伸ばしたその手は届かない
クラウス様と別れ、やけに窓が少なく、灯りのない真っ暗な階段を上っていく。塔の中は冷たく、暗闇の奥から手が伸びてきて絞殺されるのではないか、後ろから突き刺されるのではないかと、嫌な想像ばかりかきたてられる。
落ち着け。今は、ミシュア姉さんを助けることだけを考えろ。
震える足を無理に進め、唇を噛みしめる。口の中に広がった鉄の味が、ここが悪夢ではなく現実なのだと教えてくれる。
全神経を研ぎ澄ませ、ただひたすら走り続ける。胸の中に渦巻く不安を押し隠しながら。
と、その時、前方で足音がした。
靴音は一人分。走っているようだが、リズムが不安定で、間違いなくよろめきながら駆けている。
ミシュア姉さんだ。
僕ははじかれたように顔を上げ、感覚だけを頼りに螺旋階段を駆け上のぼる。
なかなか追いつけなくて、焦燥感と苛立ちが湧き上がる。こんなに暗くなければ、いや、僕がもっと速ければ。焼け焦げそうになる感情を無理矢理押しやり、加速する。
それでも走り続けるうちに、終わりが見えた。腐りかけの小さな木の扉がある。それは僅かに開いていた。
階段を一気にとばし、反動をつけた状態で木の扉を蹴り破る。メリメリという音と共に、転がり込む。埃が舞いあがり、カビ臭い空気に咳きこんだ。
「ごほごほっ……ミシュア姉さん?」
滲んだ涙を拭うと、目の前に古びた本が投げ出されていた。ちょうど、真ん中のあたりで開かれている。
カビの生えた黄ばんだ紙。右側は文字でびっしりと埋め尽くされている。 そして、左側は、
「ミシュア、姉さん……?」
黒のローブを被り、手袋をはめた姿。フードの中から覗く顔は、不気味な仮面に覆われている。おどろおどろしいその絵は、ミシュア姉さん、いや、シャルキットにそっくりだった。
ざわりと皮膚が泡立つ。どうして、こんな本がここに。
と、その時、
「だ……れ……?そこに、いるの」
か細い声にハッと顔を上げると、薄暗い部屋の中に浮かび上がるようにして、ミシュア姉さんが立っていた。
柱に寄り掛かり、小刻みに震えている。青白い手足は傷だらけで、細く血が流れている。酷く痛々しい、今にも崩れて消えてしまいそうな姿で、ミシュア姉さんは繰り返す。
「だれ……?だれ、なの?」
掠れた、泣きそうな声で呟く。渇望と懇願の混ざったような、濁りきった瞳で。
僕が、わからないのだろうか。
ひりつくような胸の痛みをこらえ、優しく声をかける。
「僕だよ、姉さん」
ぴくりとミシュア姉さんが震えた。
「……う……ちが、う……こんな、はず、じゃ」
「姉さん?どうし……」
「うるさいっ」
悲鳴のような叫び声をあげて、ミシュア姉さんが後ずさる。何かを期待するようにも見えた顔が更に青ざめ、激しい絶望と恐怖に染まってゆく。
「来ないで、来ないで裏切り者!違う、私はまだ負けてないのっ!あの人は助けてくれるわ!だから、来ないでえっ!」
手を無茶苦茶に振り回し、拒絶するように叫ぶ。
しかし、ミシュア姉さんに拒絶されたことよりも、懇願するような「あの人」という言葉が突き刺さった。
薄青い冷たい目。人間味のない冷徹な声。あんな、良心の欠片もないような男を待っているのか。全て、あんな奴のために。
理解した瞬間、哀しみと苛立ちと、どうしようもない無力感に泣きたくなった。
どうして、ミシュア姉さんはわからないの。あいつが助けてくれるわけないのに。
「……ミシュア姉さん、どうしてそこまで、ローグ・ゼルドにこだわるの」
ピタリとミシュア姉さんの動きが止まった。
「どうしてって?そんなの、愛しているからに決まっているでしょう?」
同意を求めるように、ガクリと首を傾ける。その拍子に流れ落ちた黒髪は艶を失い、老女のように乾いている。蝋のように白い肌に、濁った黒い瞳と切れて血の滲んだ唇だけが、不気味な色彩を放つ。
が、次の瞬間、ミシュア姉さんの頬に朱がさし、淀んだ瞳がとろけ、幸福そうに微笑んだ。
「もうすぐ、もうすぐ、よ。きっと、来てくれる。ローグさんは私を頼りにしてくれて……私を、褒めてくれた。私が頑張って、頑張って、一生懸命言う通りにすれば、傍にいてくれるって。私、頑張ったもの。ローグさんはきっと、私を助けてくれる……守ってくれる。また、あの時のように幸せになれるの……」
うっとりと紡がれる言葉の数々に、肌が泡立った。
ミシュア姉さんは、異常だ。
少し前まで、僕もかなり危ない人間だっただろう。認めたくないけれど、今もきっと歪んでいる。
