慈悲なき観察者は天から見下ろす
今日は風が冷たい。
塔の頂上で空を見上げながら、そう思った。
この広大な敷地には、城の他にいくつか塔がある。そのうちの一つ、ほとんど使われることのない場所は、高みの見物にうってつけだった。
「全く、セルシアは馬鹿な国だ。こんなものに金を注ぎ込んで、民には施さない。……もっとも、この世界はどこも似たようなものだが、な」
皮肉げに呟く。だがその人物には、言葉ほどの感慨はなさそうに見えた。
冷たく、無機質な声。一切の感情を削ぎ落としたかのような無表情。冷めきった瞳には、実際は何も映っていない。
風に吹かれながら、傲然と地上を見下ろす姿は、酷く人間離れしていた。
冷酷な眼差しで地上を眺めていた人物は、ふいに目に飛び込んできた少女の姿に、少しだけ反応した。
「あれは……ミシュアか?」
疑問形ながら、確信していた。ミシュア・ウィルドネットで間違いない。この国で黒髪など、そういないのだから。
長く美しい黒髪を振り乱し、真っ青な顔で駆けてゆく。ドレスの袖や裾はズタズタに切り裂かれ、むき出しの白い手足にはいくつもの傷ができていた。薄く血が流れているのが、目のいい自分にはよくわかる。
何より目を引いたのは、絶望しきったその瞳だった。
深淵の黒。理性などとうにないのだろう、光が消え、虚ろだった。それも、人形のガラス玉の瞳とは違い、堕ちてしまった人間の闇。
もはや、彼女は誰の姿も見えない。彼女の世界には、暗闇を走る自分しかいないのだろうから。
もとは美しかった少女の痛々しい姿に、薄く、冷酷に微笑んだ。
「……哀れだな。誰も救ってなどくれないというのに。叶いもしない願望にすがり、手に入れられたかもしれない温もりを自ら捨て、貴様の手に残った物は何だ?」
ミシュアは答えない。自分に気が付いていないのだから、当然だ。
代わりに、答えてやろう。
「何もない……だろう?」
そう、何もない。何も残っていない。
ミシュア・ウィルドネットは、敗北したのだ。
「貴様は利用されただけだ。そして、失敗した。例え成功したとしても、こちらには受け入れる気などなかったがな。……本当に哀れで、下等な生き物だよ」
冷たく吐き捨て、立ち上がる。漆黒のローブが、突然の強風に激しくはためく。
最後に振り返ると、ミシュアはまだ走っていた。苦しそうに、必死に。
視界の端に映る彼女に、傲慢にして残酷、暗い愉悦の溶けた微笑を浮かべ、刃を放つ。
「せいぜい逃げるのだな、愚かな娘……ミシュア・ウィルドネット。こちらの気が変わらぬうちに。まあ、逃げていられるのも今のうちだが。……それとも、全てを失った貴様は、今度こそ、残酷な生より甘美な死を選ぶのか?」
低い声で淡々と告げると、さあっと笑みを消した。まるで初めから、世界の全てに無関心だったかのように。
その目には何も映らない。
物語の結末は、すぐそこなのだから。
そうして、ローブの裾をはためかせながら、不気味なほどの無表情でその場を後にしたのだった。