第四章 人は変われる/第三節 人は変われる
人は変われる3
第四章 人は変われる
第三節 人は変われる
半年後。
三浦亜紀は、スーパーの精肉売場で肉を選んでいた。
夕方六時。
仕事帰りの客で店内は混んでいる。
牛肉。
豚肉。
鶏肉。
挽肉。
味付け肉。
共和食産のロゴが入ったパックもいくつか並んでいた。
三浦はそのうちの一つを手に取った。
『国産牛 ステーキ用』
二枚。
少し高い。
裏返して値段を見る。
「まあ、いいか」
カゴへ入れた。
その隣に牛乳。
卵。
ブロッコリー。
子供用のヨーグルト。
「お母さん」
後ろから声がした。
三浦が振り返る。
小学校低学年くらいの女の子が、お菓子を一袋持って立っていた。
「これ買っていい?」
「駄目」
「なんで」
「昨日も買ったでしょ」
「昨日じゃないよ」
「一昨日」
「じゃあ昨日じゃないじゃん」
三浦は少し黙った。
「……そういう言い方するようになったの誰のせい?」
「お母さん」
「返してきなさい」
「えー」
「返す」
女の子は不満そうに菓子売場へ戻っていく。
三浦はその背中を見て、少し笑った。
以前より、よく笑うようになった。
店員にも。
近所の人にも。
会社でも。
共和食産では、最近の三浦は評判がいい。
遅刻しない。
返事もする。
新人にもきつく当たらない。
仕事も速い。
報告書もきれいに書く。
評価は上がった。
かなり。
「お母さん」
女の子が戻ってくる。
「返した」
「偉い」
「アイスならいい?」
「交渉すんな」
「駄目?」
三浦は少し考えた。
「一個だけ」
「やった」
女の子が走っていく。
「走らない!」
「はーい!」
返事だけはいい。
三浦はため息をついた。
でも、口元は笑っていた。
家へ帰ると、女の子はランドセルの中身をテーブルへ広げた。
「宿題やった?」
「あとで」
「先」
「ご飯のあと」
「先」
「お母さん厳しくなった」
三浦は冷蔵庫へ牛乳を入れながら振り返る。
「前は甘かった?」
「うん」
「そうなんだ」
「忘れたの?」
「忘れることもあるよ」
「大人なのに?」
「大人だから」
女の子は納得していない顔をする。
それでも鉛筆を持った。
三浦はエプロンを着ける。
髪を後ろで束ねる。
フライパンを火にかける。
スーパーで買ってきた肉をパックから出す。
二枚。
常温に戻す時間はない。
塩を振る。
胡椒。
「今日何?」
女の子が宿題をしながら聞く。
「肉」
「何の?」
「あとで見れば分かる」
「ステーキ?」
「そう」
「やった」
フライパンが熱くなる。
油を少し。
肉を置く。
じゅう、と音がした。
テレビでは夕方のニュースが流れている。
『続いて、県内の話題です』
三浦は肉を触らず、そのまま焼く。
『地域密着型ドキュメンタリーの優れた作品を表彰する今年度の東海映像賞で、鷺森ケーブルテレビ制作の――』
「お母さん」
「ん?」
「テレビ」
「見てるよ」
「共和さんだよ」
三浦が振り返る。
画面。
見覚えのある工場。
白い加工棟。
社員寮。
花壇。
社員たちが笑っている。
『受賞したのは「わが町のいい会社――再出発を支える共和食産」です』
拍手。
ステージ。
司会者が名前を読む。
『ディレクターは、榊原遼さん』
三浦の手が止まった。
画面に男が映る。
榊原遼。
そうテロップが出ている。
三十代。
短く整えた髪。
肩幅が広い。
姿勢がいい。
眼鏡はかけていない。
頬も顎もきれいに剃られている。
右目の下に、ほくろはない。
三浦は画面を見た。
少しだけ。
それから肉へ視線を戻した。
『榊原さん、おめでとうございます』
『ありがとうございます』
声も少し違う。
以前より低く、落ち着いている。
『この作品では、社会復帰や外国人雇用といった難しいテーマを、非常に温かい視点で描かれています』
『ありがとうございます』
『制作にあたって、何を一番伝えたかったのでしょうか』
榊原は少し考えた。
以前の榊原なら、眼鏡の中央を人差し指で押し上げただろう。
今の榊原はしない。
