第233話 ジェノサイド④
第233話
その直後だった。
銀色の光が、霧を裂くように走った。
野津の肩越し、斜め上から“何か”が飛び込んでくる。
──金属バット!?
間違いない。
フルスイング。
ドラウグルの顎が、三体まとめて、骨ごと弾けて吹き飛んだ。
だが。
倒れた――はずなのに、霧の中で“まだ動く影”が見えた。
野津の胃の底が、すうっと冷えた。
そしてその霧の向こうで。
「はっ、はっ……ひゅー……」
金属バットを持った少年が、血まみれの顔で笑っていた。
「マジで、いい感じにやべえな……お前ら……」
──龍雅だ。
宇和島第三でも有名な喧嘩屋。戦いそのものを楽しむタイプの男。
さっきまで別の場所でドラウグルをミンチにしていたはずの男が、いつの間にか野津のもとへ合流していた。
そして、金属バットを肩に担ぎ、ドラウグルの群れを見回す。
白い目と、海藻の髪と、光るルーン。
「龍雅……お前」
「ちっ、偶然だよ」
再び、金属バットを構える。
「……不死身かよ、こいつら。上等だ……」
低い声。
その挑発に応えるように。
ドラウグルたちの群れの一部が、ほとんど音もなく飛びかかる。
これに龍雅は応える。
金属と骨がぶつかる音。
バットの一撃が、ひとりのドラウグルの頭蓋を粉砕した。
海水と脳漿が、同じ色で飛び散る。
それでも、体は倒れず、二、三歩よろけてからようやく崩れた。
だが──それは、最初の一撃だけだった。
龍雅の金属バットは、その狂気とは裏腹に正確無比に急所を狙っていた。
だが。
倒した感触だけが残り、結果が残らない。
死体は転がらない。終わらない。
ただ、体力だけが、一方的に削られていく──
「ん……?」
気づいた時には、龍雅のバットに、白い手が絡みついていた。
そして次の瞬間。
金属が――ぐにゃり、と粘土みたいに潰れていく。
「……おいおい」
信じられないといった龍雅の目。
「折れる」じゃない。
「潰れる」──
ドラウグルたちは、バットごと龍雅を引き込もうとする。
龍雅は全身で抗う。
野津も今井も、助けに行く余裕がない。
両側から、別の“影”――ドラウグルたちが、無音で増えていくからだ。
──数が多すぎるっ!
龍雅の腕に、海藻の髪が、蛇みたいに巻きついてきた。
ぬらぬらとした冷たさが、袖から中へと染み込んでくる。
足元では、別の白い手がすねを掴む。
膝の裏に指を差し込み、関節を逆方向へ折ろうとする。
「ははっ……マジかよ……」
それでも龍雅は笑っていた。
息を荒げながら、血まみれの歯を見せる。
「まだまだ……全然、上がるな……テンション……」
そんな彼の肋骨に、白い斧の刃がそっと当てられる。
押し込めば、骨も肉もまとめて割れる位置。
迷いのない角度。
龍雅は、その刃を見下ろした後、笑ったまま、ドラウグルの白い顔をにらんだ。
「……やってみろよ」
死の直前なのに、笑っている。
「こちとら、死ぬ覚悟なんざ……とっくに済ませてんだよ」
そして刃が、わずかに押し込まれた──その瞬間。
すぐ目の前で、さらに別の音が混ざった。
竹刀の乾いた衝突音。
竹刀が骨を砕く音。
今井の竹刀が、ドラウグルの手首を落としたのだ。
竹刀の打突部が、骨の継ぎ目だけを正確に叩き抜く。
今井の目には、まだ希望が残っていた。
「倒せる」という希望ではない。
「倒し方を見つけられる」という希望だ。
(この距離、このタイミング、この角度……!)
手首のスナップ。
有段者の「小手」への攻撃は、素肌に当たると、その皮膚ごと破裂させる。
今井には天性の才があり、そのスナップと握るタイミングが神がかっている。
その一瞬にかかる圧力は、200キロ以上。
瞬時に、打たれた皮膚が弾け飛ぶほどの“圧”。
本来なら、防具なしの人間に使ってはいけない力だ。
だが、相手は人間ではない。
今井の本気が、炸裂する。
次に今井の竹刀は、ドラウグルの首の付け根を狙った。
打つ。狙いは、骨の継ぎ目。
(間違いない! ここだ!)
まるで精密機械のような正確な竹刀さばき。
その打突を受け、ドラウグルの首は、そこからきれいに、カクンと外れた。
主を失った白い首は回転しながら、霧の中へ消える。
胴体だけが、二、三歩前へ歩くが、すぐに、糸の切れた操り人形みたいに崩れ落ちた。
「な、なんだよ、この姉ちゃん……」
これにはさすがの龍雅も目を見張る。
まさか、剣道が……しかも竹でできた竹刀が、ここまでの威力を持つなんて──
「驚いたか、龍雅」
野津は笑う。引きつってはいるが。
「なにも金属バットだけが、強ぇわけじゃないんだよ」
「やかましい!」
龍雅はひん曲がった金属バットに絡みついた白い手を無理やり引きちぎる。
再び霧の中へと突っ込んでいく。
そのとき。
霧の奥から、また新しい波が押し寄せてくる気配がした。
ゴボ……ゴボ……ゴボ……
海の底が、こちらへ近づいてくるみたいな低音。
霧そのものが、呼吸しているように脈打った。
遠くの白濁した目が、同時にこちらを向く。
“合図”だ。
──次の群れが来る。
(……まだ、来るのかよ……)
野津は、奥歯をかみしめる。
金属バットを持っているはずの龍雅ですら、押し戻されてきた。
肩で息をしながら、額から流れる血を手の甲でぬぐう。
「ちくしょう。シャレんなんねーわ、こいつら」
野津の息が乱れ、視界の端が、黒く欠けていく。
膝が笑う。
拳の感覚が、じわじわ抜ける。
体が「もう無理だ」と先に言い始めていた。
それでも前へ出る。
退いた瞬間に、バスの中が終わるとわかっているからだ。
(もし、元崎さんが、いたら──)
野津は思う。
(それに、北藤……。もし、お前なら――これをどうする?)
