第88話-2 メドゥーサとペルセウス
第88話-2
その頃。
吉川りことぶつかったその青年は、立ち止まり、にこりと笑ってさきほど曲がった角を見つめていた。
そしてポケットから、手帳のようなものを取り出した。
青年は、その手帳を開いた。
そこには、りこの写真と名前。
制服の写真証明に書かれた住所、保護者の連絡先。
りこの生徒手帳だ。
「うん。吉川りこ。間違いない」
そして、踵を返す。
適当に町の中へと消えていく。
「海野美優の友達であり、北藤翔太のクラスメイト」
それは、八雲在斗。
国際魔術会議「八雲特別班」で、作戦を組む参謀部長だ。
八雲とりこがぶつかったのは、偶然ではない。
盗むためだ。
あの、ぶつかった瞬間。
りこの胸ポケットにあった生徒手帳を。
八雲はスッた──
「まずは――ここからですね」
八雲は微笑む。その横顔に罪悪感らしいものはない。
ただ仕事の手順を一つ消していく兵士の目だけがあった。
◆ ◆ ◆
その夜。
海に近い、湿った岩肌の洞窟で──
「レラージェさま。本当に、あの《・・》ベレスさまと、事を構えるおつもりなんです、か?」
鈴のような少女の声が、洞窟の奥へ落ちていく。
彼女は目を閉じたまま、濡れた髪を糸のように肩から胸元へ垂らし、白い肌だけをいやらしいほど浮かび上がらせていた。
「今さら、怖気付いたのか?」
返事は早い。だが、温度がない。
まるで“怖気”という感情そのものを、理解する必要がないと言わんばかりに。
緑色の甲冑をまとう六本腕が、その声の主だった。
甲冑は狩人を模し、獲物を狩ることだけを目的に設計された軍装。
彼は、人間の血肉と骨を圧し固めた玉座へ、当然のように背をゆだねている。
そう――この洞窟の主は、魔王レラージェ。
大悪魔アスタロトの兵であり、ソロモン72柱の戦闘神。
天使像とゴスロリ少女で、水城を恐怖に沈めた張本人だ。
「もう遅い。それに、ヤツはもう気づいているはずだ。魔界でも油断ならんヤツだからな」
そう言い切る声に、焦りは一切なかった。
それどころか、相手が“気づいている”という事実そのものを、織り込み済みの前提として扱っている。
レラージェの目は、笑っているように細められている。
だが、それは愉悦でも虚勢でもない。
ただ「想定どおりだ」と確認している目であり、そもそもが「糸目」だった。
口元には、かすかな笑み。
紫がかった白い髪は腰まで伸び、その一本一本が、彼が単なる地獄の侯爵ではなく、自らを“戦闘貴族”と定義している証でもある。
その髪そのものが、魔力と自負の象徴だった。
「でも、あのお方は、得体の知れぬ、不思議な方で、ございま、す」
「だからこそ、迎え撃つ準備は楽しいんだよ」
そこは祭壇でも会議室でもなく、戦の前に兵をそろえるための巣だった。
六本の腕はただ余計な飾りではない。同時に弓と刃と銃を扱うためのもの。
強者が当然のように強いという事実の象徴でもある。
「でもまだ私たちは、ベレスさまの、姿そのものは、まだ、見て、いません」
独特な区切り方の口調。
年ごろの少女の輪郭なのに、そこから立ちのぼるのは“けがされてからの色気”。
どこか甘い、どこか壊れた、触れたら戻れなくなるような香りをまとっている。
「いや、やすやすと、姿を見せるような間抜けではない」
レラージェはベレスを信用しているのかしてないのか、にんまりと笑った。
「ヤツの位は“王”だ」
その言葉には、皮肉も嘲りもなかった。
事実を、事実として認めているだけの声音だった。
「一方で私は、それより四つ下の“侯爵”。序列だけを見れば、上下は明白だ」
レラージェは、そこで一拍だけ間を置く。
