喪失(京子)
治たちの高校は三方を山、正面が海で囲まれていた、言わば入り江の奥に位置している。
校舎の裏山は険しくて、ワンダーフォーゲル部の格好の活動の場になっていた。
海に向かって左側には、少し平野部が有ってそこには田畑が一面に広がっているその田畑の向こうには、なだらかな山が続いている。
右側にはバス道路が有って学生寮が有るその裏手にもなだらかな山々が有る、その裏山には綺麗な山道がどこへともなく続いていた。
その山道を近所の子供たちが夏は虫かごに網を持ってセミを取りに行く姿が見える、秋には多分栗拾いに行くんであろうか、数人の子供が元気に山道を駆け上がって行く。
正面の海沿いには治の村よりははるかに多くの家が建っていた。
連休4日目、昨晩の告白の次の日の昼、京子と広瀬は裏山に二人で出掛けて行った。
寮の正面で待ち合わせて二人で裏山のなだらかな山道を歩く。
五月の海からの風が京子は心地よく感じながら前を歩く広瀬の姿を見ていた。
「この人が私の彼なんだわ」と心の中で思う。
そうすると嬉しくなってついつい顔が火照るのが分かった。
裏山の中腹まで来ると高校とその周りを見渡す事が出来た、のどかだが綺麗な風景であった。
二人で二時間ほど山歩きをして寮に戻った、男子生徒の入り口で広瀬が
「今晩11時頃に食堂でこっそり逢おう」と京子に耳打ちした、京子は黙って頷く。
夜になり、京子は黄色いトレーナーにジーパン姿で自分の部屋をこっそり出て暗い廊下を静かに歩く、
食堂の近くまで来ていったん立ち止まり、舎監室の方をこっそり伺う、ドアの窓から明かりが漏れていた。
足音を忍ばせてドアの前を通り抜けて、真っ暗な食堂に入り注意深く暗闇に目をやるが全く何も見えない。
その直後背後から小声で「京子ちゃん」と言うと同時に肩を何者かの手で触られた。
京子は小さい声で驚いて思わず自分の口を手で塞いだ。広瀬先輩だった。
二人して暗闇の中を食堂の隅の方に移動する、京子は何も見えないから自然と広瀬の腕にしがみつく、
腕にしがみついたまま、隅に腰かけて小声で広瀬が「舎監の先生に見つからなかった」と言うので、京子は「たぶん大丈夫」と答えて、クスッと笑う。
しがみついた腕から広瀬の胸の厚みを京子は感じていた。
しばらく小声でクラブの事や将来の事などを広瀬が喋る、京子は何も言わずに黙ってそれを聞いている、
5月の夜の暗い食堂、まだ少し肌寒い、広瀬はしがみついた腕をそっと振りほどき、京子の肩を抱き寄せ「寒いね」と言う。
京子はなすがままに広瀬の厚い胸に顔をうずめる格好になって、小さく頷く。
すると、広瀬の顔が近づく気配が感じられた、ビックリする間もなく広瀬の唇が京子の唇に重なる、
緊張で京子は全身に力が入る、広瀬はゆっくり離れると肩に置いた腕に力を入れ京子を抱き寄せた、
初めてのキスだった。
少女漫画の世界に書いてあるようなレモン味ではなかったが、冷たい広瀬の唇の感触が残っている。
その後二人とも小さく震えだすほどに寒くなってきた。
広瀬が「部屋に来る」と聞くので「ダメじゃないの」と京子は答える
「今日は誰もいないから、大丈夫だよ。行こう」と立ち上がり京子の腕を引っ張る。
黙って立ち上がり二人はこっそりと男子寮の舎監室の前を抜けて広瀬の部屋に向かう、時間は0時30分。舎監室は真っ暗だった。
女子寮も男子寮も基本的な造りは同じだが、男子寮には無造作に洗濯物が干してあったりして女子寮とは違う感覚を京子は感じる、
部屋に入る、共同ではあるが京子にとっては初めての家族以外の異性の部屋、男の匂いがする。
明かりを点けると乱雑に積まれた本や、運動用具などがある、しかし寮則の厳しさのお蔭で散らかっている感じではない。
広瀬の机の上には参考書が開いてあり本棚には3年生らしく大学受験関係の本が並んである。
広瀬は自分の椅子に腰かけて京子は違う椅子に腰かけた。
明るい部屋で広瀬を見るとさっきのキスを思い出して京子は少し恥ずかしくなって微かにうつむく。
その時廊下で小さな音がする、二人ともびっくりして顔を見合す、
こんな所を舎監の先生に見つかったら二人とも停学処分どころか退学処分であるから、緊張が走った。広瀬がゆっくりとドアを開けて顔を出して廊下を見渡すが特別に異常はない。
寮の各部屋は内鍵はついていない、だから外部からの侵入者を拒むことは出来ない。
今この男子寮には一階の広瀬と、二階に別のサッカー部の生徒がいるだけで後の部屋は真っ暗だった。
広瀬はドアを閉めると、入り口の電気を消して、
「この方が安心だから」と言う確かに京子もその方が良いと感じた。
机の上の小さい明りだけが付いてる部屋でまた二人は話し出す、でも寒い。
広瀬が「寒いから布団に足入れて話そうか」と提案する。京子もそれに賛成した。
狭いベッドの中に二人で入り壁を背にして並んで座り足だけ布団に入れる、電気は消して万が一の舎監の先生の見回りに備えた。
廊下の音を気にしながら、ひそひそ話で話す。
京子にはまるで夢の時間であった。
話しているたまに、足と足がぶつかる二人ともジーパンだったがその度に京子はドッキリしてしまう。
その時また廊下から足音がした、今度ははっきりと人の足音だった。
広瀬は京子を抱くようにして布団を被り二人は息を殺す、その足音は部屋の方に近づいてきて、部屋の前を通り過ぎると部屋の横のトイレに入って行った。
2階の帰省していないもう一人のサッカー部の3年生だったみたいだ。
足音がトイレから出て遠のいても、
二人は布団を被ってまだ息を殺している、広瀬の腕の中で京子も息を殺していた、
そのままで、どちらからともなく抱き合い自然にキスをしていた。
京子はぎこちない自分がかなり恥ずかしかったが、広瀬のされるままに身体を任せていた、
その夜京子は、、「女」になった、高校一年生の5月の事であった。
その後約10か月間京子は週末の深夜になると広瀬の部屋を訊ねるのが楽しみであった。
その広瀬もこの3月で卒業した。
福岡の大学に行くために広瀬が島から出て行った日に、京子は一晩中泣いた。