第一章 いい会社/第一節 共和さん
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第一章 いい会社
第一節 共和さん
藤原淳平が来たのは、集合時刻の二分前だった。
「おはようございまーす」
駐車場の向こうから片手を上げ、肩にかけたリュックを跳ねさせながら走ってくる。走っていると言っても、急いでいる人間の走り方ではない。遅刻していない以上、急ぐ理由はないと思っている者の走り方だった。
榊原遼は腕時計から目を上げた。
「お前、またギリギリだな」
「間に合ってるじゃないですか」
「二分前を間に合ってるって言うのは学生までだよ」
「でも間に合ってますよね」
藤原は悪びれもせず笑った。
二十三歳。入社二年目。仕事ができないわけではない。覚えも悪くない。ただ、何事にもあと五分が足りない。
榊原は細い黒縁眼鏡を人差し指で押し上げた。朝に剃ったはずの顎には、もう薄く髭の影が出ている。癖のある黒髪は湿気を吸って、いつも以上にまとまりがなかった。
「三脚積んで」
「ういっす」
「ういっすじゃない」
「了解っす」
「変わってないだろ」
横で、小野寺美咲が笑った。
「榊原さんも朝から細かいなあ」
「細かくない。仕事だよ」
「その前に自分の髪どうにかした方がいいですよ。今日、反射で映り込まないでくださいね」
「俺は出ないよ」
「髭も」
「剃った」
「剃ってそれですか?」
美咲が榊原の右目の下あたりを指差した。
「あと、そのほくろ、遠目だとゴミに見えるんですよね」
「ほっとけ」
車の後部で、藤原が三脚を横倒しにした。
片桐修が無言で振り返った。
藤原の手が止まった。
「……すんません」
「そいつ六十万するでな」
「知ってますよ」
「知っとる奴の置き方じゃないら」
片桐は四十九歳。二十年以上、地元でカメラを回している。火事も事故も選挙も祭りも、小学校の運動会も撮った。
怒鳴らない。
怒鳴らないからこそ、藤原は片桐にだけは少し弱かった。
「共和さんって、そんなちゃんと撮るんですか?」
藤原が機材を積み直しながら言った。
「会社紹介だろ?」
「会社紹介だからちゃんと撮るんだよ」
「十五分番組ですよね」
「十五分しかないんだよ」
榊原は助手席に乗り込んだ。
今日の取材先は、鷺森市郊外にある共和食産株式会社だった。
地元では、単に「共和さん」で通じる。
創業九十年を超える老舗の食品会社。食肉の加工と卸を中心に、学校給食や飲食店への供給も行っている。
それだけなら、地方都市にはいくらでもある会社だ。
今回、ケーブルテレビが取材する理由は別にあった。
出所者の積極採用。
外国人労働者への生活支援。
社員寮の整備。
地域清掃。
子ども食堂への食品提供。
ここ数年は行政からも表彰されている。
企画書の仮題は、
『わが町のいい会社――再出発を支える共和食産』
だった。
榊原はあまり好きではなかった。
悪い会社を暴く番組も嫌いだが、いい会社を褒めるだけの番組も、それはそれで性に合わない。
「榊原さん、共和食産嫌いなんですか?」
後部座席から美咲が聞いた。
「別に」
「昨日からずっと顔が胡散臭いって言ってますよ」
「会社じゃなくて企画書が」
「何がです?」
「いい会社です、いい人です、立派です、って最初から結論決まってる取材って面白くないだろ」
「地域情報番組に何求めてるんですか」
「情報」
「だから、いい会社だって情報じゃないですか」
「いい会社かどうかは撮ってから決めればいい」
藤原がスマートフォンから顔を上げた。
「でも、評判めっちゃいいっすよ。口コミも星四・六」
「食肉加工会社の口コミ調べる奴いるんだな」
「求人の方っす。給料いいし、寮あるし、前科あっても取るって」
榊原が振り返った。
「前科あっても、じゃない。刑を終えた人の再就職支援」
「一緒じゃないですか」
「テレビでお前が言うと全然違う」
「俺、喋んないっすよ」
片桐が運転しながら言った。
「だから雑でいいとはならんら」
藤原はまたスマホへ戻った。
車窓の景色が、市街地から少しずつ変わっていった。
住宅が減り、低い倉庫と工場が増える。
遠くには山が見えた。
逆方向へ行けば海までそう遠くない。
鷺森市は、海と山の間に押し込まれるように広がった町だった。
共和食産は、その外れの県道沿いにあった。
思っていたより大きい。
白い加工棟。
冷蔵倉庫。
トラックヤード。
二階建ての事務棟。
門の横には、
『共和食産株式会社 中央食肉加工センター』
と青い文字で書かれた看板が立っていた。
その下には小さく、
『食を通じて、人と地域をつなぐ』
とある。
「普通っすね」
藤原が言った。
榊原も同じことを思った。
怪しくない。
古びてもいない。
かといって大企業のように磨き上げられているわけでもない。
地方の道路沿いに、昔からそこにある食品工場。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
受付で名前を告げると、すぐに社長本人が出てきた。
「お待ちしておりました」