「だが――私は戦闘神だ」
王であることと、戦場で生き残ることは、まったく別の価値だ。
そう言外に告げるように、彼は静かに続けた。
「闘いで負ける気はしない。王であろうとなかろうとな。
戦場では、称号も序列も、最後には意味を失う」
そして、まるで当然の結論のように言った。
「しかもヤツは、間違いなく666の獣を保護している。
サタンさまですら、まだ知らぬ“切り札”を抱えてな。
だからこそ、隠密に行動せざるを得ない。
王を倒すなら、正面から名乗りを上げる必要はないだろう?」
目を閉じた少女は白のドレスを身にまとっている。
そこにあしらわれたいくつもの薔薇の花が、その妖しさをさらに増している。
「信じます。レラージェさま。だって、あなたは、首しかなった私に、錬金術でホムンクルスの肉体を与えてくださったんですもの」
「その従順、利口だな。さすがギリシャの守護女神。処女神アテーナを嫉妬させた女よ」
「そんな私を。拾ってくださった、あなたさま、で、私は何をすればよろしいのでしょうか」
彼女は笑いながらも、指先で自分の首すじをなでた。
そこは一度、切り落とされた場所。
「ソロモン72柱の序列14番目の地獄の大侯爵。南斗六星……射手座に属する神話級の大魔王。単なるポセイドンさまに汚されし、あどけない少女にすぎなかった私を。一度は醜い怪物にされた私を。あなたさまは求めてくれた。元の姿に戻してくれた。私は、どんなことでも従います、わよ」
「急ぐな」
その名を呼ぶ前に、レラージェは一瞬、言葉を選んだ。
「……メドゥーサ」
レラージェは、この少女をメドゥーサと呼んだ。
まるで、伝説や神話を指す言葉ではなく、
手元の駒の名前を呼ぶかのようだった。
そう。この美少女は、メドゥーサだった。
ギリシア神話でも代表的な魔物。
見たものを石に変え、頭髪は無数の蛇。
ゴーゴン三姉妹の末娘で、宝石のように輝く目を持ち、その血は死者を蘇生もさせると言う。
だが、彼女は殺された。ギリシャの神の王・ゼウスの血を引く半神の英雄・ペルセウスによって。
首をはねられ、討たれたその頭部はペルセウスの盾となった。
レラージェは、その盾に目をつけた。盾からその頭部を引き抜き、ホムンクルスの技術を用いて肉体を与え、さらには、アテナの呪いからも解放した。
元の美しい少女の姿に戻ったメドゥーサ。
レラージェは、そのメドゥーサを元の力を持たせたまま、その配下としている。
「いずれにせよ、ベレスとの戦闘は避けては通れない」
そう言い切ったあとで、レラージェは、わずかに声の調子を落とした。
「だが――問題なのは、セイテンタイセイだ」
名を口にした瞬間、洞窟の空気が、ほんのわずかに張り詰める。
「あれは、魔王でも、神でもない。
魔界の序列にも、神界の系譜にも、きれいに収まらん」
六本の腕のうち一本が、無意識のうちに肘掛けを叩いた。
「力の格が読めない相手ほど、戦場では厄介なものはない。
強弱が分からないのではない。
戦い方そのものが想像できん」
レラージェは、低く笑った。
「仙術だの、聖魔だの……
魔界の理屈で説明できない時点で、すでに異物だ。
私が嫌う種類の存在だよ」
レラージェは言う。
「私は、知らぬ敵を侮らない。
理解できない力には、敬意ではなく――警戒を払う」
そう。阿修羅像事件。
その阿修羅像を操っていたのはセイテンタイセイで間違いがなかった。
魔物と神の中間の存在。
いわゆる「聖魔」。
レラージェが天使像で阿修羅像を崩壊させたのは、腕試し、様子見でもあった。
警戒。
