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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第三章 蝿の王編

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第232話 ジェノサイド③

第232話 


 高木の絶叫を聞きながら、原田は若い母親の肩をそっと支えていた。

 若い母親は、赤ん坊を胸に押しつけるように、必死にかき抱いている。


「だいじょうぶ……だいじょうぶよ……ママ、ここにいるから……」


 その声は、赤ん坊に向けたものというより、崩れ落ちそうな自分自身を、必死につなぎ止めているように聞こえた。


 そのさらに後ろでは、三十代の妻が、完全に壊れていた。


「いやあああああ!! もうムリ! ムリムリムリムリ!! 出して! 出してよォ!!」


 無理もない。

 ついさっき、この目で見たのだ。


 夫の脚を掴んだ白い手が、膝をへし折り、そのまま床の下へ引きずり込むのを。

 床が、水面のように波打って、夫を飲み込むのを。

 残ったのは、折れた脚と、座席の金属フレームに引っかかった片方のスニーカーだけだった。


 それだけじゃない。

 宇和島第三の少年は、白い手に口の中から臓物を引き抜かれ、皮と骨だけの影になった。

 サラリーマンは、霧の向こうへ引きずり込まれ、骨を砕かれ、肉を割かれ、真紅の霧だけを残して消えた。


 この連続を見て、理性が残っている方がおかしい。

 壊れない方が、どうかしている。


 その叫びの震源地で、高木は膝をついたまま、床を拳で叩き続けていた。


(俺は……何もできなかった)


 夫が沈んだ時も。

 柴田が空になった時も。

 サラリーマンが消えた時も。

 ただ、見ていただけだ。


 鉄パイプを握ったまま。

 守ると決めたくせに。


(野津センパイなら……野津センパイだったら、こいつらを止められたのか……?)


 いや。

 そんなことより。


(俺は今、生きてる。なんで俺だけ、まだここにいるんだ……)


 答えは出ない。

 出るはずがない。

 

 心が、半分折れていた。

 いや、半分どころじゃないかもしれない。

 いつまた、床から白い手が湧いてくるかわからない。

 また誰かが引きずられるかもしれない。


 フロントガラスは割られた。

 側面は丸ごと引き剥がされた。

 もはやこのバスは、箱ですらない。

 骨格だけが辛うじて立っている、錆びた檻だ。


 いつドラウグルが這い上がってくるか。

 いつ押し寄せてくるか。

 自分のことすら、守れる自信がない。

 その時だった。


 ガンッ。


 金属を内側から殴りつけたような、鈍い衝撃音。

 バスの中に、ひとつだけ、はっきりと響いた。

 高木の体が、反射ですくんだ。

 心臓が、一瞬止まった気がした。


(前……!?)


 おそるおそる、音の出た場所を見る。

 運転席のすぐ横。

 乗車口のドアだ。


(……え?)


 奇跡的に、そこだけが残っていた。

 引き剥がされた側面の中で、乗車口のドア部分だけが、ぽつんと原形をとどめている。


 理由は、おそらく構造だ。


 バスの乗車口は、車体の骨格と直接溶接された、最も頑丈な部位のひとつ。

 側面の鉄板が引き千切られても、その骨格ごと抉らない限り、ドア枠だけは残る。


 ドラウグルたちは、鉄板を剥いだ。

 だが、骨格までは、まだ、えぐっていなかった。

 それが、今。

 外側から叩かれている。


 高木はゆっくりと立ち上がる。

 おそるおそる、その乗車口に近づく。

 そして見た。


 その乗車口の窓に貼りついていたのは、

 白い手。

 血の気のない白い顔。

 水を含んだ海藻のような髪が、ガラスにべったりと張り付いている。

 水滴がつうっと垂れる。

 ガラスのひびの間を、その水が黒い筋みたいに流れ落ちる。


(ど、どうして……!?)


 バス内への侵入なら、すでに壁のない側面から乗り込んでくればいい。

 なのになぜか、ドラウグルたちは、閉ざされた乗車口とその窓から侵入しようとして来ている。


(なんでわざわざ……それとも、何か意味が……!?)


 その高木の背後から、コツコツと足音が聞こえてきた。

 振り返る。

 あの妻だ。

 だが、目の色がおかしい。瞳孔が、薄く白く濁りかけている。


「ド……ドア……」


 ひび割れた唇から、ぽつり。


「開けて……」


 高木は、一瞬、意味が理解できなかった。

 次の瞬間、女は高木を押しのけた。細い体のどこにそんな力があるのか。


「やめろっ!」


 腕を掴む。だが女は振り返らない。そのままドアレバーへ手を伸ばした。


 その時、高木の脳裏にあの声が蘇った。


『状態異常攻撃持ちで──』


 サラリーマンの声だ。


(……状態異常。まさか、操られてるのか……!?)


