捨てられない
降ったりやんだりを繰り返す雨を、灰色に染まった外の世界を、窓からぼんやり眺めていた。
ぼーっとするのは楽で好きだ。楽はいい。平和な時にしか、楽はできない。
それでも、完全な楽ではなかった。
脳裏をかすめる過去。声。夢。切れ切れに、過ぎ去っては消えていく。
何が正しいのか。
自分の本当の想いは、一体どれなのか。
わかりそうで、わからなくて、知りたいけれど知りたくない。
知っている気も、する。
頭の中の考えを振り払うように外に目をやると、奇妙な人影が見えた。
黒いフードの付いたローブを着た、小柄な姿。雨とフードで顔は見えない。何かを持っているようだった。
妙だとは思った。それに、どことなく見覚えがあるようにも思えた。
しかし特に関心はないし、危害を加えてこなければどうでもいい。何より、考える気にならない。
僕は雨の中走っていく黒い背中から視線を移し、ぼーっと宙を見つめる。 ふいに、両親の顔が目に浮かんだ。
父さんや母さんには、本当に心配をかけているし、すまないと思っている。これ以上負担はかけたくない。
なら、どうするべきか。
出来るだけ普通の貴族になることだろう。自分の意思とは関係なく、動けるように。
でも、僕には難しい。嘘と愛想笑いは得意だが、我ながらものすごく感情的だ。
正直に言うと、社会に出られるようなマトモな人間ではない。その時点でまず不合格。嘘も笑顔も薄っぺらで見え透いている。
「あーあ、感情のない人間になれたらいいのに……」
情けなさに溜息をついた時、
「どうしてですか?」
不思議そうに聞き返され、ビクッとする。振り向くと、アニーが控えめな笑顔で佇んでいた。
「いつからそこにいたの?」
「え?えっと、その、ノックは何度かしたのですが……。ご、ごめんなさい、出ていきます」
「え!?待って、そういうつもりで言ったんじゃないから!ただちょっと驚いただけで」
ノックに気がつかないほどボケていた自分に対して。
アニーは不安げに眉を下げ、結い上げた赤い髪を指に絡めて弄ぶ。そして、気弱そうにぽつりと言った。
「……少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
丸い瞳が、今まで見たことがないほど真剣に見上げてくる。
内心驚きつつも、笑顔で頷いた。
「どうぞ。時間もあることだしね」
アニーは落ちつかなげに視線を彷徨わせ、隅の椅子に目を止めるとそこに腰かけた。
やけに重い沈黙が落ちる。
「……婚約のことですけれど」
開口一番、うつむいたまま呟く。
「ああ、一応婚約みたいなものだよね。微妙に違うけど」
「ええ。そして、期限は明日まで、でしたよね」
「うん。……どうかしたの?」
不審に思って尋ねた瞬間、アニーは勢いよく顔を上げた。柔らかそうな赤毛が一緒には寝る様子は可愛らしいが、眉根はギュッと酔っていて、ひどく険しい表情だった。
「予定を早めていただきたいのです」
「えっ?」
「今日……いいえ、今、答えを出していただきます」
思わず息を飲むほど、強い眼差し。
急に後ろめたさを感じ、冷や汗が吹き出してくる。
「何かあったの?父さん達が……」
「いいえ、私の独断です」
雨の音が遠のいていく。自分の心臓の音だけがうるさいくらい良く聞こえて。
僕は溜息をつき、いつもの笑顔を張り付けた。
「そういうことなら、決まっているよ。僕は……」
「待ってください。答えを出す前に、聞きたいことがあります」
「聞きたいこと?」
首を傾げる。
貴族の政略結婚の事例だろうか。それとも、経済事情?
愛想笑いを浮かべながら考えを巡らす僕に、アニーは静かに、けれどはっきりと、告げた。
「ハル様は、誰かに恋をしていらっしゃいますね」
誰かに殴られて吹っ飛ばされたような衝撃が突き抜けていった。ざわざわと嫌な音を立てて、過去の切れ端が渦巻き始める。
何か、言わなきゃ。違うって。
だが、何が、どう違う?
