第一話のその前④
社長室の机は、部下から取り寄せた書類や報告書で溢れている。
それを数枚手に取りめくりながら、俺は昼食後の仕事の段取りを頭の中で構築していった。
葵に関する報告書はめぼしいものもなく、俺は嘆息しつつ今日も本業の方に取り掛かるかと思っていたその時、携帯のバイブが鳴った。
相手を見れば、長期出張中の部下だ。
腹心と言えるほど、優秀で信頼する部下からの電話に、何か仕事のトラブルでも有ったかと、眉を寄せて電話に出る。
すると、拍子抜けするほど、のんびりとした声で「社長」と呼び掛けられた。
「…なんだ?」
思わず、眉間の皺を深くしてしまう。
この部下が、こんな声で呼び掛ける時は、仕事のトラブルではない『何か』がある。
どうせ、この昼食後のタイミングだって、見計らったのだろう。
俺の言葉の端に、感じることがあるのか、電話の向こうで、部下は一度くつりと笑った。
「社長、ーーー」
心の奥でライナスが喝采を上げた。
そのせいで、部下からの報告が咀嚼出来ない。
「すまない、もう一度言ってくれ」
そう言うと、部下は電話の向こう側で嘆息し、噛んで含めるように言葉を発した。
「日向葵さん、見つけましたよ」
体から力が抜け、椅子に体がのめり込む。
ああ!葵!やっと見つけた。
俺は、天を仰ぐ。ギシリと、背もたれが重い音を立てた。
葵が消えて約三週間。
監視カメラの映像の確認だけでなく、人を雇って、駅やバス停等での聞き込ませ、その報告書に目を通す。
そして、それらの合間に、社長業をこなす。
多忙な中、ヤキモキとして日々を過ごす俺にとって、待望の報告だ。
「…よく、探してくれた。感謝する」
喉がカラカラに乾燥して、上手く声が発せない。そんな俺の声を聞いて、部下が苦笑したのが分かった。
「想像以上に、ダメージを受けていたんですね」
「そんなことより、葵の居場所を教えてくれ」
そう言うと、もう送ったと言う。
それを証明するように、秘書が一枚の紙を持って慌てた様子で社長室に入って来るのが分かった。
俺はその紙を受け取り、その紙に書かれた住所を見ながら、電話の向こうの部下に礼を言うと、彼はカラカラと笑った。
「今、彼女は小料理屋で働いていますよ」
「小料理屋で?」
その意外な場所に、思わず住所から意識が離れた。
「どうして、そんなところで…」
「さあ、仔細は知りませんが。でも、しっかり接客されてますよ」
「…接客」
意外な言葉ばかりが並ぶ。
葵にとって最も苦手そうなものだが。
そう思っていると、部下は「頑張っていらっしゃいますよ」と言って、また笑った。
その言葉に、抑えきれないほどの想いがこみ上げる。
ああ、葵。
今、君はどんな人たちとどんな風に暮らしているのだろう。
再度部下に礼を言い、電話を切る。俺は再び住所へ視線を落とした。
住所に記されていたのは、ここから車で五時間くらいだろうか。
俺はその住所を一度指でなぞると、椅子から立ち上がった。
「出掛ける」
そう言うと、すぐに秘書はジャケットを手渡してきた。
素早い対応に口角を上げる。
褒めてやりたい所だが、今はそれどころではない。
ジャケットに袖を通しながら、俺は愛車の元に向かい始めた。
自然、歩調は早まる。
廊下ですれ違う部下たちが、俺の顔を見て、驚き目を見開いた。
後から聞いた話だが、表情は明るく笑っているのに、目だけが鋭く輝いて見えたらしい。
「正直言って、怖かったです」と言ったのは、誰だったか忘れたが、さもありなんと思う。
もう二度と逃がしてやらないと、意気込んでいたのだから。
「社長、見つかったんですか?」
部下の一人から、俺の背中に向けて発せられた言葉に、一度振り返り、拳を高く上げて見せる。
部下数名からあがる歓声に笑顔を返し、またすぐに踵を返した。
さあ、葵。俺の運命の人。
今から、君の元に行くよ。
ライナスが、「アンジェリカ」と同じように呼び掛けるのが分かり、思わず笑った。
目的地に着いたのは、夜九時を回っていた。
小さな駅舎の小さな駐車場スペースに、車を停めると、その側にある小料理屋へと足を進めた。
