第86話-2 地獄の三大実力者
体温のない涼しさが、恐怖の上から薄い布のように被さる。
夏なのに、汗ばんだ体から急に汗が引いていくように、ひまりには感じられた。
心臓の鼓動が自然に、落ち着いていく。
つい蒼の顔を見上げる。
整った、シャープな顔。
年齢は私より十個は上だろうか。
だがどこか心の奥でピリピリとなにかが弾けていた。
それは、この青年が、“この世の者と少し違う”ことを表していた。
──もしかして、この人も……
「怪異」と思いかけた。
だがそれにしては、しっかりとした質感がある。
抱き寄せられるその腕の力も、実感が強い。
「やはり、君には特別な力があるようだ。アレは、君に吸い寄せられた」
「……え?」
突然、見つめられ、ひまりは目を伏せた。
「でも、もう大丈夫だ。見てごらん?」
そんなひまりには興味ないかのように、その青年は、視線を境内へと向けた。
つられて、ひまりも、そちらを見る。
そこでは──
信じられないような光景が繰り広げれていた。
先ほど、風よりも早くここを立ち去ったデル。
そのデルが、拝殿の床下からゴスロリ少女を引っ張り出したところだったのだ。
そして槍を構え。
目にも止まらぬ速度で、あの陶器のような顔を大きく薙だ。
鈍い音がし、ゴスロリ少女は吹き飛ぶ。
ガッ!
ゴスロリ少女の体は、一瞬で、玉垣──神社の周りを塀のように取り囲む石の柱──に、叩きつけられた。
関節がわけの分からぬ方を向いている。
だが、あれは、元からだ。
ギッ。
ゴスロリ少女が鳴いたような音を立てた。
かと思うと、慌てて闇を探して再び境内の下を目指す。
まさか、そこが自分の「巣」であるかのように。
即座にデルピュネーが追う。
軒下に潜り込む。
デルピュネーの姿も闇に呑み込まれた。
「なるほど。割と頑丈な作りのようだ」
と、成宮蒼は言った。
「デルの一撃で、バラバラにならない。あの天使像で、懲りたのかもしれないな」
何を言っているのか、何が起こっているのか、ひまりには分からない。
ただ、境内の闇の中からは、鈍い音が響き渡っていた。
巫女姿のまま成宮蒼に抱え上げられたひまりは、すでにこのシチュエーションに恥じらっている余裕もない。
驚きだけがひまりを支配していた。
そして二十秒も経っただろうか。
すぐに、その喧騒は収まった。
軒下の闇からデルピュネーが姿を表す。
その手には、何かをぶら下げていた。
「ありがとう、デル。意外と手こずっていたね」
「申し訳ありません。ですが、これも、あの天使像と同じ魔力を持った使い魔でした、蒼さま」
デルが掴んでいるのは、ゴスロリ少女の金髪。
デルピュネーは、髪の毛ごとゴスロリ少女を引きずって歩いてきた。
動かなくなった少女の怪異。
もともとぐしゃぐしゃな動きをしていた関節が、さらにぐしゃぐしゃに崩れていた。
「物理遮断の魔力を施されていましたが、力を解放せずにすみました」
「なるほど。おそらくデル対策だろうね」
「だと思われます。ですが、それとは違う魔力に特化していたため、物理遮断はそれほどのものではございませんでした」
そう言ってデルは、そのゴスロリ少女の頭を持ち上げ、こちらに見せた。
その顔面は激しく損壊していた。
ひまりは思わず「ひっ!」と声を上げた。
面相筆で描いた裂け目が陶面の下から増殖し、青い膠のような液が縁から垂れていた。
それが、土の上でジュッと蒸発して消えていく。
「錬金か……」
成宮蒼はそう言うと、ひまりを抱きかかえたまま、そのゴスロリ少女に近づく。
「え……ちょ、ちょっと……、お、下ろして!」
そのひまりの懇願を無視して、蒼は、膠を指ですくう。
途端に、蒼の指の先で、ジュッ、ジュッと化学的な反応の音がする。
だが、蒼の指に損傷はまるでなかった。
ひまりは、あっけに取られる。
──この人たち、一体、何……!?