 女の目を見る。


 焦点がない。

 瞳孔が、薄く白く濁りかけている。

 まるで、ドラウグルの目に、少しずつ近づいていくみたいに。


 泣いてもいない。怒ってもいない。

 ただ、磁石に引き寄せられる砂鉄みたいに、ドアの向こうへ向かっている。


 夫を失った、その心の傷口から。

 何かが、彼女の中に入り込んだのだ。


「ま、待て──!」


 高木が腕を伸ばす。

 届かない。


 ガチャン。


 ドアが、開いた。


 霧がどっと雪崩れ込む。

 潮と死臭と血の匂いが、一気に肺を満たす。

 そして霧の塊の中から、白い腕が、迷いなく伸びてきた。


 一本。

 また一本。


 それが、女の髪を束ごと掴んだ。


「え……ここ、どこ……?」


 正気が戻った時には、もう遅かった。

 白い指が、髪の根元まで食い込んでいる。

 頭皮が引っ張られ、毛根ごと剥がれそうな痛みが走っているはずだ。

 それでも女の顔は、痛みより先に、混乱だけが広がっていた。


 首が、釣り糸で引かれた魚みたいに、骨が鳴りそうな角度で前へ反る。


「やだっ! 離して……! やだやだやだやだっ!」


 悲鳴が、霧に飲まれる。

 足はまだ車内にある。

 なのに、上半身だけが、外の闇へと引き出されていく。

 まるで、体が二つに引き裂かれるみたいに。


(させるかっ!)


 高木は動いていた。

 考えるより先に。

 迷うより先に。

 自分でも信じられないほど自然に、半歩だけ、霧の中へ踏み出していた。

 がっしりと、妻の腰を掴む。


「離さない……! 絶対、離さないっすから……!」


 全身の筋肉を総動員する。

 喧嘩で鍛えた足を、ドア枠に踏ん張る。

 腕が、引きちぎられそうに痛い。


 だが、外からの力は、さらに強い。


 人間の力じゃない。

 海の底から引っ張っているみたいな、冷たくて、重くて、終わりのない力だ。


 しかも、なぜかドラウグルたちは、彼女の髪にばかり手を伸ばす。

 高木には、一切、手を出してこない。


 なぜだ。

 なぜ、彼女だけを狙う。


(こいつら……集団で、狙いを定めて襲うタイプの化け物なのか……!?)


 考える暇もなかった。

 路面と、バスの床と、彼女の体が、その境界線上で、引き裂かれそうに揺れている。


「いやあああああああ!! なんで……なんで私がああああ!!」


 その叫びは、誰に向けられたものか。

 神か。夫か。それとも、何もできない高木か。


 白い手が、さらに妻の顎を掴んだ。

 細い指が頬の皮膚に食い込み、爪が耳の後ろへ深くえぐり込む。

 指の跡が、白い皮膚に赤く沈む。

 まるで、粘土に指を押し込むみたいに。


「やめろおおおおおおおおおっ!」


 高木は吠えた。

 腰に回した腕に、全力を込める。

 足をドア枠に踏ん張る。

 腕の骨が軋む。

 肩の筋が悲鳴を上げる。


 だが。


 ぶち。


 妻の腰紐が、あっけなく切れた。

 布が一気にずり上がる。

 高木の指が、素肌の上で滑る。

 掴むものが、なくなった。


 高木の腕が、ふっと軽くなった。


「……あ」


 声にならない声が、喉から漏れた。


 もう、そこに、彼女はいなかった。


 霧が、どっと動いた。

 白い手と海藻の髪の塊が、一瞬で彼女を飲み込んだ。

 悲鳴の途中で。

 まだ「やだ」と言いかけた口のまま。


 残されたのは。


 路面に落ちた、引きちぎられた髪の束。

 そして、目の前をくるくると回転しながら落ちていく、頭皮の一部。


 剥がれた皮膚の裏側に、まだ生々しい血と、肉の縁が覗いていた。

 一秒前まで、人間の頭についていたものが。

 今は、ただの、濡れた切れ端だ。


「ク……ッ……!」


 高木は、唇を噛んだ。

 血の味がした。

 唇の皮が剥ける感触すら、もう遠く感じる。


(まただ……俺は、また……何も、救えなかった……)


 夫が消えた時も。

 柴田が空になった時も。

 サラリーマンが霧に消えた時も。

 そして今も。


 ただ、見ていただけだ。

 手が届かなかっただけだ。

 力が足りなかっただけだ。


 だから何だ。

 結果は同じだ。


 拳を握る。

 急いでバスの中へと戻る。

 そして、乗車口のドアを閉めた。


 無意味だと、わかっていた。

 側面の壁はすでに存在しない。

 ドアの向こう以外は、完全に外界と繋がっている。

 閉めたところで、何も、変わらない。


 それでも、閉めた。

 閉めずにはいられなかった。

 そうしなければ、自分の中の何かが、完全に終わってしまいそうだったから。


 高木は乗車口の前で、腰から崩れ落ちた。

 膝をつく力すら、もう残っていない。


 その耳に、おじいさんの声が届いた。


「わしが、守る……わしが──」


 声は震えていない。

 なのに足元は、今にも崩れそうにふらついている。

 それでも背筋だけを、懸命に、懸命に伸ばそうとしていた。


 ──この人は、どこからその気力を出しているのか。


 その時だった。

 割れた床板の隙間から、また白い手が伸びていた。


 まただ。


 奴らは必ず、弱いところに付け込んでくる。

 さっきの彼女も、そうだった。

 傷口を、こじ開けるように。


 ──させない!


