天才芸術家の正体
大急ぎで馬車をとばしまくり(といっても、馬鹿師匠の暴走馬車に比べれば遥かに易しい)、短時間で、家に帰ることができた。
数瞬間ぶりの自宅は、使用人がバタバタと駆けまわり、重苦しい空気が立ち込めている。
ステラ姉さんがキッと目をつり上げ、声を張り上げる。
「お母さん、帰ったわよ!」
すると、部屋の奥の方から母さんがすっ飛んできた。
そうして、僕の顔を見てポカンと口を開ける。
「……お帰り。ハル、よね?」
「え、あ、はい。多分ハルであってると思われ……痛てっ!」
「寝言は寝て言えクソ野郎」
姉さん、そんなにガン飛ばすことはないと思う。
僕らのやり取り(ステラ姉さんによる一方的な暴力)を見て、母さんはあらあらというような表情をしたのち、くすりと微笑んだ。けれど、母さんはやつれて疲れ切った顔をしていて、青ざめているため、痛々しく見える。
「あの、母さん。ミシュア姉さんは?」
「……ごめんなさい。まだ見つからないの」
母さんの瞳が暗く陰る。
ミシュア姉さんが本当にいない。この家の、どこにも。
そのことに、目の前が真っ暗になったような気がした。
「お母さん、私達、お姉ちゃんの部屋を確認しに来たの」
「ミシュアの?」
「急いでるんだ。いい?」
「ええ、いいけど……」
母さんは困惑気味に頷く。
「じゃあ、私は少しの間家を開けるわね。聞いてみることにするから」
「了解。お姉ちゃんが見つかったら、ハルを行かせるよ」
きびきびした口調で言い、足早に階段を駆け上がっていく。ステラ姉さんの後を追おうとした時、
「ねえ、ハル」
母さんが優しい声で、僕の名前を呼んだ。
「何か、いいことがあった?」
「えっ?」
驚いて振り返る。
「前よりしっかりした顔つきになってるから。……それに、ちょっとだけ、小さい頃のあなたと似た目になっているのよ。気が付いていなかったの?」
穏やかな口調にドキリとする。
そういえば、ステラ姉さんも変わったと言っていた。もしかして、……本当に、変わり始めている?
こんな短期間で、何年間も沁みついたものが劇的に変われるはずはない。そんな簡単な話ではない、はずなのだけど。
もし、それが本当なら、
「とある人のおかげだと思うよ」
言いつつ、母さんに向かって笑った。
相変わらずへらへらしているだろう。でも、きっと、以前の安っぽい愛想笑いよりは、ちゃんと笑えている。
母さんは驚いたように目を見張り、ついでその目を慈愛に潤ませ、口元をほころばせた。
ふわりと微笑む。
「よかったわね。……やっぱり、外に出たのは正解だった?」
「うん。おかげで、ここまで来れたよ」
リラ様が王命で引きずりだしてくれなければ、逃げたままだっただろうから。
と、その時、
「こんの野郎っ!いつまでこの私を待たせる気だ、ふざけんな!」
二回から降ってきた怒声に、冷や汗が流れた。
今この瞬間、ステラ姉さんのことを心底怖いと思ったのは、僕が『弱虫』だからではないだろう。……ないよね?
「内側から鍵をかけているわね」
ミシュア姉さんの部屋の前で、ステラ姉さんは盛大に舌打ちした。
「他に鍵はないの?」
「バーカ、あるなら初めっから持ってきてるわ。クソ愚弟なら私の弟でいる資格がないからどっかヘ行け」
「……あんまりだ」
「一生そのまま沈んでなさいよ。……しかしお姉ちゃん、いつの間に新しい鍵を作ったのよ」
ぐっと眉根を寄せ、呟く。と思ったら、尊大な眼差しを向けられた。
「あんた、手加減して扉壊せる?」
「は?手加減とはどういう……」
「この家壊さないレベル」
「壊すわけないでしょうが!僕を何だと思ってるんだ!」
「常にめそめそしてる甘ったれの愚弟」
「……すみませんでした」
「わかったならさっさとやれ」
しかし、家を壊さないレベルというのはどういうレベルなんだ。僕はそこまでの怪力じゃない。
溜息を吐きつつ何歩か下がり、身体を軽くひねって扉に蹴り入れる。と、その勢いのまま後方に吹っ飛んだ。なぎ倒され、大穴まであけられた重厚な扉が室内の物を破壊し、暗闇の中に埃が舞い上がる。
「……あ、あれ?おっかしいなー、こんなつもりじゃ……」
「こんなつもりじゃ、じゃねーよっ!家壊さないレベルって言ったでしょうクソ野郎!」
「家は壊してない……」
「うるせーわ。どこの国に、部屋に入るためだけにここまでする奴がいるのよ。え?」
「……すみませんでした」
確かに僕が悪かったので身を縮める。
というか、以前と同じ感覚で蹴っても、ここまでにはならなかった気がする。まるで、日に日に力や速さが向上しているかのような。
いや、さすがにそれはないと思うけど。修行どころか、ろくに動かないし。
でも、もしそうだとしたら……?
