己の証明
何もかも、手遅れだった。
ソフィアを抱えているため捕まえやすかったはずのネリーを逃がした。クラウス様は出血量が酷く、意識不明のままだ。
そして、リラ様は連れていかれた。
駆けこんだ時には、彼女の部屋はからっぽだった。後からステラ姉さんから聞いた話によれば、ローグ・ゼルドと思わしき男が、人間くらいの大きさの布に包まれたものを抱えて逃げる様子を目撃した兵士がいるらしい。
全て、何もかも、終わった。
「……クソッ」
壁を思いきり殴りつける。足りない。もう一回、足りない、全然足りない。
「クソッ!」
壁に亀裂が入った。開いた傷口から血が溢れて、壁紙を赤く汚す。
何度か繰り返して、やめた。壁に手をつき、ずるずると座り込む。
何回目だ。何回、後悔したら気が済むんだ、僕は。
ポタリと冷たいものが手の甲に落ちる。
『泣くなよ。お前に泣く権利なんかないんだから』
「わかってるッ」
『辛いなら諦めればいいのに。こっちに来れば楽だよ。……どうせ、どれほど足搔いたところで『化け物』は変わらない』
「黙れ!うるさいんだよッ!……うる、さい」
誰もいない自分の部屋で、必死に嗚咽を噛み殺して、頭を抱えた。そうしないと、真黒な水に飲み込まれてしまいそうだった。
『化け物』にわざわざ言われなくたって全部わかっている。
僕は、何もわかっていなかった。
わかっていないくせに、わかった気になって、他人を傷つけて引っ掻き回して、全部ダメにした。
僕なんて死ねばよかったんだ。本当に本当に、死ねばよかった。どうして、セレナの首を絞めて崖から落ちた時に死ねなかったのか。
もう、遅い。何もかも。
だから、哀しいとか、寂しいなんて言う資格は、ない。
何日も何日も、城の自室にこもっていた。
カーテンを閉め切っているせいで時間の感覚はない。暑さも寒さも空腹も眠気もない。
まるで昔に戻ったようだった。リラ様に会う前に。
リラ様のことを考えた瞬間、鈍くなりかけていた感情に激しい痛みが走る。
どうすればよかったのか。
どうすれば、最悪の結末を避けられたのだろうか。
「……結末?」
ふっと、妙な笑いがこみ上げてきた。
結末だって。馬鹿だなあ、僕は。
何もわからないまま、何もできないと蹲ったところで、何も変わらないことは身をもって知っているくせに。
事故憐憫に浸って保身に走るのは、もう嫌だ。
感情が振り切ったのか、もう自棄だった。
だって、これ以上何も失いようがない。這い上がるしかないのだ。
それを勝手に結末だなんて、いい加減にしろ。
自分で自分を罵って、立ち上がる。ぐらりとよろめいたが、そのままカーテンを破る勢いで開いた。
眩い陽光が暗闇に慣れた眼球に突き刺さる。
痛いなあ。涙出てきた。
ふと、リラ様の言葉を思い出す。
二度と泣かない、泣かないと誓ったから。哀しい時に綺麗に笑える人になりたい、と。
同時に、熱に浮かされて泣きながら縋りついてきた姿が、はっきと甦る。
彼女に守ると言いながら、何度約束を破っただろう。そればかりか、僕が彼女にずっと守られてきたのだ。
けれど、いい加減終わりにしよう。
クローゼットの奥から正装を引っ張り出し、自分の手際の悪さに苛立ちながら、どうにか身なりを整える。目の下にドス黒いクマができて顔色も病人のように真っ青だが、もうこれは仕方ない。
部屋を出て、たまたま通りかかった侍女を呼び止める。
「少し、いいかな」
「何でしょうか」
「陛下にお会いしたいのだけど、こう伝えてくれる?『ハル・レイス・ウィルドネットが、リラ・クラリス・フォード王女のことでお聞きしたいことがあります。拒否するようでしたら城中の人間を半殺しにして回りますよ』……ってね」
にっこり笑って脅迫文を口にすると、侍女は可哀想なくらい青ざめてこくこく頷き、すっとんで行った。
怖がらせたよね、ごめんね。
申し訳なく思う気持ちはあるが、もう手段を選んでいる暇はない。
逃げ続けたモノ全てに、向き合うために。
どれくらい眠っていたのだろうか。
うっすらと意識が戻る。身体が酷く怠い。腕が悲鳴を上げている。
馬車に乗せられているのか、普段なら何ともない揺れのせいで吐き気がする。
目を開くと、焦点の合わない薄暗い視界に自分の手元が映りこむ。
手首を軽くだが縛られている。……自分が?何故?
