第234話 魂縛〈たましばり〉/『ドラウグル』解放戦線①
第234話
急に、野津の心にかかっていた"圧"が、ゆるやかになった。
正確には、圧が消えたのではない。
ただ、その圧の「向き」が変わった。
自分たちへ向いていたものが、別の何かへ、静かに流れ直した。
(誰だ……?)
握りしめた拳だけはほどかず、声の方を見る。
ドラウグルたちの背中越し。
『濃霧』の向こうから、場違いなほど軽い声が聞こえてきた。
「あー……これ、視界最悪だな。霧はさ、戦う前に片付けとこうか」
野津の思考が、一瞬止まった。
──え?
今、何と言った。
この状況で。
この霧の中で。
血と臓物と死体に囲まれた、この場所で。
「片付ける」。
まるで、散らかった部屋を掃除でもするみたいな口調で。
野津も、今井も、言葉が出なかった。
出せなかった、というより。
何を言えばいいのか、わからなかった。
(何言ってんだ……?)
そっちの方が先に立つ。
怒りでも、安堵でも、感謝でもなく。
純粋な「意味がわからない」という困惑だけが、野津の頭を占領していた。
そこへ、こんな言葉が聞こえてきた。
「――ミカエル小聖式・清域展開」
音として聞いた。
だが、意味として入ってこなかった。
神表は左手で胸元に奇妙な印を結んだ。
指の角度が、人間の関節の動き方と、わずかにずれている。
右手の木刀で、地面に向かって、小さな円を描く。
ゆっくりと。丁寧に。
まるで、見えない何かの輪郭をなぞるように。
──そのときだ。
野津らの足元から、光が滲み出した。
滲む、という表現しか、できなかった。
噴き出すのでも、広がるのでもない。
地面の目に見えない毛穴から、じわりと染み出してくるような、白金色の光。
幾何学文様。
重なり合う円。
欠けた環。
それぞれの回転の速さが、微妙に違う。
ごく薄い白金色の円が、一瞬だけ灯る。
その円の内側に、見慣れない文字が浮かびあがった。
ラテン語ともヘブライ語ともつかない、角ばった聖句。
意味はわからない。
わからないのに、見ているだけで、心の奥の何かが、小さくざわついた。
まるで、自分の中にある「知ってはいけない記憶」を、外側から触られているような感覚。
円は、ひとつではなかった。
いくつも、重なっている。
大きさも、回転の向きも、速度も、全部違う。
それらが同時に動いているのに、ぶつからない。
干渉しない。
まるで、最初からそうあるべきだったように、噛み合っている。
次の瞬間──
爆発ではない。
衝撃でもない。
ただ、下から押し出されるように、『濃霧』だけが、上空へと噴き上げていく。
途端に露わになった。
バス周辺が。
路面が。
建物の輪郭が。
おそらくバスの半径十メートルぐらい。
きれいな円状に、『濃霧』がそこだけ、一瞬で、空へ押し上げられていく。
ゴウッ!
それは、天を覆っていた雲をも突き破った。
遥か上空に、真っ青な青空が円状に見える。
「風が……霧を、押し上げた……?」
やさしい日差しが、落ちてきた。
この場所だけ。
バスと、血と、死体と、人間たちを包む範囲だけ。
ここだけ、霧が晴れた。
光は、生きているものにも、死んでいるものにも、等しく降り注いだ。
野津は驚きを隠しきれない。今井も同じだ。
龍雅だけが、血まみれのまま、霧が晴れる前からすでに体ごとそちらへ向いていた。
より強い獣の気配を、本能だけで嗅ぎ取るように。
その殺気に野津も反応した。急いで、視線の先を追う。
霧が晴れたそこにいたのは、星城学園の制服。メガネをかけた少年──
「あ~あ。同じ学校のヤツいるじゃん。身バレしちゃうな、これ」
少年の手には、木刀が握られていた。
そして周囲で揺らめくドラウグルや、血や臓物で穢された路面を見回す。
「うわっ。ひっどい血の匂い。来るのが遅かったわ。やべ。死体まみれじゃん」
その少年の言う通りだった。
特にバスの周囲がひどい。
野津はまず、バスの側面が、搭乗口を残して完全に引っ剥がされていることに驚いた。
そして、そのバスの中には、原田先生。後輩の高木。……彼らは生きている。
だがその周りは大量のドラウグルに囲まれ、路面には、元が一体誰だったのか、わからないほどぐちゃぐちゃになった死体が転がっている。
腸なのか、胃なのか、もう判別できない。
骨は砕け、肉は潰れ、
目玉らしきものが、靴跡の中で潰れている。
それが、ドラウグルの足元に見える。
彼らが、どんな順番で壊されたのか──
なんとなく想像できてしまう分だけ、吐き気がする。
息をするだけで、気持ち悪い。
そして不思議と──
ドラウグルたちの動きが一斉に止まっていた。
ここだけ霧が晴れたせいか。
それとも足元の魔法陣のようなもののせいか。
野津にもわからない。
吐き気を催しそうな野津からおよそ十メートルほど先。
そのメガネの少年は突如、こう言ってのけた。
「それにしても、ドラウグルの数が多いな。ちょっと間引くか」
言葉と同時だった。少年が、木刀を振ったのは。
目の前のドラウグル。
首を狙った横薙ぎの一打。
この直後、今井は驚きの声を漏らす。
「……え?」
今井の驚きは当然だった。
木刀は、確かに、ドラウグルの首を、刎ねるように振るわれた。
だが、首が落ちない。
しかし、首の「接続部分」だけが消失している。
切断面から血も出ない。
代わりに、魔法陣のような、淡い金色の幾何学文様だけが空中に残っている。
(どうなってるの!?)