けど、その僕以上に、今のミシュア姉さんは危険だ。利用されていることに気がついていないばかりか、夢と現実の境目すら失っている。
ローグ・ゼルドのせいだ。あいつが、ミシュア姉さんを壊したから。
そして、僕がミシュア姉さんを守れなかったから、こんなことになったんだ。
「ふふ、今度はどんな風に褒めてくれるかしら。できれば笑って欲しいわ。……そうだ、こんなボロボロのドレスじゃ、ローグさんに失礼ね。私ったら、どうしてこんな恰好をしているのかしら?着替えなきゃ……」
恍惚とした微笑のまま、ふわふわした足取りで塔から出ようとする。
「……気づいてるんだろう。本当は」
「……え?」
ミシュア姉さんが振り返って首を傾げる。
ごめん、姉さん。僕はこれから酷いことを言うけど、これが真実なんだ。
僕はグッと拳を握りしめ、静かな声で告げた。
「ローグ・ゼルドは来ないよ」
ピシリと、ガラスに亀裂が入るような音が聞こえた気がした。
ミシュア姉さんの顔から血の気が引く。けれど、すぐに薄く微笑んで、
「何を言っているの……?ローグさんは来るわ。絶対に来るわ。裏切り者にはわからないだけ……」
「ミシュア姉さんは失敗したんだろう」
姉さんの笑顔が凍りついた。
「ごめん、あいつからの手紙、読んだんだ。そこに『失敗は許されない』て書いてあった。ミシュア姉さんは、リラ様を殺すように命じられたんでしょう?そして、失敗した」
一言口にするたびに、ミシュア姉さんの顔から恍惚とした狂気が消えていき、代わりに絶望と恐怖で満たされていく。
ごめん。本当にごめんなさい。でももう、現実を見なきゃいけないよ。
僕達は、過去に囚われてままではいられない。未来に向かって歩き始めなければ、いつまでたっても闇から抜け出すことはできない。
「……でも、命令通りに動いたとしても、きっと変わらないよ。あいつにとって、ミシュア姉さんは捨て駒と同じなんだ。これ以上、あいつに縋っていても苦しくなるだけだよ」
「違う……っ」
「違わないよ。本当は、ミシュア姉さんだって気がついているでしょう」
「知らないっ。そんなの知らないわっ!あ、貴方だって、あの子のことが忘れられないくせに!」
吠えたてられ、胸が引き絞られるように痛む。脳裏に、紫色のドレスを着た少女が浮かぶ。が、すぐに頭の隅に追いやった。
ごめん。でも僕には、守りたい人がいるから。僕を許さなくてもいいから。
「確かに忘れられないよ!でも、姉さんのそれとは違う!忘れられなくたって、前に進むことはできてる!」
ミシュア姉さんが目を見開く。僕は少し笑って、手を差し出した。
「もう……もう、終わりにしよう。過去に縋り続けるのはやめようよ」
「うるさい!私は、まだ……っ」
その時、ミシュア姉さんの顔に再び狂気じみた色が浮かんだ。漆黒の双眸がギラリと光りを放ち、唇を片方だけつり上げる。そして、傷だらけの青白い手が、ボロボロのドレスの中に伸びる。
「……そうよ。私は、まだ終わってない。まだ、負けてない……わ。今度……こそ、あの王女を、殺せば……!」
勢いよく引き抜かれた手には、ナイフが握りしめられていた。それを両手で持ち、真っ直ぐ突進してくる。
「ミシュア姉さん!?」
「わたし、の……私の邪魔を……するやつ、は!裏切り……者はっ!死ねええええっ!」
血走った目をぎらつかせ、前のめりになりながら僕に向かってナイフを振り下ろす。
ああ、結局こうなってしまうのか。
「ねえ、さん……」
僕はナイフを弾き飛ばし、折れそうに細い手首を掴みあげた。ナイフが床に落ちる音が、やけに虚しく響いた。
ミシュア姉さんが逃げようと身をよじり、叫ぶ。
「離せぇっ!この、裏切り者!お前なんか……」
「ミシュア姉さん」
自分のものとは思えない、地の底から響くような声がこぼれた。ミシュア姉さんがビクッとする。
「……もし、僕を刺して気が済むなら、いいよ。気が済むまで刺されてあげる。殺されたって構わない。それが贖罪になるなら……。ミシュア姉さんが、前に進めるなら。……でも、その後、リラ様のところに行くんでしょう?ローグ・ゼルドの命令通り」
ミシュア姉さんの真っ青な顔で震えている。濁っていた瞳から読み取れるのは、純粋な恐怖だけ。
自然と乾いた笑みがこぼれた。ミシュア姉さんの顔に更に恐怖がはしる。今の僕は、きっと普通ではない。わざと『化け物』をいくらか引きずりだしたから。
実の姉に向けられる恐怖に、心臓が引き絞られるように痛む。でも、いいんだ。それで構わない。
