霧雨は夢のように
さらさらした薄茶色の髪が、ふわりと風にたなびいて彼女の顔を覆い隠す。
ただ、透き通った甘い声が、二重に重なって響いた。
「ねえ、裏切るの?」
優しい、優しい声。容赦のない優しさ。
心臓を貫かれたような衝撃に床に手をついた。
「違う!違うんだ!ごめん、僕は」
「裏切るんでしょう?過去を捨てるんでしょう?……忘れるんでしょう」
少女がどんな顔をしているのか、わからない。さらりと髪が揺れる。
恐怖と焦燥が脳内を埋め尽くす。
違う。忘れたことなんかない。忘れるわけがない。
僕は、未だに過去を引きずり続けているのに。
「忘れたりなんかしない!裏切らない!だから、戻ってきてよ!」
すると少女は、足音一つ立てず僕に近寄ってきた。
ぞわりと皮膚が泡立つ。同時に自分に対する嫌悪感でいっぱいになった。
会いたいと願っていた。
誰よりも大切な、大切な少女。
守ろうとした。そして、守れなかった。
いつか思いをつたえようとして、伝えられなくて。それが鎖となってからみつき、未来に進めず。
彼女にもう一度会えるなら、何を犠牲にしても構わないと思っていた。
そして、今度こそ伝えよう。
そう、思っていた、はずなのに。
逃げようとしても、体が凍りついたように動かない。ただ、ゆったりとした歩みで近づいてくる少女を待つことしかできなかった。
怖いのか。
何が?
僕が弱いままなのを知られること?少女にどう思われているか?
……どちらも違う気がした。
本当は、すでに答えが出ているのかもしれない。
気がつかないふりをしているだけで。
少女は僕の目の前に来て、止まった。長い髪に隠れているせいで、こんなに近くにいるのに、どんな顔をしているのかさえ分からない。
白く華奢な指がのびて、僕の頬に触れる。
冷たい感触。まるで氷のような。
身動き一つとれない僕に、少女は微かに笑ったような、気がした。
「あなたの一番大切な人は誰?」
ぐしゃりと心臓を握り潰される。視界が奇妙に明滅して、歪んでいく。
口を開いても、声が出てこない。
一番、大切な、人。
そんなの決まっている。一生、変わることがない。
簡単なことだ。
それなのに、単語一つ出てこない。
乱れて壊れて、とっくに駄目になった脳内から、何かがこぼれていく。
大切な何かが。
大切だったはずなのに。一欠けらも思いだせないまま、消えていく。
「……思い出せない……」
気づけば、言葉になってこぼれおちていた。
少女が息を飲む気配がする。
終わった。
何もかも、全部。
やけに優雅な動作で、少女が離れていく。引きとめなければいけないのに、もう何かをしようと思えなかった。
その時、蹲った僕に、優しい声が聞こえた。
「ごめんね。酷いこと言って」
のろのろと顔を上げれば、少女が背を向けている。
「え……?」
掠れた声で聞き返す。
「忘れて」
強い風が吹いた。
少女の声も、姿も、荒れ狂う風にかき消される。
今更なって視界が元に戻り、絶望や怒りや、説明しようのない感情でぐちゃぐちゃにかきまわされる。
「待って、待って!まだ何も言ってないんだ!僕の一番大切な人は……っ!」
「……る。ハルっ!目を覚ませっつってんのが聞こえねえのかこのクソ愚弟!」
怒鳴り声と鈍い痛みにバッととび起きる。
嫌な汗が流れ落ちる。息も荒い。
周りを見渡すと、偉そうに腕を組んだステラ姉さんと、心配そうな顔をする両親、クラウス様とアニーがいた。
状況がわからず、混乱する。
「……え、あの」
「だいぶうなされていたぞ」
クラウス様のひんやりした声に頭が冷やされてきたのか、少し落ち着く。 小さく息を吐いた。
「今のは、夢……?」
「どんな悪夢見たのかは知らないけれど、ギャーギャー叫ぶなクソ野郎!この私とお父さんとお母さんまで来る羽目になったじゃねーか!」