「おはよう。気分はどう?」
驚いたところに聞き慣れた澄んだ声をかけられ、完全に目が醒めた。
隣で、狭苦しい馬車の荷台の中で押し込められているのは、リラだった。
普段のドレス姿ではなく、麻布をザックリ織った粗末な服を着ている。短くボロボロのスカートからすんなりした白い脚が覗き、華奢な足首には足枷がはめられている。手も縄できつく縛られていた。
王女には耐え難い待遇のはずだが、リラはいつもと変わらない笑顔を浮かべて、
「大丈夫?まだ目が醒めてないの?あ、左の腕は動かさないようにね。酷い状態で熱を持ってるから。処置はしてあるから、安静にしていれば治るはずよ」
ああでも、縛られているから動かしたくても無理ね、と笑う。まるで茶飲み話に花を咲かせるような気楽さで。
「……意味がわからない。何も、知らないのか?」
「何が?」
リラはこてんと首を傾げる。
どうやら何も知らないようだ。事情もわからないまま連れ去られたのだろう。ちょっと信じられないくらい危機意識がないが、心のどこかでほっとする自分がいた。
この人にはバレていない。もう少しの間は誤魔化せる。いつまでかは、わからないけど。
そう思った矢先、彼女は爆弾を落としてきた。
「ソフィアの本当の名前がフィリア・オルコットで、復讐のために私の侍女をしていて、今は『女王様』の元に帰る途中という話?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「いつ、から、」
「最初からよ」
さらりと告げられ、愕然とする。
「私もお父様もあなたの正体に気づいていたわ。お父様は何かに利用できると考えて泳がせていたみたいね。私は、ただの興味だったけれど」
「きょう、み?」
「ええ。ソフィア……いえ、フィリアと呼んだ方がいいかしら?あなたは国王の粛清によって全てを奪われた。だから憎み、復讐したいと願った。そうね?」
その通りだ。だけど、何故か頷くことさえできない。
リラはにっこり笑って、言った。
「私も、あの人に母を、日常を、未来を奪われた。母が守ろうとした全てを踏み躙った」
激しい言葉とは裏腹に、笑顔も口調も軽やかだ。その軽やかさが、全てを知った上で無邪気なふりができると暗に示し、この状況ですら続ける姿が、怖い。
怖い。怖いのに目が逸らせない。
「だから、あなたに興味があったの。少し似ている気がしたから。……けど、あなたは優しくて、中途半端だったみたいね」
ザクリと、氷のナイフが心臓に突き刺さった。
じくじくと左腕が痛む一方で、右手は生ぬるい感触を覚えている。
中途半端。
これ以上に今の自分に当てはまる言葉があるだろうか。
全てを振り切って復讐にかけると決めた。なのに殺せなかった。勝てなかった。違う、負けたのだ。しかも、よけいなことまで口走って、泣いて。
今だって、自分がフィリア・オルコットなのか、ソフィア・フリスなのか、決められずにいる。もうソフィアには戻れないくせに。
「クラウスのことを後悔しているなら、復讐なんてやめればよかったのよ。あの人は自分で思っているよりもずっと真面目で善良な人間だから、あなたが正体を隠したままでいれば関係を保てたでしょう」
「そんなのわかってるッ!」
反射で怒鳴る。すると、リラは笑顔を消して、
「わかっていたでしょうね。そして、復讐者を取ったのに、心の中ではクラウスの恋人であり続けることを望んでいた」
だから中途半端なのよ。今もね。
リラは低く囁いて、今まで見たこともない、ゾッとするほど冷ややかな微笑を唇に刻む。
ハルに向かって投げつけた言葉が自分に跳ね返ってくる。騙されている、何にもわかっていない。
わかっていなかったのは、自分の方だ。
唇を噛んでうつむいた時、走行中にもかかわらず男が飛び込んできた。ライトだ。
「よっ、目ぇ醒めたか~……って、何で泣きそうになってんだ、フィリア?」
自分はそんな情けない顔をしているのか。こいつが一目で気づくほど。
「うるさい!」