久世宗一郎は四十八歳。
榊原が事前資料で見た写真より、少し若く見えた。
灰色の作業服に名札。
社長室から出てきたというより、そのまま現場へ入れそうな格好だった。
「共和食産の久世です。本日はよろしくお願いいたします」
一人ずつ名刺を渡す。
藤原にまで。
藤原は少し慌てて両手で受け取った。
「え、あ、どうもっす」
榊原が横目で睨む。
「よろしくお願いします」
藤原が言い直した。
久世は気にした様子もなく笑った。
「今日は好きに見ていってください。撮影できない場所はこちらからお伝えしますので」
榊原は少し意外だった。
「かなり撮らせていただけるんですか?」
「ええ。せっかく来ていただいたんですから」
「社員の方へのインタビューも?」
「本人がよければ」
「前科についても伺う場合があります」
「それも本人がよければ」
止めない。
ここまで協力的だと、逆に困る。
まず会議室で会社概要の撮影を行った。
久世が資料を広げる。
「現在、従業員は百八名です」
美咲がすぐ反応した。
「百八名?」
「はい」
「煩悩と同じですね」
久世が笑った。
「よく言われます」
「狙ったんですか?」
「まさか。私が入社した頃も百八名でしたし、父の頃もそのくらいだったそうです」
「ずっと百八人なんですか?」
榊原が聞いた。
久世は少し考えた。
「そうですね。祖父の頃には、もうその人数だったと聞いています」
「退職者も出ますよね?」
「もちろん」
「それでも?」
「採用しますから」
当たり前の答えだった。
榊原は手元の資料に「108」とだけ書いた。
「そのうち、外国籍の方は?」
「現在二十一名です」
「元受刑者の方は?」
「そこは個人情報になりますので正確な数字は申し上げません。ただ、採用にあたって前歴のみを理由に不採用にはしません」
言い方が丁寧だった。
美咲が質問を続ける。
「どうして、そういう採用方針になったんでしょう」
「祖父の代からです」
「昔から?」
「食肉加工は、昔から人が集まりにくい仕事でしたからね。来てくださった方には働いていただく。それだけだったようです」
「社会貢献という意識ではなく?」
「後から名前が付いただけでしょう」
久世は少し笑った。
「本人が働きたい。こちらも働いてほしい。それなら雇う。単純な話ですよ」
榊原は眼鏡を押し上げた。
こういう言葉は使いやすい。
番組の冒頭にも、締めにも使える。
そして榊原が嫌いな種類の言葉でもあった。
綺麗すぎる。
撮影を終え、工場内へ移動する。
白衣、帽子、マスク、長靴。
粘着ローラーをかけ、手を洗い、消毒する。
藤原が手洗い時間を短く済ませようとして、係員に戻された。
「二十秒お願いします」
「はい」
藤原が渋々やり直す。
榊原は笑った。
「学校みたいだな」
「榊原さん、あとで覚えといてくださいよ」
「何を?」
「なんでもないっす」
加工場に入ると、まず音が来た。
機械音。
水音。
金属が触れる音。
そして肉の匂い。
血生臭い、と想像していたほどではない。
むしろ冷えた空気と洗浄剤の匂いが強かった。
作業員たちは、榊原たちが入ってもほとんど気にしない。
白い帽子とマスク。
同じ作業着。
日本人も外国人も、見た目だけでは分からない。
「ここでは主に牛と豚の一次加工を行っています」
案内役の社員が説明する。
「一日の処理量は――」
美咲が相槌を打つ。
片桐は黙ってカメラを回している。
藤原が音声を取りながら後ずさった。
「藤原」
「はい?」
「ケーブル」
「あ」
今度は自分で踏んでいた。
片桐がため息をつく。
「お前なあ」
「すんません」
榊原は苦笑しながら加工場の奥を見た。
作業員が一人、冷蔵室の方へ歩いていく。
特に変わったところはない。
痩せた男。
背が高い。
手に青いコンテナを持っている。
榊原はすぐ視線を戻した。
その瞬間を、片桐のカメラだけが撮っていた。
男は右へ歩いている。
床に落ちた影は、
ほんの一瞬だけ、
左へ歩いた。
だが、その場では誰も気づかなかった。
工場を一周した後、社員食堂を抜けて事務棟へ戻る。
廊下の壁には表彰状が並んでいた。
食品衛生優良施設。
地域雇用貢献企業。
防犯協力事業所。
外国人雇用推進。
赤い羽根共同募金への協力。
その下に、社内標語が貼られている。
『安全第一』
『手洗い・確認・声掛け』
そして、一番端に、
『人は、もっと良くなれる。』
榊原は足を止めた。
「これ、いいですね」
久世が振り返る。
「何がです?」
「標語です。更生支援の会社っぽい」
「ああ」
久世は壁を見た。
「昔からあるんですよ」
「これも祖父の代から?」
「さあ」
久世は笑った。
「気がついた頃にはありましたね」
藤原が後ろから覗き込む。
「俺も良くなれますかね」
榊原が言った。
「まず五分早く来い」
「そういうとこっすよ」
「何がだよ」
「いや、なんでもないっす」
美咲が笑う。
片桐も少しだけ口元を緩めた。
久世も笑っていた。
四人はそのまま次の撮影場所へ歩いていった。
廊下の標語だけが、後ろに残った。
『人は、もっと良くなれる。』