明らかに怒った顔でステラ姉さんが怒鳴り続ける。目が怖い。
「あ……えっと、ごめんなさい」
「ごめんですむとでも思って……」
「いい加減にしなさい、ステラ」
父さんが低い声で遮ると、渋々と言った風にステラ姉さんが口をつぐんだ。変わらず目は怖い。
母さんが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫?熱があるかもしれないわ。お医者様に診てもらって方がいいかもしれないわ」
それは大袈裟だ。
「本当に大丈夫だから。気にしないで。心配かけてごめん」
「本当に?」
「うん」
サッと作り笑いを見せる。けれど、さっきの夢のせいで失敗したかもしれない。
父さんと母さんが、同時に哀しそうな、不安げな表情を浮かべた。ステラ姉さんも苛立ったように舌打ちする。
今はこんな顔をするような時ではないのかもしれない。
しかし、それならどんな表情をつくればいいのだろう。
結局僕は、愛想笑いを選ぶ。
「確か僕は、アニーから書物の伝説の話を聞いていたはずなんだけど……」
「はい、その通りです」
怯えたような目でアニーが頷く。
「話の途中で、急にハル様の顔色が悪くなって、気を失うように眠ってしまったのですが……。あの、そうですよね?」
自信なさげにクラウス様に同意を求める。クラウス様は無表情で言った。
「ああ、そうだ」
「そうだっけ……?」
「覚えてないとか馬鹿じゃないの?」
ギロリとステラ姉さんに睨まれる。
あはは、と僕は笑った。
「とにかく、心配かけてすみませんでした。少し考えたいことがあるから、一人にさせてもらえないかな?」
父さんと母さんが心配そうに僕を見つめる。急に罪悪感がわいて、目を逸らした。
クラウス様は感情の読めない冷たい眼差しを僕に向け、足音一つ立てず立ち去った。ステラ姉さんも僕を睨みながら出ていく。
アニーは泣きそうな顔で、二人に続いた。もしかしたら、さっきのことを自分の責任だと思っているのかもしれない。あとで謝っておかないと。
父さんと母さんだけが、僕の傍から離れようとしない。
酷く居心地が悪かった。
「大丈夫だから、一人にさせて。大丈夫だから」
二人の顔を見ないようにうつむいたまま繰り返す。
「……本当に、大丈夫なのか?何か言うことは?」
今、父さんはどんな気持ちでいるのだろう。母さんは。
こんなに優しい両親なのに、どうして僕は出来損ない何だろう。申し訳なさと後ろめたさでいっぱいになる。
本当にごめんなさい。
「ないよ。大丈夫だから」
僕は卑怯だから、顔を上げることができない。
「……そうか」
父さんはひとり言のように呟くと、母さんと共に部屋を出て行った。
部屋に、一人。
独りになるとさっきの夢が蘇り、悲鳴を上げたくなる。
あの少女が、誰だったのか。
どうして、あの少女の夢を見たのか。
僕は唇を噛んだ。
「セレナ……」
代償、なのかもしれない。
逃げて逃げて、逃げ続けたことへの。
……心のどこかで、このどうしようもない想いに気がついていることへの。
ぼんやり宙を見上げると、ふいに雨の音が聞こえた。
爆発しそうな怒りと焦りを発散させるように庭を歩きまわっていたソフィアは、ふと足を止めた。
濃い、湿気の匂い。
眉を潜めたのと同時に、さぁっと霧雨が降りだした。
細くて頼りなげな雨にこめかみが引きつる。
今日は本当についていない。昨日からだが。
クラウスは不在のまま、八つ当たりできるあいつは婚約がどうのと規制し、敬愛する王女は様子がおかしい。そしてここにきて雨に振られる。
全てはあのヘタレ貴族のせいだ。
ソフィアはものすごく勝手な言いがかりをつけた。
今度会ったら半殺しにしてやろう。リラやクラウスに止められようが知ったことではない。どうせあいつ死なないし。やっぱり本気で殺しに行くのでちょうどいいか。