これが、『化け物』としてではなく、ただの『弱虫』な人間の僕が、選び取った答えだから。
「リラ様を傷つけることは許さない。リラ様だけじゃない。もう二度と、僕の大切な人達を傷つけたくないんだ。もし、リラ様を傷つけるつもりなら……」
一度、言葉を切る。それから、覚悟と共に放つ。
「僕は、どんな手を使ってでもリラ様を守る」
ミシュア姉さんが声にならない悲鳴を上げる。悪夢でも見ているような表情でしばらく震え続け、やがてふらふらと座り込んだ。
僕はミシュア姉さんの手を離し、威圧も解いた。どす黒く重い空気が霧散する。
ミシュア姉さんは呆然と虚空を見上げて、ピクリともしない。
「……ごめん、姉さん。でも、僕は本気なんだ。リラ様を守るためだったら、何だってする。だから……さ、」
泣きたいような気持を押しやり、『弱虫』な僕で、『化け物』ではない、人間としての僕で、そっと笑いかけた。
「お願いだから、僕の大切な家族を、僕に傷つけさせないで」
長い睫毛が揺れる。虚空を見上げていた瞳から、透明な雫が一粒、こぼれ落ちた。
「……うそ、つき。大切なら……、あの時、何で助けてくれなかったの。私、痛かったのに。痛くて、痛くて、哀しかったのに……」
ミシュア姉さんの言葉に、悪夢のような惨状が蘇る。
血飛沫が飛び散った描きかけの絵。倒れたミシュア姉さん。血が流れて、広がって、止まらなくて。そして、ローグ・ゼルドの嘲るような眼差し。
「あれは……」
僕が『弱虫』だったからとは、言えなかった。
「……誰も、助けてくれなかった。ハルも、ステラも、お父さんもお母さんも。みんな、嘘ばっかり。酷い。酷いわ。……ローグさんなんか、『邪魔だから消えろ』って、言ったのよ……」
淡々とした、抑揚のない呪いの言葉が飛び出す。涙は透明なのに、その瞳は真っ黒で。
「……でも、ローグさんはね、『お前が必要だ』って言ってくれたの……。私を、必要としてくれた。嬉しかった。また、幸せになれると思えた……」
唇に淡い笑みが浮かぶ。それはほんの一瞬で、すぐに絶望に塗り潰された。
「でも、嘘だったのね。私は、都合のいい捨て駒だったのね。ローグさんは、……来ない、のね」
「ミシュア姉さん……」
「ありがとう、ハル」
驚いてミシュア姉さんを見ると、静かに微笑んでいた。もう笑うしかないという風に、真っ暗な瞳で、優しく、絶望に溢れた笑みを刻む。
「私の、負けね。もう、終わりにするわ」
スッとミシュア姉さんが立ち上がる。
嫌な予感がする。ざわざわと、胸の中を不安がかきまわす。
「ミシュア姉さん?一体何を……」
「ねえ、私は願いを叶えるわ。最期の、願いを」
懇願に満ちた、暗い囁きに押し黙る。
ミシュア姉さんはよろめきながら後退する。その時初めて、この部屋にはもう一つ扉があったことに気がついた。
ここは塔の中。じゃあ、この先に繋がっている場所は?
何もない。外だ。
不安が確信に変わる。すうっと指先が冷えた。
「ミシュア姉さんっ!何をっ!」
「願いをかなえるのよ。シャルキットのように……ね」
わけがわからない。ミシュア姉さんは何を言っているんだ。
混乱する僕を置いて、ミシュア姉さんは扉を開けた。冷たい風が吹き込み、埃っぽい空気をかきまわす。
向こう側には小さなスペースと、鉄製の柵がついていた。その向こう、遥か下には見慣れた庭園が広がっている。
「姉さん、駄目だ!」
駆け寄りながら叫ぶ。しかし、届かない。ミシュア姉さんの動きはやけに速くて、遠かった。
柵の向こうに身を躍らせて、長い黒髪を風に揺らして。希望と絶望の入り混じった眼差しが、僕の胸を突き刺す。
届かない。
「さようなら」
やけにゆっくりと、ミシュア姉さんの身体が風に攫われる。
世界から、音が、光が、消えた。
手を伸ばした先には、何もなかった。虚空を裂き、だらりと落ちる。
「あ……あああ……」
膝をつけば、ぱしゃんと水音がする。濃い紫の霧が、僕と同じ色彩の少女をかき消す。
『また、駄目だったな。……誤魔化すな。わかっているだろ?彼女を殺したのは、お前だ』
低く、『化け物』が囁いて。
僕が、ミシュア姉さんを、殺した。
ころした。ころしたころしたころした。
前は、守れなかった。けれど、今回は、
ぼくが、ころした。
「ああ……あ、うわああああああっっ」
ただ、叫んだ。
届かなかった手が、砕けて。その目に映るのは、返り血を浴びて嗤う少年の姿。
また、鮮血の海に沈んでゆく。




