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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第234話 魂縛〈たましばり〉/『ドラウグル』解放戦線①

第234話


 急に、野津の心にかかっていた"圧"が、ゆるやかになった。


 正確には、圧が消えたのではない。

 ただ、その圧の「向き」が変わった。

 自分たちへ向いていたものが、別の何かへ、静かに流れ直した。


(誰だ……?)


 握りしめた拳だけはほどかず、声の方を見る。

 ドラウグルたちの背中越し。

『濃霧』の向こうから、場違いなほど軽い声が聞こえてきた。


「あー……これ、視界最悪だな。霧はさ、戦う前に片付けとこうか」


 野津の思考が、一瞬止まった。


 ──え?


 今、何と言った。

 この状況で。

 この霧の中で。

 血と臓物と死体に囲まれた、この場所で。


「片付ける」。


 まるで、散らかった部屋を掃除でもするみたいな口調で。


 野津も、今井も、言葉が出なかった。

 出せなかった、というより。

 何を言えばいいのか、わからなかった。


(何言ってんだ……?)


 そっちの方が先に立つ。

 怒りでも、安堵でも、感謝でもなく。

 純粋な「意味がわからない」という困惑だけが、野津の頭を占領していた。


 そこへ、こんな言葉が聞こえてきた。


「――ミカエル小聖式・清域展開アエル・クラリタス


 音として聞いた。

 だが、意味として入ってこなかった。


 神表は左手で胸元に奇妙な印を結んだ。

 指の角度が、人間の関節の動き方と、わずかにずれている。

 右手の木刀で、地面に向かって、小さな円を描く。

 ゆっくりと。丁寧に。

 まるで、見えない何かの輪郭をなぞるように。


 ──そのときだ。


 野津らの足元から、光が滲み出した。

 滲む、という表現しか、できなかった。

 噴き出すのでも、広がるのでもない。

 地面の目に見えない毛穴から、じわりと染み出してくるような、白金色の光。


 幾何学文様。

 重なり合う円。

 欠けた環。


 それぞれの回転の速さが、微妙に違う。

 ごく薄い白金色の円が、一瞬だけ灯る。


 その円の内側に、見慣れない文字が浮かびあがった。

 ラテン語ともヘブライ語ともつかない、角ばった聖句。

 意味はわからない。

 わからないのに、見ているだけで、心の奥の何かが、小さくざわついた。

 まるで、自分の中にある「知ってはいけない記憶」を、外側から触られているような感覚。


 円は、ひとつではなかった。

 いくつも、重なっている。

 大きさも、回転の向きも、速度も、全部違う。

 それらが同時に動いているのに、ぶつからない。


 干渉しない。


 まるで、最初からそうあるべきだったように、噛み合っている。


 次の瞬間──


 爆発ではない。

 衝撃でもない。


 ただ、下から押し出されるように、『濃霧』だけが、上空へと噴き上げていく。

 途端にあらわになった。

 バス周辺が。

 路面が。

 建物の輪郭が。


 おそらくバスの半径十メートルぐらい。

 きれいな円状に、『濃霧』がそこだけ、一瞬で、空へ押し上げられていく。


 ゴウッ!


 それは、天を覆っていた雲をも突き破った。

 遥か上空に、真っ青な青空が円状に見える。


「風が……霧を、押し上げた……?」


 やさしい日差しが、落ちてきた。


 この場所だけ。

 バスと、血と、死体と、人間たちを包む範囲だけ。

 ここだけ、霧が晴れた。

 光は、生きているものにも、死んでいるものにも、等しく降り注いだ。


 野津は驚きを隠しきれない。今井も同じだ。

 龍雅だけが、血まみれのまま、霧が晴れる前からすでに体ごとそちらへ向いていた。

 より強い獣の気配を、本能だけで嗅ぎ取るように。

 その殺気に野津も反応した。急いで、視線の先を追う。


 霧が晴れたそこにいたのは、星城学園の制服。メガネをかけた少年──


「あ~あ。同じ学校のヤツいるじゃん。身バレしちゃうな、これ」


 少年の手には、木刀が握られていた。

 そして周囲で揺らめくドラウグルや、血や臓物で穢された路面を見回す。


「うわっ。ひっどい血の匂い。来るのが遅かったわ。やべ。死体まみれじゃん」


 その少年の言う通りだった。

 特にバスの周囲がひどい。


 野津はまず、バスの側面が、搭乗口を残して完全に引っ剥がされていることに驚いた。

 そして、そのバスの中には、原田先生。後輩の高木。……彼らは生きている。


 だがその周りは大量のドラウグルに囲まれ、路面には、元が一体誰だったのか、わからないほどぐちゃぐちゃになった死体が転がっている。

 

