矜持(初めての定期テスト)
高校に入り約2か月が過ぎた、5月の下旬「中間テスト」があった。
下宿ではヒロちんが範囲発表が有った日から猛勉強に入った。
治はいつも横で寝ているか、タバコを吸っているだけ。
たまにヒロちんから質問される事が有る。
「15は勉強せんでん、分かるけん良かたいね」と勉強に疲れたヒロちんが言う、治は苦笑いするだけである。
ヒロちんにとっては、徹夜の日が続く、そして無事、初めての中間テストは終わった。
その数日後から各授業はテストの返却が始まる。
治の成績、理科(生物)100点、、社会(日本史)95点(漢字間違いでマイナス5点)、現代国語90点(漢字間違いでマイナス10点)古文100点、
「英語32点」「数学0点」であった。
理科、社会、現代国語、古文だけの合計点では学年1位だった。
英語の返却の時間に担当教諭の吉野が「伊藤」と名前を呼び答案用紙を返す時に、
「何だこの32点と言う点数は」とクラス中に聞こえる声で言った。
それを聞いた治は、受け取った答案用紙をその場で破り捨てた。
それを見た、吉野は顔面をピクピクさせながら、怒鳴るが治は黙って自分の机に向かう。
「伊藤」と怒鳴り吉野は追いかけて治の首筋を掴んだ、
治はその手を払いのけて、「なんね」と妖艶とした目で振り返ると、
吉野は「何だその態度は、先生に対する態度か」と真っ赤な顔をして怒鳴っている。
治は「先生ちゃ、誰んの事ね」とからかうように言った。
吉野は今にも殴りかかりそうになるのを抑えた、何故なら。
吉野は、4月の最初の授業の時の治の言葉を思い出した、
「がっこの先生ちゃそがん偉かとね?」という言葉である。
吉野は目の前にいる伊藤治と言う少年がとても危険な存在に思えてきた。
今ここで手を出したら、この伊藤と言う生徒は多分とことん、自分を追い詰めるに違いない、と感じたからだ。
吉野は平静さを装い「どうして、答案用紙を破るんだ」とだけ聞いた、伊藤は瞬間に妖艶な顔に戻り、
「お前が、人の点数ば発表するのとおなじたい」と答えた、さらに伊藤は
「どがんして、おっが点数だけ発表せんばね」と聞いてきた。
吉野はその言葉を聞いて内心「お前」と言われたことに対する怒りよりも、「しまった」と感じる方が強かった。
昨夜自宅でテストの解答をしていて、
伊藤の32点と言う点数を見た時に、思わず笑った。あの生意気な「特別な生徒」に恥をかかす事が出来ると思ったからだ。
ところが、今目の前にいる伊藤治と言う生徒は、自分の思いとは違った、想像もしなかった態度を取って来たのだ。
まさか、自分の目の前で答案用紙を破り捨てるなんてことをするとは全く思ってもいなかった。
過去に答案用紙を破り捨てた生徒は数名記憶にある、しかしそれは自分の机に戻ってからの事である。
少なくとも自分の目の前と言う生徒はいなかった。
それでつい、怒りで伊藤の首筋を掴んでしまった、それに対して今度は「先生とは誰の事か」と、
からかうような目で言われる。
「もう良い」とだけ言うと教壇に戻った、しかし伊藤は「良うなかばい、答えんね」とまとわり付いてくる。
吉野は何も言わずに、次の生徒の名前を呼んだ、
伊藤治は「途中で逃げるぐらいなら最初から言うな」的な事を言って、破り捨てた答案用紙を教室のごみ箱に投げ込むと、
前のドアから出て行ってしまった。
教室が静まり返る、この1年1組全員が自分を軽蔑しているように感じた。
吉野は明らかに自分の失態であった事に気が付いた。
治は廊下に出ると、クラスの前の壁に背中を付けて座り込んだ、まるで悪い事をした生徒が廊下に座らされてるようにも見えた。
治は心の中で、
何故に自分のしたことに怒らないのか、吉野の気持ちが分からない。
自分の言っていることが正しいのか、吉野の言っていることが正しいのかさえも分からなくなっていた。
廊下に座り込み知らぬ間に寝ていたみたいで、休み時間に入ってジィに起こされた。
「0点」だった数学の時間が来た。担当の水野は治の答案用紙は治の前の生徒に渡しただけだった。
その生徒は不思議そうな顔をして「0点」と書かれた答案用紙を治に渡す。
全員に答案用紙を配り終えた時に
伊藤が突然「先生、この前のテスト何点やったと」と聞いてきた、水野ははっきりと狼狽している自分を感じた。
黙っていると、伊藤は「このテストとどっちが難しかとね」とさらに聞いてくる。
水野は何も答えずに、授業を進めた。
水野も前夜に自宅で中間テストの採点をした、その時に伊藤はたぶん満点だろうと確信していた、
しかし予想に反して伊藤の解答用紙は白紙だった、白紙の答案用紙を見た時に水野は自分の犯した愚かな行動を悔いた。
治はそれっきり窓の外を見ていた。
その日の午後の職員室での「学年担当会議」の席では、伊藤治の処遇が話題に上がっていた。
議題として言いだしたのは英語担当の吉野先生である。
「伊藤と言う生徒は、かなり問題があります。このまま放置すると授業の妨げになると思うんですが」と言う旨の提案をした。
最初に発言したのは数学担当の水野先生だった。
吉野はこの提案に水野先生は賛同してくれると思っていたが違った。
水野先生は立ち上がり。
「どんな状況だったのか詳しく聞かせてもらえませんか」と質問してきた。