「お、怒んなよ。あ、怪我してるのに拘束されてるからか?ごめんな、オレもやりたくはなかったんだけど、旦那が任務失敗のペナルティだって言うからさ。次の街についたら外すから、それまで我慢してくれよ」
「なら、私の枷も外してくれないかしら?窮屈でしょうがないの。別に、逃げたりしないわ」
リラが可愛らしく微笑むと、ライトはそちらに顔を向けた。
「いやぁ、それはできない相談だね。美人のお願いは聞いてあげたいけど、あんたは信用ならないから注意しろって、女王様にも言われてるし」
「ふふっ、ずいぶんな言われようね」
初めから期待していなかったのだろう。リラは微笑みを浮かべたまま肩を竦めた。
「せめて、この格好はどうにかしてほしいものだけど。せっかくお気に入りのドレスを着て待っていたのに、全部売り飛ばすなんて。ああ、宝石類はネリーさんが持っているんだったわね」
「確かにあんたほどの美人がそのボロい恰好ってのはちょっと可哀想だけど、これも女王様の命令でね。ああ、何ならそれ脱ぐか?手が不自由だっていうならオレが手伝ってやるよ」
ライトはくくっと喉の奥で笑った。冗談のような口調だが、リラへの視線の中にはっきりと欲望が浮かぶのを見て、カアッと体が熱くなった。
「黙れ変態野郎!誰に向かって……」
「何でフィリアが怒るんだよ」
ハッとした。
そうだ。関係ない。もうソフィアではない。リラがどうなろうと、別に。
それなのに、口は余計なことばかり言う。
「貴様のような奴が女に触るなって言っているんだ。気持ち悪い。それに、この人を怒らせない方がいいぞ」
「はぁ?いやオレに対して失礼すぎるだろ!?」
しまった、煽ってしまったらしい。……いや、関係ない。関係ないんだ。
ライトが苛立った目をして、呆気なくリラを組み敷いた。じゃらりと金属が擦れる音がした。さらさらと銀色の髪が流れて広がってゆく。
「別に、女王様には生きて連れてくるようにしか言われてないし、ここでちょっと楽しんだって文句は言われねぇよ。どうせ、大勢のじいさんに貪り尽くされる運命だったんだろ?」
「なら、試してみる?」
氷のように冷え切った声が落ちた。
一瞬、誰の声だかわからなかった。それはライトも同じようで、リラの頭の横に両手をついたまま固まっている。
「試してみるかって、言ってるのだけど」
誘うような言葉なのに、声も表情も氷の刃のようだ。ふっと唇を緩めると、冷え冷えとした凄艶な笑みが形作られる。
「死ぬほど後悔することになると思うけれど、それでもいいなら試せばいい。大丈夫、殺したりはしないわ……セルシアの元天才剣士、ライト・バロウさん」
「ッ!?何で、」
「名前を知っているのか、かしら?あなたは有名ですもの。希代の天才として誉れ高きかの剣士が、陰謀によって出世コースから足を滑らせ、セルシアから去ったことも含めて」
ライトがみるみるうちに青ざめてゆく。
リラは一度笑みを消して、今度はわざとらしいくらい無邪気に笑う。
「フラウィールではハルにずいぶんな仕打ちをしてくれたわね」
「あれは向こうが……」
「そうでしょうね。あの頃のハルは酷く不安定で、自分で自分を制御できない状態だった。そこにローグ・ゼルドが現れ、ハルを揺さぶり、その後の戦闘はあなたが担当した。そこで圧勝し、自分を貶めたセルシアへの雪辱を晴らす、というのがあなたの予定だった」
完全にリラの独壇場だった。歌うような語りは誰にも止められない。
「けれど、ここで作戦は狂った。ブランクという巨大なハンデを折っているはずの逆上した子供に、一流の剣士であったはずの自分が負けた。だから、あなたはローグ・ゼルドやネリー・オルコットと違って、しばらくの間は裏方に回っていた。セルシア兵のふりをして諜報をしかけていたこともあるけれど、それはソフィアだけでも事足りる。よって、ライト・バロウは不完全燃焼のまま今に至る、というところかしら?」
歌うような口調で語られる内容は、自分の知る限りでは全て事実だった。それどころか、ライトの内面まで抉り出している。ただの推測であろうとそうでなかろうと、ライトの苦渋に満ちた顔が彼女の言葉を肯定していた。