戦争の神とも言われた魔王・レラージェであっても、セイテンタイセイという「仙術」とやらを操るその存在は、脅威であり、ベレス討伐の障害になり得る。
「でも、その為の、私とレラージェさまのパートナーシップで、あるんでしょ」
メドゥーサはレラージェの肩に腕をかけ、密着する。
そのまま首に抱きつくようにしてレラージェに甘えた。
アテナの呪いを受ける前。
ポセイドンからその処女の身を穢されるまでは、
彼女は、誰もがうらやむギリシャ神話でも有名な美少女だったのだ。
「私の力があれば、レラージェさまは、ご自身の能力を、さらに強力にすることができる……」
「そうだ。私とお前は二人で一つ」
レラージェは組んだ足の上に六本の腕のうち一つの肘を置き、頬杖とした。
「セイテンタイセイの目的……アレは、おそらく“666の獣”をこの世から消すことだ。我々が喉の底から欲しがっているその獲物を、だ」
「厄介でござい、ます、ね」
「ただでさえ、ベレス討伐には時間も準備もかかる。
地獄の三大実力者――アスタロトさまでさえ、正体を掴みきれない魔王。
しかも噂が本当なら、その力はアスタロトさま以上……あるいは……」
レラージェは沈黙する。
そんなレラージェにメドゥーサは、さらに身を寄せた。
「ですが、そのベレスさまを倒す為に、彼奴を魔物化、したんでしょう? レラージェさま」
そう。
このレラージェの玉座の背後には、ずっと巨大な男の影があった。
メドゥーサは、その者に、閉じたまぶたを向け、ぺろりと舌なめずりをする。
「お前もなかなかにいい性格をしているな。当時の清楚な美少女はどこにいったのだ」
レラージェは、メドゥーサをたしなめる。
同時に、指で背後の巨大な男に合図した。
玉座の背後の男が、ゆらりと、前に進み出る。
そして、レラージェの玉座の前でひざまづく。
「メドゥーサ、お前の首をはね、アルゴスの戦いで冥府に堕ちた英雄、その末路。これで満足か?」
その巨躯の男は深く頭を下げたままだ。
「アスタロトさまのお力により、復讐の女神エリニュースの魔力を借り、ようやく手に入れた。その英雄も今や、憎しみ以外の何物をも持たぬ、究極の“魔造”ホムンクルスだ」
その者の名は。
星座になるはずだった英雄。
神々に祝福され、物語の結末で天へ上げられるはずだった存在。
それが今は、
玉座の前で、声もなく、ひざまずいている。
「……なあ。ペルセウスよ」
メドゥーサの仇。
その首をはねたギリシャの英雄。
ペルセウスだった。
その肉体はアスタロトの手で貶され、いまは、復讐の女神エリニュースの力により、復讐だけを燃料とした動く“魔造”の器となっている。
その光景それ自体が、世界の冒涜。
神話への弓引きだった。
「街ひとつぐらいなら簡単に沈む、この英雄の力、しかと見せてもらおう」
闇ペルセウスは、じっとレラージェを見る。
喋ることが出来ないようバーサク化されている。
メドゥーサにとって、最も悪い敵。
それが、今、彼女の前でうやうやしくひざまづいている。
「アハハハハハハ。すっごく、とても、いい、気分で、す」
魔王レラージェの手の内には、闇ペルセウス、そしてメドゥーサ。
対するは、魔王ベレス。
そして、もう一つ、どのように動くか分からない聖魔・セイテンタイセイ。
「間違いなくベレスは“獣”を守っている。――それを奪う。
そしてアスタロトさまに捧げ、サタンさまには玉座を降りてもらう。666の獣を使ってな。
魔界に新たな秩序が生まれる。神界も撲滅させる。
メドゥーサ、ペルセウス。そろそろ働いてもらうぞ」
誰にも気づかれぬ場所にあるこの洞窟で、いよいよ魔の鐘が打ち鳴らされようとしていた。