松風と書かれた看板を横目に、引き戸に手を掛ける。
この先に彼女が居ると思えば、手が震えた。
俺は一度深呼吸してから、その手の力を強めた。
カラリ。軽い音を立てて開いた戸の先で、最初に目に飛び込んだのは、八席だけのカウンターだ。入り口から遠い一番奥の席に、若い女が一人、座って食事をしている。
「いらっしゃいませ」
店員は二人だ。カウンターの奥に一人とカウンターの外に一人。
カウンターの奥にいる一人の店員ーー着物に襷をかけた中年の女が、俺を認めて笑顔で声をかけた。
その一方で、カウンターの外にいる店員ーー葵は、俺を凝視していた。
口を小さく開けたまま、固まっている。
俺は思わず、頬が緩むのを感じた。
見たくて仕方なかった顔を、ようやく見れたのだ。
葵の方へ一歩踏み出す。
「葵」
だが、彼女は、俺に名前を呼ばれると一度体を震わし、そして一歩後ずさった。
だが、それ以上動こうとはせず、眉を寄せ、俺をただジッと見ている。
「葵ちゃん?」
カウンターの奥にいた客が、首を傾け、葵を見た。
「あの、お客様?」
眉を寄せて、俺と葵へ交互に視線を送りながらそう言った中年の女の声音は、少し諌めるような調子だった。だが、俺はそれに気付かないふりをして、さらに一歩進んだ。
「葵」
「葵」
名を呼ぶ度に俺は一歩踏み出し、名を呼ばれる度に葵は体を震わせた。
「葵」
四歩進めば、もう葵は目の前だ。
葵を見つめ、名を呼ぶと、葵は困ったような、泣き出しそうな顔をした。
葵。そんな顔をするな。
俺は葵の手を取り、引き寄せた。
きつく、きつく、彼女を抱き締める。
「葵。会いたかった」
「…ヴィクトル」
葵から、小さな声で名前を呼ばれ、今度は俺が泣きそうになった。
*****
ドアの前に立つ男を見て、湧き上がったのは、驚きだった。
薄い茶色の髪。
髪と同じ色の瞳。
整った鼻。口は少しだけ口角が上がっている。
別れた時と変わらぬ彼だ。
幻を見るなんて…。
自分で思っているより、私は思い詰めていたのだろうか。
思わず、眉を寄せた。
「葵」
私の名前を何度も呼ぶ甘い声に。
私に向ける笑顔に。
私を見つめるその瞳の輝きに。
私は、体が震えた。
幻でもいいかもしれない。
「葵」
とうとう、彼の幻は目の前にやって来た。
目を細め私を見る彼に、軽く見上げ目を合わせる。
ああ。
やっぱり。
幻じゃなくて、本物が良かったな。
そう思った瞬間、私は彼の体に包まれた。
「葵。会いたかった」
「…ヴィクトル」
痛いくらい、抱きしめられて、私はようやく、これが現実なのだと知った。
私は、驚きの余り、体が硬直して行くのを感じた。
だが、すぐに我に帰る。
幻だと思っていたから、現実であれば、と願ったのだ。
実際にヴィクトルが目の前にいて、抱きしめられているこの状態は、私の定まりきっていない覚悟を、ボロボロと壊していく気がした。
「…離して」
ヴィクトルの肩に押さえつけられるようになっていた顔を動かし、彼を見上げる。
ヴィクトルは、泣きそうな顔をしていた。
私は思わず、目を数度瞬かせる。
「なんで、貴方泣きそうなの」
その言葉に、ヴィクトルは苦笑しながら私の頬に手を添えた。
「ようやく、君に会えたからだ」
ヴィクトルは私の頬を数回撫でると、手を離した。そして、その手で私の右手を取ると、そのまま歩き出した。
ヴィクトルは、私を連れて店の出口に向かっている。
「葵ちゃん?!」「お客様!!」
慌てたような美鈴の声と責めるような女将の声に、我に帰る。
私はこの場に留まるべく、足に力を入れた。
「ヴイクトル。私、仕事が」
ヴィクトルの背中に向けてそう言うと、ヴィクトルはゆっくりと振り返った。
そして、眉を下げ、私を見た。
「もう、我慢させないでくれ。ずっと、君に触れていない。君を感じれていない。ーー早く、二人になりたい」
ヴィクトルの情けない表情と恥ずかしい言葉に、視線を彷徨わせる。
その隙をついて、ヴィクトルはぐいっと手に力を込めてから、再び歩き始めた。
「ヴィクトル!」