そもそも眼鏡がない。
カメラへ向かって、静かに答えた。
『人は変われる、ということです』
拍手。
『過去に何があったとしても、その人のすべてが決まるわけではありません。環境が変われば、人も変わる。誰かと出会えば、もっと良くなることもある』
三浦は肉を返した。
いい焼き色。
脂が跳ねる。
『私自身、この取材を通じて、ずいぶん考え方が変わりました』
司会者が笑う。
『榊原さんご自身も?』
『はい』
榊原も笑った。
『前より少し、人の気持ちを考えられるようになったと思います』
会場から柔らかな笑い。
拍手。
三浦は火を少し弱めた。
「お母さん」
女の子がテレビを見ている。
「この人知ってる?」
「うん」
「有名な人?」
「知らない」
「会社に来た?」
「来たよ」
「いつ?」
「前に」
「お母さん会った?」
三浦は少し考えた。
「うん」
肉を皿へ移す。
「昔、うちの会社に取材に来た人」
「へえ」
女の子は画面の榊原を見る。
「かっこいい?」
三浦が聞く。
「普通」
「子供は厳しいね」
「お母さんは?」
「別に」
女の子が笑う。
「お母さんいつもそれ言う」
「そう?」
「うん」
三浦は一瞬、手を止めた。
それから笑った。
「そうなんだ」
テレビでは、受賞作品の一部が流れている。
三浦自身が映った。
以前の三浦。
髪を一つに束ね。
不機嫌そうに椅子へ座っている。
『朝来て、仕事して、給料もらって、帰る。それだけです』
女の子が声を上げる。
「あ、お母さん!」
「そうだね」
「若い!」
「半年前だよ」
「顔怖い」
「うるさい」
「今の方がいい」
三浦は笑った。
「そう?」
「うん」
「どこが」
「優しい」
三浦は何も言わなかった。
テレビの中の三浦が続ける。
『別に生まれ変わったわけじゃないし』
そこで映像が切り替わった。
久世宗一郎。
『本人が働きたい。こちらも働いてほしい。それなら雇う。単純な話ですよ』
女の子はもうテレビに飽きて、テーブルを見ている。
「ご飯まだ?」
「今」
三浦は皿を並べた。
ステーキ。
ブロッコリー。
小さなサラダ。
白いご飯。
「いただきます」
「いただきます」
女の子がナイフを持つ。
まだうまく使えない。
三浦が皿を引き寄せる。
「貸して」
「自分でできる」
「切れてないじゃん」
「できるもん」
「じゃあやってみ」
女の子が力を入れる。
肉が皿の上で滑る。
「あっ」
「ほら」
三浦が笑う。
「貸して」
今度は素直に渡す。
三浦は肉を食べやすい大きさへ切った。
一口。
二口。
三口。
「はい」
「ありがとう」
女の子がフォークを刺す。
口へ運ぶ。
「おいしい」
「よかった」
三浦も自分の肉を切った。
テレビでは授賞式が終わろうとしている。
『最後に、榊原さんから視聴者の皆さんへ一言お願いします』
画面の榊原が笑う。
『人は変われます』
少し間。
『変わった後のその人も、ちゃんと見てあげてほしいと思います』
拍手。
三浦はテレビを見なかった。
女の子も見ていない。
食事に夢中だった。
「お母さん」
「ん?」
「今日のお肉、なに?」
三浦はフォークを止めた。
皿を見る。
焼けた肉。
切断面は薄い桃色。
脂。
肉汁。
スーパーで買った。
共和食産のパック。
ラベルには、確かに書いてあった。
三浦は笑った。
「ステーキだよ」
「だから何の?」
「ステーキはステーキ」
「牛?」
三浦は少しだけ考えた。
テレビから拍手が聞こえる。
女の子は答えを待っている。
三浦は自分の肉を一口食べた。
「おいしい?」
「うん」
「じゃあいいでしょ」
「まあいいけど」
女の子もまた一口食べた。
外では、どこかの家のドアが閉まった。
車が通った。
犬が一度だけ吠えた。
近所の家から夕食の匂いが漂ってくる。
どこにでもある夕方だった。
テレビの画面には、最後にもう一度、
『ディレクター 榊原 遼』
と表示された。
見覚えのない男が、
その名前で笑っていた。
フライパンの上に残った脂が、
まだ小さな音を立てていた。