 腸なのか、胃なのか、もう判別できない。

 骨は砕け、肉は潰れ、

 目玉らしきものが、靴跡の中で潰れている。

 それが、ドラウグルの足元に見える。


 彼らが、どんな順番で壊されたのか──

 なんとなく想像できてしまう分だけ、吐き気がする。

 息をするだけで、気持ち悪い。


 そして不思議と──

 ドラウグルたちの動きが一斉に止まっていた。

 ここだけ霧が晴れたせいか。

 それとも足元の魔法陣のようなもののせいか。

 野津にもわからない。


 吐き気を催しそうな野津からおよそ十メートルほど先。

 そのメガネの少年は突如、こう言ってのけた。


「それにしても、ドラウグルの数が多いな。ちょっと間引くか」


 言葉と同時だった。少年が、木刀を振ったのは。

 目の前のドラウグル。

 首を狙った横薙よこなぎの一打。

 この直後、今井は驚きの声を漏らす。


「……え?」


 今井の驚きは当然だった。

 木刀は、確かに、ドラウグルの首を、ねるように振るわれた。

 だが、首が落ちない。

 しかし、首の「接続部分」だけが消失している。

 切断面から血も出ない。

 代わりに、魔法陣のような、淡い金色の幾何学文様だけが空中に残っている。


(どうなってるの!?)


 首を割かれたドラウグルは一切の動きを止めた。

 言葉を失ったまま立ち尽くしている今井に、少年は言った。


「あんたら、ドラウグル相手に、“肉”を相手にしてただろ。それじゃ、こいつらは倒せない」


 野津にはその言葉の意味が理解できない。

 今井だけが呟く。


「切ってない……当たったように見えたけど当たってない……すり抜けた……なのに、首が……」


 龍雅は、無意識に一歩下がっていた。

 理屈はわからない。これまで、恐れを抱いた相手など、一人もいなかった。

 だが、数多くの喧嘩で相手の血をさんざん見てきた経験が、野生の勘が、

 ──こいつには、手を出すな。

 と、骨の芯から告げていた。


 そんな龍雅にもお構いなく、少年は続ける。


「ドラウグルの本体は、“呪い”そのものだ。つまり、物理ではなく“位相”を制さなければ、倒せないんだよ。だから、いくら金属バットで殴っても、竹刀で相手の骨を砕いても、腕力で引き裂いても、意味がないんだ。……なあに、驚くことはないですよ、先輩たち。俺は、魂の結び目を外しているだけなんで」


 言ったそばで、また一振り。


 同じように、首の「接続部分」が消え、代わりにそこに金色の魔法陣だけが残る。


「ドラウグルの肉体は、単なる死体だ。動力は怨嗟えんさの集合。わかりやすく言えば、悪霊だな。あと、それを固定しているのは、ルーン。つまり、北欧の呪術だ」


 次々に、ドラウグルの首に魔法陣を作っていく少年。


「つまり三層構造の呪い……。殴って壊れないのはさ、壊す順番が違うからなんだよ。つっても、結構、バラバラになってる個体もあるな。あんたら、何者だ? 拳や竹刀や金属バットだけで、ここまで持ちこたえたのか? それはそれでめっちゃすげーんだけど。あと、竹刀持っている先輩、すっげー可愛い」


 その言葉が向けられた先。

 今井の呼吸は浅かった。

 肩がわずかに上下するたび、濡れた制服が肌に張り付き、すぐに離れる。

 喉元には細い血の筋がひとつ流れていた。

 それは傷というより、まだ生きている証みたいに見えた。


「え……私……?」


 言われて今井が、ちょっと引いたのがわかった。


(何、言ってやがんだ、このバカ)


 ――この状況で、それか。

 助けられている側だというのに、野津は思わず、そう毒づいていた。


 やがて、ドラウグルたちが、カタカタと動き始めた。

 ドラウグルの鎧や手斧のルーン文字が光り始め、その少年へ向けて戦闘スタイルを取る。


「うん。知ってた。金縛りは一瞬だよな。そろそろ動き始める頃だって思ってた。じゃあ、やりますか。悪魔祓い。ゴブリンやトロールなんかより、こっちの方が、俺の専門分野なんだよな」


 そして少年は、ぽつりと一言だけ告げた。


「――Solve vinculum animae.(魂の縛りを解放せよ)」


 ラテン語。

 短い。

 だが当然、野津たちには、意味がわからない。


 一拍置いて、

 神表は、別の言葉を低く続けた。


「Bindr slitni. Rúnar falla.(縛りは裂け、ルーンは落ちる)」


 北欧語だと、後から野津は知る。

 そんな野津たちに、少年は、初めて、名を告げた。


「俺の名は、神表洋平かみおもてようへい。名前だけでも覚えていってネ♪」


 神表と名乗った少年は、木刀の切っ先で、空中に円を描く仕草をした。


「ミカエル秘儀――魂錨解放陣アンクル・オブ・ソウル


 その瞬間、地面に浮かんだ魔法陣が、回転をやめた── 


「さあ。悪魔祓いの儀式なんて、あんま見られるもんじゃないよ。ちょっとすごいって思ったら、おひねり、よろしくパーリナイ♪」

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