頭の中は真っ白で、単語一つ出てこない。ただ、残像が浮かんでは消える。
呆然と固まる僕に、アニーはやっぱりという風に微笑んだ。
「初めのうちは、リラ様だと思っていました。でも、ハル様はずっと否定していらっしゃいましたよね。だから、もしかしたら他の方かもしれないと思ったのです」
「ど……う、して」
「さあ、どうしてでしょう?」
アニーはどこか楽しげに、瞳をくるんと回した。
「……実はですね、顔にでていましたよ?」
「え……」
「誰かを想う目。ハル様はいつも、何かを笑顔で誤魔化されていましたが、時々、ひどく哀しそうな顔をしていました。ほら、また」
指摘されても、よく、わからなかった。上手く誤魔化しているつもりだったのに。
「わから、ない」
声に出していたのは無意識だった。
アニーの顔を見ることができずうつむいたまま、言葉だけがこぼれていく。
「……今となっては、どう、好きだったのか、今も好きなのか、……誰のことが好きなのかさえ、わからない」
最低だ。
胸の奥に閉じ込めていたものが、少しずつ流れだして。元から雑然としてわけのわからない感情を、より一層滅茶苦茶にする。
このまま蓋をして、見ないふりをするのが一番楽、なのに。蓋に手をかけたまま、身動き一つ取れない。
夢と現実が入り乱れて、過去と現在も区別がつかなくて、彼女と彼女が重なってしまう。
それならこのまま、全部、見なかったことにしたかった。
けれど。
「……わからないなら、諦めちゃ、駄目です」
柔らかな囁きにのろのろと顔を上げれば、穏やかな丸い瞳と目があう。
「ハル様のことはよく知りませんし、一緒にすごした時間も僅か。そんな私が偉そうにと、思うかもしれません。でも、諦めたら、駄目です」
弱々しい雨音に溶けていくような静かな声が、不思議と強く耳に残る。
アニーは近寄ると、そっと僕の手を取った。感覚のなくなった指先に、じんわりと熱が伝わる。
「例え誰だかわからなくても、大切な『誰か』なのでしょう?誤魔化しても誤魔化しきれないほどに、恋い焦がれた人なのでしょう?それとも、簡単に楽な道を選ぶことができる程度の想いなのですか」
胸の奥の柔らかい部分が抉れて、軋む音がする。呼吸が苦しい。唇が震えて、上手く言葉が出てこない。
「ちが、う。その程度、何かじゃ、ない」
掠れて、蚊の鳴くような声で、目を合わせることすら出来ず。
それでも、多分これが、本心。
「……まだ、諦めたく、ない」
せめて答えを出すまで。みっともなくても、諦めたくない。
割り切ることなんか、できない。
アニーが深く深く息を吐く。そうして、満面の笑みを浮かべた。
「正解です」
心の底から嬉しそうな目で、僕を見つめる。
「私は恋をしたことがありません。ですから、政略結婚も、別にいいかなくらいに思っていました。でも、ハル様は違うでしょう?貴方は捨てられない。だったら、無理してまで楽な道を選ばないで」
無理してまで。
確かにそうだ。
楽な道を選ぶのは、自分の何かを切り捨てるのと同じ。
大事なものを捨てて、楽になれるなら、平和に暮らせるなら、それでいいと思っていた。
もう、誰のことも守ることができない『弱虫』な自分も、誰からも恐れられる、破壊しか知らない『化け物』も見なくて済む。戦わなくていい。絶望することもない。
彼女のことで、苦しまなくていい。
だけど、捨てられない。
目を瞑っても、耳を塞いでも、逃げても逃げても、影のように引きずっていく。
それさえ切り捨てるとしたら、捨てるのは自分自身。
「捨てられないのでしょう?」
「……うん。そうだよ」
自分自身を捨てることは、できないから。
「ごめん、アニー。僕の答えは……」
「わかっています。初めから、そのつもりで参りました。両親には私から話をつけましょう」
アニーの答えに、僕は苦笑いを浮かべた。
「もしかして、僕が嫌だったのもある?」
「そんなわけないじゃないですか。ハル様が誰かに恋をしていなければ、結婚する気、ありましたよ?」
「そうかなあ」
「じゃなかったら即刻お断りしています」
「それもそうだね」
なるほどと頷くと、アニーは面白そうにクスクス笑った。貴族の令嬢の装いをしていても、旅で一緒だった時と何一つ変わらない、普通の女の子。
僕は作り笑いではない笑みを刻んだ。
「ありがとう、アニー。結果はどうあれ、仮の婚約者が君で、本当によかった」
僕にしては珍しく、正直な思いを告げる。
アニーでなければ、僕は間違った道を選んでいたかもしれないから。
するとアニーは、ちょっと顔を赤らめ、照れたように微笑み返した。
「わ、私も、ハル様でよかったです。ありがとうございました」
はにかみなが真っ直ぐ向けられる優しい眼差しに、心が安らいでいく。同時に、銀髪に青い瞳の、美しい王女の姿が脳裏を過った。
あの時は本当にお別れのつもりだったけれど、もしかしたら。
その時、ドタドタと階段を駆け上がる音と、誰かが言い争う声が聞こえた。アニーに手を握られたままであることに気が付き、慌てて手を離す。
ノックもなしに乱暴に開かれたドアから、転がり込むようにしてクラウス様とステラ姉さんが入ってきた。
「うわあっ!ど、どうしたんで……」
「んなこと説明してる場合じゃねーのよ愚弟!」
いきなり怒鳴られたうえに全力で睨まれ、訳もわからず押し黙る。
ステラ姉さんの隣では、クラウス様が蒼白な顔をしていた。常に無表情な彼に似合わず、焦りといら立ちが見て取れた。
ここまで見ても空気を読めないほど、僕は馬鹿じゃない。握りしめた拳が汗ばむのを感じた。
「何があったんですか!?」
僕の問いかけに、青ざめた顔をしたクラウス様がより一層顔を強張らせる。
「ハル、城に戻るぞ」
「えっ?」
冷たい氷雪色の双眸が、揺らいだ。
「……リラが、倒れた」