 高木はよろめきながら立ち上がる。

 同時に、座席の下からも新たな手が現れた。

 おばあさんのスカートの裾を、濡れた冷気が撫でる。


「何か……冷たいものが……足首に……」


 おばあさんの声が、細く震えた。


 次の瞬間──おじいさんが、走った。


 バスの後方から消火器を抱え上げ、その底を、床から伸びた手に叩きつける。

 水分を含んだ骨が砕ける、ぐしゃりとした手応え。

 骨の破片と黒い水が、床にぴしゃりと跳ねた。


(俺も……俺もなんかしなきゃ……!)


 高木は立ち上がろうとする。

 だが、たどり着くより早く。


 床からまた別の白い腕が伸びて、おじいさんの肩を背後から掴んだ。


「ぐっ……!」

「おじいさん!?」


 おばあさんが叫ぶ。

 おじいさんは、振り返りもしなかった。


「下がってろ! 座席の上に上がれ! わしのことは──振り向くな……!」


 その言葉が、終わるより早かった。


 ルーンの刻まれた片手斧が、霧の中から一閃した。

 おじいさんの頭の、上顎から上が。

 まるごと。

 消えた。


「……え?」


 高木の口から、声にならない声が漏れた。


 胴体と、顎の下半分だけが残っている。

 断面から、黒に近い赤が、どぼどぼと溢れ出す。

 舌だけが、ぴくぴくと動いていた。

 口の中に残っていた言葉が、もう二度と形になれないまま、血と一緒にこぼれていく。


「ぎゃああああああああああ!」


 さすがの原田も、壁に背中を押しつけて悲鳴を上げた。

 だが。

 おじいさんの肉体は、まだ、動いていた。

 頭の上半分を失ったまま。

 それでも。

 おばあさんの肩を掴んで、自分のほうを見えないよう、固定し続けていた。


 もう死んでいるはずだ。

 脳はない。

 意識はない。

 なのに筋肉の最後の痙攣が、「庇う」という姿勢を、頑として崩さなかった。


(……この人は)


 高木の胸の奥で、何かが燃えかけた。

 そして同時に、何かが完全に砕けた。


「お、おじいさん……!? 一体、何が……?」


 おばあさんは、まだ気づいていない。

 夫がもう死んでいることに。

 ただ、体を揺すって、背中越しに呼び続けている。


 頭の上半分についていたはずの目。

 その眼球だけが、床の上でぐり、と変な方向を向いたまま止まっていた。


(終わらない……この地獄は、終わらないのか……)


 床板の隙間から、また白い手が伸びてきた。

 その手が、おじいさんの「壊れた頭」の残骸を掴み、静かに引きずり込んでいく。

 黒い水の中に沈む石ころみたいに。

 すうっと、消えた。


「おじいさん!? おじいさん、さっきから何なんです……!?」


 パニックになるおばあさんの頭の上に、おじいさんの断面から噴き上げた血が、ぽたぽたと落ちていた。


 雨みたいに。

 静かに。

 止まらなかった。


  ◆  ◆  ◆


 ──外。

『濃霧』の中、バスから約五メートル程の距離。


 まだ鈍い音が何度も響いている。


 金属バットの音。

 拳が骨を砕く音。

 竹刀が斧を弾く音。


 野津。

 今井。

 疋田。

 そして──龍雅。


 霧の中。

 バスの側面を背に、彼らはほとんど壁のようなドラウグルの群れと対峙していた。


 今井の竹刀が、ドラウグルの斧を弾いた。野津に届く寸前だった。


「前、見てて! 野津くん!」

「悪い!」


 野津は、考えるよりも先に拳を振るった。

 顎を砕き、喉を潰し、肩を折る。


 それでも動きを止めない屍鬼たちを、腕力だけで押し返し続ける。

 手首を掴む。

 万力みたいに締め上げて、へし折る。

 150キロの握力。

 皮膚の下で、骨がバラバラに砕ける感触。


 それでも、斧を離さない。


 折れた指でなお、柄に食らいつき、ルーン文字の光る斧を野津の頭に振り下ろさんとしている。


「……こいつら、痛覚ってもんがねえのか……」


 どう考えても、条件が悪すぎる。

 普通なら、とっくに詰んでいる。


 ――それでも。


 野津の耳には、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 高木の呼び声も。

 原田先生の必死の叫びも。


(──守らなければならないものが、俺には、あまりにも多すぎる。だから、倒れるわけにはいかない)


「野津くん!」


 今井が、背中越しに叫んだ。


「バスの中……もう、ギリギリ……!」

「わかってるっ!」


 野津は歯ぎしりしながら、素手でドラウグルの頭を兜ごとふっ飛ばした。

 指の皮が擦りむけ、自分の血とドラウグルの体液が混ざって、拳がぬるぬるする。


 ──構わない!

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