冷や汗が流れ、背筋に悪寒がはしる。それを振り払うように、ミシュア姉さんの部屋に足を踏み入れた。
カーテンを閉め切っているため暗く、様子はわからないが、薬と絵の具、甘ったるい香水の香りに満ちている。そして、ところどころ鈍い銀色の光が、刃物のように鋭くきらめいている。
そこへ、ステラ姉さんが張り詰めた表情でつっきって行く。
「あの、そんなにズカズカ行くのは危ないんじゃ……」
「だからってじっとしてたら始まらないでしょ。時間がないんだから」
苛立った声に押し黙る。ステラ姉さんは奥まで行くと、長いビロードのカーテンに手をかけた。数秒ほど、躊躇うような姿が影になって見えたが、それを振り払うように、一気にカーテンを開け放った。
濃紺のビロードが左右に流れ、真っ暗だった部屋に眩い光が差し込む。突然の眩しさに思わず目を細める。
「うわっ、眩し……え?」
ステラ姉さんが息を飲む。目が慣れた僕も目を開き、……呆然とした。
壁という壁が削られ、傷つけられ、赤や青、緑、黒の絵の具で乱暴に塗りたくられている。かと思えば、丁寧に描かれた淡い風景画が、滅茶苦茶になった壁に何枚も貼られている。床に敷かれた絨毯も切り裂かれ、目の痛くなるような原色の絵の具が飛び散っている。むき出しになった床はどす黒くなり、かなり傷んでいた。
部屋の隅には紙や絵筆、画材が散らばり、切り裂かれたドレスが投げ出されている。ひっくり返った椅子の上に、鮮やかな紅い花束が置かれていた。
そして、床にむき出しのままの包丁がいくつか落ちている。先ほどの光の正体は、包丁だったのだ。
混沌としか言いようがない滅茶苦茶な空間に、日差しを浴びて金色に染まった埃がふわふわと降り積もる。
「何、これ……どういう、こと?」
呟く姉さんの声は、震えていた。
「あ、あのさ。知らなかったんだよね?ここの様子のこと」
「知らなかったに決まってるじゃない。もう何年も、お姉ちゃんの部屋には、一歩たりとも入ったことがなかったんだから」
では、どのくらい前から、ミシュア姉さんの部屋は荒れていたのだろう。
あの日のことと、それ以来精神状態のバランスを崩してしまったミシュア姉さんの顔が目に浮かび、胸が軋んだ。
同じことを考えていたのか、ステラ姉さんの表情も暗い。が、それを振り切るように目をつり上げた。
「ボケっと突っ立ってないで。さっさと手掛かり探すわよ」
「……うん」
出来れば、今すぐここから逃げ出したかった。眩暈と吐き気に、足元がふらつく。
ゆっくりと周りを見る。が、絵具とガラクタの山に、時々ミシュア姉さんの絵があるくらいで、特別手掛かりになるようなものは見当たらない。
木のテーブルも傷だらけで、画材や破られた絵、ガラスの破片、手紙などが置かれて……手紙?
ミシュア姉さんが手紙のやり取りをする相手などいない。この部屋にこもってからの数年間は。
しかし、テーブルには山のように手紙や書類が置かれていて、上の方は真新しい。
嫌な予感に胸がざわつく。冷や汗がこぼれ、指先の感覚が薄れていく。
逃げたい。見たくない。
でも、逃げちゃ駄目だ。
覚悟を決め、手紙の一つに手を伸ばした時、
「な、何これ……っ!」
ステラ姉さんが、押し殺した悲鳴を上げた。
「どうしたの!?」
「こ、これ……」
慌てて駆け寄り、僕も息を飲んだ。
ステラ姉さんが開けたクローゼット。かなり大きなそれには、以前はドレスや作業着でいっぱいだった。
しかし、今のクローゼットの中にあったのは、何着かの漆黒のローブと、男物の手袋、不気味な薄ら笑いを浮かべた仮面だった。
ステラ姉さんが真っ青になりながら、呟く。
「何でこんなものが……。この仮面、お姉ちゃんが作ったの?わけがわからない。気が狂ってる……!」
僕もステラ姉さんと同様、得体の知れない恐怖に血の気が引くのを感じた。と同時に、妙に引っ掛かる。特に、この仮面に。
どこかで見たことがあるような……いや、見てはいない?話で聞いたことがある気がする。
じっと考え込んでいると、ふいにとある映像が浮かんだ。
アニーとの結婚話が上がり、帰省していた時。自分の部屋の窓から、酷く憂鬱な気分で霧雨の降る世界を眺めていた。
あの時、黒いローブを着た人がいた!