声を上げ、抵抗を試みるが、ヴィクトルは今度は歩みを止めなかった。ヴィクトルが扉に手を掛けようとするその直前、扉が開き、その歩みは止まった。
ヴィクトルより先に扉を開けたのだろう。スーツ姿の瀬崎が、ヴィクトルの体越しに見えた。
瀬崎は、目の前に立つヴィクトルとそのすぐ後ろで手を引かれる私を交互に見て。そして、破顔した。
「あ、良かったですね。社長。葵ちゃんと会えたんですね」
「ーー瀬崎。何故ここに?いや、それよりも、葵ちゃんだと?いつ、誰がそんな呼び方をお前に許した」
飄々とした声でそう言った彼に、ヴィクトルは低い声を発した。
ヴィクトルのそんな声音を聞いたことがなくて、私は思わず抵抗を忘れた。呆然とヴィクトルの背中を見つめる。
一方の瀬崎は笑声をあげた。ヴィクトルの体の向こう側で、瀬崎の腹が揺れるのが見えた。
「葵ちゃん自身ですよ。俺はこの店の常連なんで」
「常連だと?!」
「そうですよ。葵ちゃんとは、この店で働き始めた日からの付き合いですね」
「瀬崎!そんなこと、一言も聞いてないぞ!ーーいや、それなら、お前は葵の居場所をもっと早く教えれたはずだ。何故教えなかった!!」
声を荒げたヴィクトルに、瀬崎は肩をすくめて見せた。
「葵ちゃんが、望んでいなさそうだったので、ご報告しなかったんですよ。流石に、嫌がる未成年を追いかけ回す社長なんて、体裁が悪いじゃないですか」
瀬崎の言葉に、ヴィクトルは深く息を吐いた。
そんなヴィクトルを見て、瀬崎は「社長、言わせて頂きますけど」と言って口角を上げた。
「今日、ご報告させて頂いたということは、葵ちゃんが、今は社長に会いたいと望んでいると判断した、と言うことです。ーーね、葵ちゃん。そうだろう?」
体を傾け、私と視線を合わせながら言われた瀬崎の最後の一言に、私は顔に熱が集まるのを感じた。
勢いよくヴィクトルが私の方へ振り返る。
怒りを露わにしていたはずの彼は、私と目があった途端にその表情を和らげた。
「葵。そんな可愛らしい顔をするな」
ヴィクトルは、甘い声を発して、握る手に力を込めた後、すぐに顔を向け直した。
「瀬崎」
先程の甘い声とはかけ離れた、静かで鋭い声音でヴィクトルに呼ばれ、瀬崎は嘆息した。扉の前から体をずらし、人が通れるスペースをつくる。
「女将たちには、俺が説明しますよ。社長、行ってください」
「感謝する。とは、言わないからな」
ヴィクトルはそう言い捨てると、私の手を再び引いて歩き始めた。
瀬崎とすれ違う時、彼は目を細め、大きな腹を手でさすりながら、私を見た。
「二人は任せてくれ」
小声でそう言われ、ヴィクトルの手に引かれながら、私はちらりと後ろを見た。
美鈴と女将が、呆然と私を見ていた。
それに一度頷いて見せてから、私はヴィクトルへの抵抗をやめて、手に引かれるままに歩き始めた。
「ヴィクトル、痛い!」
駅に停められていたヴィクトルの車の後部座席に押し込むように乗せられた。
同じように後部座席に乗り込んできたヴィクトルに、私は思わず不服を述べる。
すると、ヴィクトルは自身と向かい合うように、私の肩を動かし、鋭い視線を向けてきた。
「痛い、だって?」
私の肩に置かれた手に力がこもる。
ヴィクトルのその視線に蹴落とされそうになったが、私はその声が震えていることに気付いた。
思わず、そっとヴィクトルの頬に触れると、ヴィクトルはくしゃりと顔を歪めた。
「俺の方が、痛かった。葵が消えて、ずっと見つからなくて。葵を渇望する俺の心は、ずっと悲鳴を上げていた」
ヴィクトルは私の肩から手を離し、頬に添えられた手に手を重ねた。
「俺のもとから居なくなった理由を尋ねても?」
私はヴィクトルの視線を避けるように、顎を引いた。
ヴィクトルの頬から手を離したかったが、彼はそれを許さず、頬に添えられたままだ。
本心を伝えるのは、怖い。
そう思った。
「…どうしても、私は変わりたかった。でも、貴方の力で変わりたくなかった。自分の手で変わりたかったんだ」
「変わったらいい。自分の力でと言うなら、俺は邪魔しなかったよ。
ーーどうして、それを教えてくれなかった?」
その言葉に、顔を上げる。