あんな貧弱そうな貴族のボンボンの分際で、自分より強いとかふざけている。
ソフィアが殺気を放出させている間も、霧雨は降り続ける。横側で束ねた金髪から、雫が滴り落ちる。
そういえば、少し前にもびしょ濡れになったことがあった。確かあれは、隣国の王女とクラウスのお見合いで……。
思い出した瞬間、今まで押さえつけていた苛立ちが爆発した。
エプロンのポケットやそで、靴、布の裏側などあらゆるところからナイフを取り出し、八つ当たりのようにぶん投げる。
殺気をまとったナイフは雨の中を切り裂き、木や地面、塀に突き刺さる。
ひと気のない今のうちに取りに行かないと、後でクラウスに怒られる。でも面倒だ。
ソフィアは大きく舌打ちすると、自分で投げたナイフを拾いはじめた。
傘をさしていないため、拾っている間も全身が濡れていく。
一本、ナイフが足りない。勢いがつきすぎてとんで行ったのだろうか。
ハンカチで拾ったナイフを軽く拭い、とんでいったであろう場所に駆けていく。
あった。
離れた木の根元に、鈍く光るナイフが転がっている。
ほっとして思わず笑顔になると同時に、耳に綺麗な歌声がとびこんできた。
世界で一番美しいであろう、天使のごとき癒しの歌。
一気に血の気が引いた。
最近のリラはどこかおかしいし、雨が降っているのに呑気に歌わせている場合じゃない。
最後の一本をポケットに押し込むと、歌の聞こえる方へ全速力で疾走する。
リラがいた。
くるくると子供っぽく回り、雨に濡れた銀色の髪を揺らし、誰に聞かせるでもなく歌いながら。
ソフィアはギョッと身を引き、叫んだ。
「リラ様!何してるんですか!?」
ピタリと歌が止む。
だが、くるくると子供のように回るのはやめようとしない。
リラの態度に、ソフィアは戦慄した。
何かがおかしい。リラ様の、何かが。
リラに駆け寄り、細い腕を掴んで無理やり動きを止める。
「やめてくださいリラ様!雨降ってますよ!」
リラはソフィアを見ると、いつものようににっこりした。額に張り付いた銀髪を払う。
「雨と言っても、たいしたことないわ。霧雨だもの。それに、今日は外で踊りたい気分だったの!」
リラの言葉に、ソフィアは思いきり脱力した。
自分の心配は何だったのだろう。リラ以外の人間だったら、即刻キレてナイフで殺しにかかっている。
しかし、ほっとした。
リラはやっぱり、リラらしくいて欲しい。ソフィアが敬愛する王女のまま。
「いくら霧雨でも、あなたは王女なんですよ!駄目に決まっているじゃないですか」
「はーい、ごめんなさい」
リラは悪戯の見つかった子供のように笑った。回っていたせいか、頬が赤い。
「さ、帰りますよ」
何気なく、ポンとリラの肩をたたいた。その瞬間、グラリとリラの体が揺れた。
「あ……れ……?」
リラが呟いたのと、ソフィアが慌てて抱きとめたのが同時だった。
そして、リラのあまりの軽さにゾッとする。
小柄なソフィアと高身長のリラだが、ソフィアは鍛えているしリラは華奢なので軽い。普通に支えられる。
だが、この軽さは明らかに異常だ。
おまけに、雨に濡れて冷えているはずの体がほのかに熱い。真っ白な額に触れた瞬間、ソフィアは目を剥いた。
「もしかして……いや、絶対に熱がある!」
リラはわかっているのかいないのか、ただふわりと微笑む
マズイ。かなりの熱だ。
「ソフィア……大丈夫だから……気にしないで」
「何が大丈夫なんですか!?」
思わず怒鳴ってしまった。
ソフィアはリラを抱え直すと、強くなりだした雨の中を走りだした。
速く、とにかく速く。視界が悪くなり足もとが見えず、転びそうになる。思わず舌打ちした。
腕の中で、リラは熱で潤んだ瞳を閉じ、静かに歌いだした。