「なるほど」
と、蒼は言う。
「酸に似せた“壊す式”。化学式の桁が合わない――魔術で帳尻を合わせている」
「その通りでございます、蒼さま。これは天使像と同じ術式かと思われます」
デルピュネーはかしこまる。
「腐蝕……の記号が見える。いやむしろ、そちらに特化した式。腐らせ、溶かし、破壊する」
「天使像を作った者と同じ者が放ったものでしょうか」
「おそらく、そうだろう」
成宮蒼は顔を上げる。
「ソロモン72柱のなかに、これに似た力を持った者がいる。直接会ったことはないが、おそらく、そいつだ。見ろ、あの射手座の輝きを」
言われて、指さされた夜空を、ひまりも見上げる。
射手座だけが夜空で血のような光を放っている。
「ヤツの象徴は射手座だ。僕の推測をあれが裏付けてくれている」
「ただ、天使像と違って、なかなかの歯ごたえでした。おそらく強化バージョンかと……」
「そうだな。それにしても、よくやった、デル」
成宮蒼がほほ笑みを浮かべる。
──だがちっともうれしそうじゃない。
そう、ひまりは思った。
ひまりから見れば、それはまるで氷の微笑だった。
「蒼さま。ではコレ、どうしましょうか?」
「もう、大丈夫だろう。死んだよ、そいつは」
「検体として必要では……?」
「その必要はない。デルの敵にもならないヤツだ。実際、簡単だったろ?」
「おっしゃる通りでございます。では、消しますね」
そう言うと、デルの瞳が一瞬、光ったように見えた。
(うわ……)
そう目を閉じて、再び目を開いた時には。
ゴスロリ少女の遺体は煙となっていた。
その煙はゆっくりと立ち上り、夜空へと消えていく。
まるで、射手座に帰っていくようにも見えた。
「これで大丈夫だ。ひまりさん……と、いったかな? 怪我は、ないかい?」
成宮蒼は、ひまりをゆっくりと地面へと下ろす。
だが、ひまりの足は立たない。
思わずぺしゃっとそこに座り込んでしまう。
大体、いまだに何が起こったのか、この二人が何者なのか、
理解できてないのだ。
「君が今、見たもののことは、忘れた方がいい。そして、僕らのことも。これまでのように、誰にも話さないように。いいね?」
「あ、あの……」
思わずひまりは言う。
「あなたたちは、霊能力者か何かなのですか……?」
「霊能力者?」
「それか、超能力者とか……」
とてもじゃないが「怪異ですか」とは聞けない。
そんなひまりを見て、デルはクスッと笑った。
「ご心配には及びません、ひまりさま。少なくとも、あなたに害をなす者ではございません」
「え……でも……」
デルピュネーの、あの人間離れした速度。
それは、ひまりの中で、なかったことにはできない。
そして今夜襲ってきた怪異のこと、
そして、この青年のことも──
「蒼さまがおっしゃった通りでございます、ひまりさま。あなたは、この件や、わたくしたちについて、今まで通り、誰にも話さなければいいのです」
「見なかったことに……しろ……ということですか?」
「おっしゃる通りでございます」
そう笑うデルの小柄な体からは、先ほどのあの戦闘から感じられた恐怖が完全に消え失せている。
「見て、見ぬふり……。それも、生きていく力であり、いつか、そうしなくても生きていける日はきっと来ます」
「見て、見ぬふり……」
ひまりの胸の奥がチクッと痛む。
「そうでございます。いずれ、すべての物事を、見ても良いと思える日が来ます」
これに蒼が続く。
「その日が来ることも、僕たちは祈っているよ」
その後、デルは、乱れた巫女衣装を整えた。
そして、戸惑ったままのひまりを置いて、二人は、その場から離れた。
闇の中へと消えていく。
まるで、夜が寄越した刺客のように……
◆ ◆ ◆
夜空を滑空する成宮蒼こと魔王ベレス。
その胸には、デルピュネーが抱え上げられている。
「やはり生命を持たぬ怪異か。それに前回の『カスケード』でこの世に誰が来たかの目星はついた」
「本当に、あれを持ち帰って、詳しく解剖しなくても良かったのですか、ベレスさま」
「そこまでする必要はない。あれは、ホムンクルスだ」