吉野はテストの点数を大声で発表したことを黙って後の部分だけを報告した。
てっきり、自分の応援をしてくれると思った水野先生は
「吉野先生本当にそれだけですか」と聞いてくる、さらに水野は5月の初めの自分の犯した伊藤治に対する愚かな行動を話し出す、
勿論他の先生達は、大まかな話は噂で知っていたがまさかこの会議の席で水野先生本人の口からその話が出るとは思っても見なかった。
今回の中間テストが白紙だった事。
自分が伊藤の平素の態度を諌め様として、3年生の模擬試験を受けさせた事。
そのテストが満点だった事、実際に受けた3年生の最高点が学年トップの野口と言う生徒で82点だった事。
そのテストを受けさせた意味も結果も伊藤に知らせなかった事。
春休みの宿題未提出に対して、大目に見たら、逆に伊藤治に「それで良いのですか」と言われて叱責した事。を発表して。
さらにこう付け加えた。
「伊藤治と言う生徒は確かに問題はあると思います、しかし私の問題だけに関して言うと全ての原因は私の軽率な思考、行動にあります。」
「あの伊藤と言う生徒は決して自分から問題を起こしているのではなくて、こちらの取った行動に対して反応しているという気がしてなりません。」
「しかし、そうであっても伊藤が問題有るのは事実だと思いますがね」と最後は今日の会議参加者の中で最年長らしい言葉で結んで、大仰に腕を組んで座った。
それを聞いていた1年1組担任の新井先生が、
「吉野先生の件は良く分かりませんが、水野先生の問題は明らかに水野先生が悪いんではないでしょうか」
「何故、明確に話してあげなかったのですか」
「3年生の模擬テストを受けさせるのも、『君の実力が知りたいから』と言えば問題ないと思われるし、
結果にしても『満点だったぞ良くやったな』と褒めてもよかったのではないですか」
「それなのに何故に、その様な事が言えなかったのか、の方が問題ではないでしょうか」
「白紙のテストは伊藤の模擬テストに対するデモンストレーションだと私は思うんですが」
すると他の先生から「では、吉野先生の問題はどうなんでしょうか」との声が出る。
新井先生は言葉に詰まってしまい「それは良く分かりません」とだけ言った。
また他の先生は「水野先生の問題は新井先生の言う事にも一理有りますが、吉野先生の問題は違うと思いますが」と言う。
その時、吉野は「点数を大声で言った」事を隠して伝えた事をかなり後悔して、付け加えようとしたが、言うタイミングを逃してしまっていた。
会議の話題は「答案用紙を教師の目の前で破り捨てた、態度に対する処罰」になっていた。
「停学処分」と言う声や「反省文提出」「保護者召喚」「校内謹慎」等が話し合われている。
吉野は顔面が引きつり、自分が脂汗をかいているのではないのかと思うほど、狼狽しているのが分かった。
意を決して吉野は立ち上がり
「実は」と口を開いた。参加者全員が発言を止めて突然立ち上がった吉野先生を見る。
吉野は「状況を詳しく報告します」と言って今日あった事を詳しく報告した。
それと、最初の授業の春休みの課題未提出の時の事もありのままに報告した。
その途端に新井先生が「なんでそんなことをするんですか」と怒気を含んだ目で吉野先生に聞く。
吉野は何も言えなかった。
新井先生は「伊藤治は皆さんご存知でしょうが私の遠縁の方の子供です、勿論私も彼が子供の頃から知っています、彼はごくごくありふれた田舎の少年です。今お二人の先生方の話を伺うと私の目にはお二人が彼を虐めてる様にしか感じませんが、彼が何かしたのでしょうか」と問い詰める。
すると吉野先生が「現実問題として、入試で白紙の答案用紙を提出した生徒が合格することが間違っていると思うのですが」と言う。
それに対してはこの会議に参加していた水野先生より若い江頭教頭が口を開いた。
「その事については、決着のついている事です。今ここで論ずるべき問題ではありません、論ずるなら文書で提出して下さい、私の方からも吉野先生からその様な発言があった事は校長先生に伝えておきます」と言った。
吉野はいよいよ追い詰められていく自分に気が付き何も言えなくなった。
会議はその後、両先生の取った行動の理由が論点となっていた。
それに対してはまず水野先生が話し出した、要約すると
「今まで教えた教え子の中で天才と言われた生徒でも私に敬意を表したのに伊藤はそれをしない、それに対する指導者としての責任感から、起こしてしまった」と言う事らしい。
しかし、それは水野先生の教員として間違った「矜持」が問題であることは会議に参加している全員が感じていた。
勿論、水野自身も感じてはいたが、たかだか15~6歳の田舎の「ガキ」にそれは決して認めたくなかった。
その思いは今後伊藤治を無視すると言う最悪の形で決着がついてしまう。
吉野先生も水野先生と殆ど似たような「物」である事も全員が分かっていた。
そしてまた、吉野も治を無視すると言う決着方法を取ってしまう事になる。
会議が終わり、職員室の自分の机に戻った担任の新井は治が不憫でならなかったが、
入学後すぐに尋ねた治の家での治の物静かな顔を思い出して、
今の自分には何も出来ないと思い込んでしまった。
新井もまた、治の本心が見えなかったのである。