この逡巡の油断を付かれた。
ひゅ、という空気の割れる細い音。
「──っ!!」
野津の左耳に、冷たいものが触れた。
違う。触れられたんじゃない。
──斬られた。
白い指先が刃物みたいに耳をえぐり、耳殻が裂けていった。
音が遠のく。
代わりに、血が流れる音だけが、頭の中で膨らんだ。
「ぐあっ……あああああ──っ!!」
熱い血が頬を伝い、視界の片端へ赤いしぶきが飛ぶ。
「野津くんっ!!」
今井が振り返った瞬間、別のドラウグルが湧いて出るように立ちふさがる。
「くっ!」
助ける暇もない。
目の前で斧がしなる。
これをまずは避けなければならない。
手には竹刀のみ。
竹刀で受けざるを得ない──が、
バキィッ!
乾いた破裂音。
竹刀の中ほどが折れ、手元に“軽さ”だけが残った。
折れた半分が霧の中へ飛んでいく。
この場で折れてはいけないものが、折れた。
それが、今井の判断を一気に『濃霧』で覆い尽くした。
「あっ……!」
今井は反射的に折れた竹刀を追ってしまった。
手を伸ばして。
その姿勢は、最悪の隙だった。
「……今井! 下がれ! そっちは──!」
野津の叫びが霧を震わせる。
「え……」
今井が追った先の霧の奥から、白い目が四、五対。
「……っ!」
踵を返し、その場から下がろうと思ったその瞬間、その膝裏へ、
ズルッ……
海藻みたいな黒緑の髪が、絡みついた。
ぬめる冷たさが、皮膚の上で“生き物”みたいに動く。
「い、いや……っ!」
膝が引き倒される。
引き倒す角度が、上手すぎる。
まるで最初から、転ばせ方を知っているみたいに。
肺の奥で空気が弾け、視界が白くなる。
龍雅も野津も今井のフォローへ行けない。
龍雅は片足を引きずり、肋骨を押さえながら、まだ群れの中心で金属バットを振り回している。
野津は耳から血を流し、焦点が合わない視界をこじ開けて立っている。
その野津に向けて、またひとりのドラウグルが、無音で迫る。
(……まずい……! 今井が……! 龍雅が……!)
叫びたいのに声が出ない。
耳の中で脈が鳴り響く。
心臓の音がやたら近い。
視界の端がぐらりと揺れる。
さらに、霧の中から、三体ほどの影が現れる。
どれも斧を持ち、こちらへ歩いてくる。
(誰か──誰か……!)
この瞬間。
救援の可能性は、完全にゼロだった。
誰も来ない。
ここで終わる。
その現実だけが、霧より濃く、肺に入ってきた。
呼んだところで届かない。届く前に、誰かが死ぬ。
今井は膝をついたまま、震える手で半分になった竹刀を構える。
その姿勢のまま、竹刀で突きを放とうとしたとき。
霧が、一瞬だけ、静止した。
風もない。音もない。
ドラウグルたちの動きが、コマ送りみたいに遅くなる。
まるで、場の「ルール」が書き換えられようとしているみたいに。
そして。
──目の前の白い手が、
“根元から”、断ち切られたみたいに消えた。
「……え?」
血も、骨も、残らない。
ただ「存在だけ」が、すくい取られるように抜き取られる。
「誰っ──!」
さっきまでの理不尽とは、別の理不尽。
その理不尽を可能にする、新たな第三者の介入。
今井の目に、木刀の先端が見えた。
その木刀の周りだけ、霧が近づけない。
触れた途端、霧が細かい光の粒になって弾ける。
弾けた粒は、すぐ消える。
まるで、その木刀が「ここは俺の領域だ」と宣言しているみたいに。
野津も気づく。そして、目を見開く。
──霧が、避けてる、のか……!?
「ゴブリンにトロールに……」
ふざけた調子。
なのに、その声だけは、妙に通って、霧の奥まで届いた。
「ファンタジーしばりかと思ったが、ここに来てドラウグルとはな。北欧しばりってわけね。いやあ、サービス過剰で、おじさんちょっと泣きそう」
霧の向こうから現れた男は、どこか間の抜けた笑顔を浮かべていた。
──神表洋平。
星城学園高等部一年生。
それでいて、国際魔術会議が抱えるエリート級エクソシスト。
「かたじけパーリナイ」が口癖の、ふざけたSSR。
だが、その木刀の切っ先を見た瞬間、野津の脊髄は本能的に理解していた。
――この場の主導権が変わりやがった……!
喧嘩慣れしているからこそ、わかる野生の勘。
空気を変えられる人間は、そういない。
野津は見た。
神表の唇が、ほんの一瞬だけ動く。
祈りとも命令ともつかない、短い句。
「ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヘー」
それだけで、ドラウグルたちの動きが“止まった”。
恐怖で止まったんじゃない。
もっと根っこのところ――ルールごと、止められた。
「遅くなって、かたじけパーリナイ」
神表は、いつもの軽薄な笑みのまま、そのドラウグルの群れを見渡した。
「さてと」
一拍。
「……お前ら、海に帰る時間だ」
神表の瞳の奥で、金色の輪が、一瞬だけ灯った。
それは火花みたいに短いのに、霧の温度を変えるには十分だった。
野津は、初めて、息をついた。
本当の意味で、息を、ついた。