「ホムンクルス……」
「そうだ。つまり、錬金術で作られた“人形みたいな人間”だ。魂の座が無い。そして、これを作り出したのは、ほぼ間違いなく、射手座に属する怪異」
魔王ベレスは、夜空の一部を血の色に染める射手座を見ながら言う。
「これまでのベレスさまのお話。わたくしも心当たりがあります。
「…………」
「つまりベレスさががおっしゃりたい方の名前は……」
「ああ。デルも名前は知っていたのか」
「はい」
「そう。ソロモン72柱の魔王の1柱。序列14番目の地獄の大公爵」
「つまり……あの魔王レラージェさま……」
デルピュネーの喉が音を立てた。
さすがのデルピュネーでも「魔王」の言葉には、やはり怯むところはある。
「魔界でも名のあるあの御方が、この世に顕現されている……」
「ヤツとは会ったことはない。だがこの感じ、間違いないだろう。匂いは緑がかった金属。レラージェ系術式の“腐蝕”だ」
「レラージェさまがこちらへ……。そして、あの少女人形や天使像を使って、この町であれほどの殺戮を起こしている。それは、レラージェさまがやはり、翔太さまに接触を試みたいからでしょうか?」
「いや、レラージェのやつは、むしろ僕に気づいて欲しがっている。僕は、あの結界を僕の魔力でさらに改良した。そに拠点を構えている僕たちに、レラージェは近づけない。つまり僕や、あの“獣”を、結界から、引っ張り出したいわけさ。この町をパニックに落とし入れてね。そして出てきたところで“獣”を奪う」
「では、わたくしたちが、あれらすべての使い魔を破壊しては? そうすれば翔太さまが、あの正義感で自ら出向く、といった行為も避けられるのでは」
「いいや。あの使い魔たちは、捨て置け」
魔王ベレスの言葉にデルは肩を震わせた。
この声色は、何か裏がある、そんな声の低さだ。
「人間など何人死んだところで、意味がない。そう、レラージェに分からせるべきだ。そもそも翔太くんが今回の事件を知るのは、翌日のことだろう。その時、翔太くんはどう感じるか……。“許せない”、そう正義心に火を灯すだろう。正義に火が入れば、ラーは強く、獣の目覚めは遠のく」
「なるほど。むしろその正義感を生かして、太陽神ラーさまのお力を強める……」
おそらく魔王ベレスが考えていることは、それだけではない。
だが、デルは敢えてそこを訊かず、別のことを質問した。
「ところでベレスさま。来たのがレラージェさまだとして、あのお方の目的は何でしょうか」
これに魔王ベレスは、悪魔らしく、あたかもすべて見通しているかのような目で、言った。
「こういった場合、真実というのは往々にしてシンプルなものだよ、デル。レラージェは、上級精霊の大悪魔・サルガタナスの配下にいる。さあ、ここからは簡単なクイズだ。そのサルガタナスの上にいるのは誰だ?」
「……アスタロト伯爵!」
自分で口にしておいて、デルピュネーは震えた。
魔王アスタロト。
それは、地獄の三大実力者の一人。
デルも、槍をまじえたことはないが、非常に狡猾で、さらに悪魔王サタンにすら一目置かれた存在。
デルも、魔界最強と歌われたギリシャ神話のテュポーンに認められし番人だ。
そのデルをしても、敵には回したくない『リリン』。
「おそらく、アスタロトは気付いた。666の獣……。これがすでに『受胎』を起こし始めていることを。だからレラージェを寄越した。レラージェはアスタロトの直接の参謀に当たる。それに、レラージェなら、僕といい勝負ができる。つまり、アスタロトは僕をみくびっているわけだ」
魔王ベレスは不敵に笑った。
「さて、次はどんな手で僕たちに近づいてくるのか。そしてアスタロトは“獣”を何に使うつもりなのか……。これはかなりきな臭くなってきたな。アスタロトが考えていることと言えば、思いつくのは……」
これにデルピュネーは頷く。
デルピュネーにも心当たりがある。
今夜の魔王ベレスの瞬きは普段より一拍遅い。
この、夜の位相に合わせているのだと直感し、デルは、槍を抱えて身を固くした。