首を割かれたドラウグルは一切の動きを止めた。
言葉を失ったまま立ち尽くしている今井に、少年は言った。
「あんたら、ドラウグル相手に、“肉”を相手にしてただろ。それじゃ、こいつらは倒せない」
野津にはその言葉の意味が理解できない。
今井だけが呟く。
「切ってない……当たったように見えたけど当たってない……すり抜けた……なのに、首が……」
龍雅は、無意識に一歩下がっていた。
理屈はわからない。これまで、恐れを抱いた相手など、一人もいなかった。
だが、数多くの喧嘩で相手の血をさんざん見てきた経験が、野生の勘が、
──こいつには、手を出すな。
と、骨の芯から告げていた。
そんな龍雅にもお構いなく、少年は続ける。
「ドラウグルの本体は、“呪い”そのものだ。つまり、物理ではなく“位相”を制さなければ、倒せないんだよ。だから、いくら金属バットで殴っても、竹刀で相手の骨を砕いても、腕力で引き裂いても、意味がないんだ。……なあに、驚くことはないですよ、先輩たち。俺は、魂の結び目を外しているだけなんで」
言ったそばで、また一振り。
同じように、首の「接続部分」が消え、代わりにそこに金色の魔法陣だけが残る。
「ドラウグルの肉体は、単なる死体だ。動力は怨嗟の集合。わかりやすく言えば、悪霊だな。あと、それを固定しているのは、ルーン。つまり、北欧の呪術だ」
次々に、ドラウグルの首に魔法陣を作っていく少年。
「つまり三層構造の呪い……。殴って壊れないのはさ、壊す順番が違うからなんだよ。つっても、結構、バラバラになってる個体もあるな。あんたら、何者だ? 拳や竹刀や金属バットだけで、ここまで持ちこたえたのか? それはそれでめっちゃすげーんだけど。あと、竹刀持っている先輩、すっげー可愛い」
その言葉が向けられた先。
今井の呼吸は浅かった。
肩がわずかに上下するたび、濡れた制服が肌に張り付き、すぐに離れる。
喉元には細い血の筋がひとつ流れていた。
それは傷というより、まだ生きている証みたいに見えた。
「え……私……?」
言われて今井が、ちょっと引いたのがわかった。
(何、言ってやがんだ、このバカ)
――この状況で、それか。
助けられている側だというのに、野津は思わず、そう毒づいていた。
やがて、ドラウグルたちが、カタカタと動き始めた。
ドラウグルの鎧や手斧のルーン文字が光り始め、その少年へ向けて戦闘スタイルを取る。
「うん。知ってた。金縛りは一瞬だよな。そろそろ動き始める頃だって思ってた。じゃあ、やりますか。悪魔祓い。ゴブリンやトロールなんかより、こっちの方が、俺の専門分野なんだよな」
そして少年は、ぽつりと一言だけ告げた。
「――Solve vinculum animae.(魂の縛りを解放せよ)」
ラテン語。
短い。
だが当然、野津たちには、意味がわからない。
一拍置いて、
神表は、別の言葉を低く続けた。
「Bindr slitni. Rúnar falla.(縛りは裂け、ルーンは落ちる)」
北欧語だと、後から野津は知る。
そんな野津たちに、少年は、初めて、名を告げた。
「俺の名は、神表洋平。名前だけでも覚えていってネ♪」
神表と名乗った少年は、木刀の切っ先で、空中に円を描く仕草をした。
「ミカエル秘儀――魂錨解放陣」
その瞬間、地面に浮かんだ魔法陣が、回転をやめた──
「さあ。悪魔祓いの儀式なんて、あんま見られるもんじゃないよ。ちょっとすごいって思ったら、おひねり、よろしくパーリナイ♪」