「……あんた、どこまで知ってる?」
「さぁ?私は一介の王女に過ぎないわ」
「誘拐されて襲われそうになってるのに精神的に追い詰めようとする女がただの王女様でたまるかよ。まさか、誘拐されたのも計画の内だなんて言わないよな」
「ご想像にお任せするわ」
「……やってらんねぇ」
ライトは大きく舌打ちすると、リラの顔を拳で殴った。それだけでは飽き足らず、彼女の華奢な身体に蹴りを入れる。小さく呻き声が上がった。
「お前!何やって……」
「お前こそどっちの見方なんだよ、フィリア。いい加減にしろ」
苦々しげに睨まれ、押し黙る。
「泣けよ。泣いて謝ればやめてやるぜ」
「嫌よ。……あなた程度で、私が泣くわけないじゃない」
冷めた目で答えるリラを、ライトは数回殴り、踏みつけた。その間中、リラは痛みに堪えるように唇を噛み、氷のような眼差しを決して逸らしはしなかった。
やがて、ライトが暴力を止めた。
リラから離れ、目を逸らす。仕草や表情が追い詰められた獲物のように見える。
「……こんな弱っちい女殴ったって、全然面白くないし」
言い訳のように呟いて、出て行った。
また、リラと二人きりになった。
顔は一度しか殴られなかったが、それでも真っ赤に腫れ、唇も切れて血が滲んでいる。服の下はもっと酷いのだろう。起き上がろうと体を震わせ、痛みに顔を歪めた。
助け起こすことはできない。もう侍女ではないから。敵だから。
けれど、彼女の痛々しい姿を直視することなどとてもできそうにない。
無言で顔を伏せていると、リラがくすりと笑って、
「優しいのね、あなたは。庇ってくれてありがとう。でも、次からはやめた方がいいわ」
「……庇ってなどいない」
「あなたがそう言うなら、そういうことにしておきましょうか」
ちらりと目をやると、体を起こして壁に寄りかかって座っていた。ソフィアが仕えていた頃のような、穏やかな表情で。
怖い、と思った。
正体が見えない。底が知れない。大きな青い瞳は澄み切っているのに、何を考えているのか、少しも読み取ることができない。
「私が怖い?」
心を読まれたのかと思いドキリとする。
「別に、いいよ。怖くても不思議じゃないわ。私はこういう人間だから、あなたが助ける必要はないわ」
どういう意味なのか。
拒絶なのか、労りなのか、優しさなのか、皮肉なのか。
「それに、あなたは私のことより、もっと考えるべきことがあるでしょう」
「それなら、……これは、ソフィア・フリスだった頃の自分として言いますが」
あら、面白いとリラがくすくす笑う。
からかうような声音を無視し、ずっと思ってきたことを口にした。
「あなたこそ何故、自分を忘れた、しかも他人と誤解するような男のために、命を懸けるのですか」
リラが目を見開いた。
知られているとは思わなかったようだ。確かに、彼女とあいつの事情は最近知ったばかりで、しかも極僅かな断片のみだ。
それでも、リラの尽くし方は全く不釣り合いだった。
そう、思っていたのだが。
「それは、違うわ」
きっぱりと否定し、それから、そっと微笑んだ。
「私は誰かのために何かをしたことなんて、一度もない。私は、私のために、考え得る限りの手を尽くして、私の人生を生きているの。私が命を懸けるのは、それが私のためだから」
力のある眼差しに射抜かれ、もうそれ以上、何も言うことができなかった。
それと同時に、酷い劣等感が湧いてくる。後ろめたさに耐えられず目を背ける。
一族のために復讐を誓った。
けれど、本当は自分のためだったのではないか。憎しみと喪失感に苛まれ、現実から逃げようとして復讐の道を選んだだけで。
けれど、ソフィアとしての生活が楽しかったから、途中から復讐のことさえ忘れていたふりをした。あの日、あいつらに出会わなければ、何もかも誤魔化しながら今もソフィアでいたかもしれない。
突きつけられた現実にギリギリと締め上げられ、窒息しそうだった。
もう、どうしたいのか、どうすればいいのか。
自分が誰なのかさえ、わからない。