ヴィクトルの真剣な視線が、私を射抜く。
そうか、
嘘も誤魔化しも、彼にはもう効かないのだ。
私は、そう悟った。
一度、唇を湿らせてから、私は恐る恐る、口を開いた。
「怖かったんだ」
そう告げた途端、ヴィクトルは表情を和らげた。
「何を怖がる?」
ヴィクトルに、優しく、甘く問いかけられる。
ああ、泣いてしまいそうだ。
「貴方の力で変わって行けば、私は貴方に依存して、貴方を二度と手放せなくなりそうで。
そうなれば、貴方の気持ちが私から離れた時、私は、きっと母のように狂ってしまう。
ーーそれが、怖かった」
私の言葉に、ヴィクトルは顔を真っ赤に染めた。
私から一度視線を逸らしたかと思うと、すぐに視線を再び私に定めた。
「あり得ないよ。それは、絶対にあり得ない」
「何を根拠に、そんな風に言えるの」
私の言葉に、ヴィクトルはくつりと笑った。
そして、顔を動かし、私の掌に唇を寄せた。そっと掌を舐められ、ぞくりと体が震える。
「ーーヴィクトル」
思わず彼の名前を呼ぶと、自分でも驚くほど弱々しい声が出た。
ヴィクトルから、視線を外し、そのまま彷徨わせる。
一方のヴィクトルはそんな私を見ながら、掌から唇を離し、私の掌に添えていたその手で私の頭を撫でた。
「葵。俺の運命の人」
ゆっくり、優しく撫でられる。
その仕草が気持ち良くて、彷徨わせた視線を、改めてヴィクトルに向け直した。
すると、ヴィクトルは私に近付いてきた。
コツと、額同士が合わさる。
「心配しなくていい。君が俺を手放せなくなる以前に、俺は君をもう手放せないのだから」
間近にある茶色の瞳が、キラキラと輝いている。
綺麗だな。
思わず、そう思ったその瞬間、唇に温かいものが触れた。
*****
「貴方の力で変わって行けば、私は貴方に依存して、貴方を二度と手放せなくなりそうで。
そうなれば、貴方の気持ちが私から離れた時、私は、きっと母のように狂ってしまう。
ーーそれが、怖かった」
瞳を不安そうに揺らし、そう言う葵に、愛しさが込み上げる。
ああ、葵。
そんなの。
愛の告白にしか聞こえない。
葵からの思わぬ言葉に、顔が熱くなる。
それに、狼狽えつつも「あり得ない」とそう告げると、少しムッとした表情で、根拠を尋ねられた。
その表情が可愛くて、思わず掌を舐めると、彼女は、初々しい反応でそれを受け止めた。そんな彼女を、俺はうっとりと眺める。
可愛い、可愛い、俺の葵。
触れる艶やかなその髪に触れると、それだけでは我慢出来なくなり、額を合わせれば、間近に彼女の漆黒の瞳がある。
その美しさに、飲み込まれてしまいそうだ。
美しい葵。愛しい葵。
どうか。
俺に、君の唇を許して欲しい。
「心配しなくていい。君が俺を手放せなくなる以前に、俺は君をもう手放せないのだから」
そう言って、そっと唇を啄ばむと、葵はその顔をみるみる真っ赤に染め上げた。頬を撫で、今度は耳元に口を寄せる。
「もう君は、俺のものだよ」
耳への刺激に、体を震わせた葵は耳を庇いながら、俺から少し体を離した。
耳が感じるのかな。
いいことを知ったと、笑みを浮かべて葵を見ると、葵は片眉を上げ、俺を睨み付けた。
俺を睨みながら口角を上げるその様子は、彼女と出会った頃のような、勝気に俺を射抜く鋭さがある。
先程までの少女のような反応も嬉しいが、やっぱり葵はこうでないとな。
そう思っていると、葵は、ふん、と鼻で笑った。
「賭けてたんだ。貴方が私を見つけることが出来るかどうか」
葵のその言葉に、俺は首を傾ける。
「…賭け?」
「うん。貴方が私を見つけることが出来たなら、私は貴方のものになるつもりだった。でも、それと同時に……」
「それと、同時に…?」
一度そこで区切られ、こくりと、喉を鳴らす。
葵はそんな俺を見ながら、大輪の花のように艶やかな笑みを浮かべた。
「それと同時に、貴方も私のものになったんだよ」
「!!」
もう、
勘弁してくれ。
俺は葵の体を引き寄せ、覆いかぶさった。
驚き抵抗する葵の耳へ息をふっと吹きかけ、一言。
「可愛すぎるのが悪い」
そう告げて、彼女にキスの雨を降らせることにした。