当は憎んでいるのではないか。あの出会いから、一ヶ月経っても、まだ少し声が震える。


「学校お疲れ様、立季」


葵はそう言って、もぞと身動きしたかと思えば、ソファに座る葵より少し低い位置にある僕の頭をそっと撫でた。

僕は思わず目を閉じる。


ゆるり。ゆるりと、優しく撫でられ、気持ちが落ち着いて行く。



ああ、本当に、姉は『昔』から、僕の扱いが上手い。





「葵。立季に聞きたいことがあったんじゃないか?」

「そういえば、そうだったね」


葵はそうして撫でてくれていた手を止めてしまった。


それを惜しく感じながら、僕は顔を上げ、葵を見て首を傾げる。


「僕に聞きたいこと?なに?」

「立季の学校って、県立如月高校だよね」

「そうだけど。それがどうしたの?」

「やっぱり。ーー今度、私の恩人が、立季の学校に教育実習に行くんだ」


僕は『恩人』の言葉に頷き、微笑んだ。


「姉さんが恩人って言うってことは、この前までお世話になっていた人たちのことだね?教育実習生ってことは美鈴さん?」


僕の言葉に葵は嬉しそうに笑った。

「そう。美鈴さんが、立季の学校に行くみたい。不安だって言ってたから、よくしてあげて」


葵に頼まれたら、否とは言えない。


「姉さん。勿論だよ」


「ありがとう、立季!」



葵の笑顔を受けて、僕は葵の頬にキスをした。



アルフレッドが、アンジェリカと約束した時に、よくそうしていたのを思い出したのだ。



葵が、くすぐったそうに笑ったのですぐに離れたが、ヴィクトルは絶叫し、慌てて葵を引き寄せた。

自身のシャツの袖で葵の頬を拭うが、葵はそれを迷惑そうに眉を寄せて拒否するように体をひねっている。



前世でも、今世でも、最愛の姉に愛される男が、邪険に扱われる様子に、僕は溜飲が下がる思いがした。



ふん。


ざまあみろ。










この時は。


葵の言葉通り現れた教育実習生である美鈴の前世が、アルフレッドの恋人で。

そして、僕も美鈴に恋するようになるなんて。


僕は思ってさえいなかったんだ。





次の日。


「斎藤 美鈴と言います。これから、二週間と短い間ですが、宜しくお願いします!」


美鈴が元気よく挨拶する声に紛れて、「第一話スタート!」という女性の声が聞こえた気がした。


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