あれはミシュア姉さんだったのか?でも、ミシュア姉さんが外に出るはずがない。
だったら、あれはただの偶然?それとも僕の思い込みか?
頭の中がぐるぐると回り、眩暈が酷くなる。深呼吸しようとするが、部屋に押し込められた奇妙な臭いに、余計に息苦しくなるばかり。
「ハル?あんた、大丈夫なの?」
自分だって真っ青なのに、ステラ姉さんが心配そうな顔をする。
「大丈夫、ちょっと眩暈が……うわっ!」
眩暈のせいでバランスを崩し、落ちていたドレスの残骸に足を滑らせ、ガラクタの山に頭から突っ込んだ。
「……前から思ってたけどさ、あんたってほんっっっとうに、馬鹿ね」
心底呆れたような声が突き刺さる。痛い。まあ、僕が悪いんだけど。
その時、ガラクタの中に一枚の紙を見つけた。皺くちゃで黄ばみ、昔の物らしいそれは、トランプのエースのデザインが描かれていた。
トランプといっても、普通のものではない。繊細なタッチで細部まで描き込まれており、遊び用というよりは芸術的価値の方が高そうだ。
その絵を見た瞬間、全身の血が音を立てて凍りついた。
そのトランプを、緻密な線と鮮やかな色彩で描かれたその美麗なカードの完成品を、僕は知っている。使ったことがある。
この四種のエースを含んだシャルキットのトランプを、リラ様が持っていた。
そういえば、シャルキットは正体不明の天才芸術家で、ローブに手袋、仮面をつけた姿でしか現れないと聞いた。
震えが止まらない。もう結論は出ているのに、脳が理解することを拒んでいる。
「その紙がどうかしたの?ていうかあんた、さっきよりも顔色が悪いわよ」
ステラ姉さんの問いかけに答える余裕がない。
よろめきながら立ち上がり、テーブルの上の手紙を一枚取る。姉さんも駆け寄ってきて、横から覗きこんだ。
中の文は絵の依頼で、差出人は恐らく貴族だろう。クロフィナルから来ている。
そして、受取人の名前は。
「シャルキット?」
ステラ姉さんが怪訝そうに呟くのを、僕は絶望的な思いで聞いていた。
ゆっくりと、足音を立てないように前に進む。
このローブは重い。靴や手袋も男物だから、油断すると抜けそうになる。
鼓動がうるさい。これからすることを考えると、背筋が震えた。
大丈夫。きっと大丈夫。すぐ終わる。
これが成功すれば、彼は振り向いてくれる。
やらなければ。絶対、成功させなければ。
時折行き過ぎる城の人々は、皆こちらを振り返る。
気味悪そうな顔をする人もいれば、憧憬の眼差しで見る者も、ひそひそと喋る数人のメイド達もいた。
確実に目立ってしまっている。が、この方が咎められない。
落ち着こう。大丈夫だ。
今ならあの子はいない。
誰も彼女を守れやしない。
ゆっくり、ゆっくりと、歩を進める。そうして、辿り着いた扉をノックする。
「どなたですか?」
向こう側から、透明な水のように澄み切った、清らかな声が流れてきた。
ローブの袖に隠した包丁の柄を握り直す。
「シャルキットでございます。王様からご依頼を受け、リラ・クラリス様に絵を届けに参りました」
「お父様が、私に?知らなかったわ。……どうぞ」
何て無警戒な。馬鹿にもほどがある。
国王だって、これほど外部から遠ざけている大事な王女に、どうして護衛の一人もつけないのか。
呆れるほど馬鹿な奴らだが、今の自分には都合がいい。
「失礼いたします」
分厚い仮面の下、ミシュア・ウィルドネットは暗く微笑んだ。