七色の鱗 20
「おい、裕太どうした」
「和馬……」
裕太は伏せていた顔をゆっくりと上げた。そこには和馬がニヒヒという笑みを浮かべて立っている。
「なんだよ、幽霊でも見たような顔をして」
「…いや、なんだか久しぶりな気がしたもんでな」
「なんだそりゃ。今朝も一緒に登校したじゃんか」
「そうだな」
「なんだ、おかしな夢でも見てたのかよ」
「…そうかもな。長い夢を見てたようだよ」
和馬はなんだそりゃと笑う。
裕太があたりを見渡せば、教室は放課後の喧騒に包まれていた。
「それにしても裕太が居眠りなんていつぶりだよ。しかも授業が終わったのにも気が付かないなんて」
「そうだな…」
「なんだ、もしかして徹夜で勉強でもしてたのか?」
「そんなわけあるか。そんなに勉強しなきゃならないなら潔くさぼって落第するさ」
「よく言うよ、俺なんかよりよっぽど成績いいくせに」
「そんなのはただの比較の問題さ。俺が頭いいってことじゃないさ」
「おいおい謙遜か?…というか、裕太の頭がよくないなら、その裕太の足元にも及ばない俺はなんなのさ」
「……」
「優しい目で俺を見るなよ!」
和馬は頭を抱えてうずくまった。ひどい、卑劣、人でなしなんて言葉がぼそぼそと漏れ聞こえてくる。
裕太はそんな和馬をため息交じりに見下ろす。出会ってからもう何年になるだろう、しかし今も昔も全く変わっていない。この分じゃこの先もこのままだろう。
「おい和馬、帰ろうぜ」
裕太はまだふてくされている和馬の背中に声をかける。
「ああ、そうだな帰るか」
和馬もまるでさっきまでの様子が芝居だったかのように立ち上がって、自席にカバンを取りに行く。
窓の外はうっすらと茜色に染まっていた。
「ほんとにいいよな裕太は頭がよくて」
「なんだよ唐突に」
帰り道で裕太と和馬は話していた。
「俺なんていくら勉強してもなかなか成績なんて上がらないのに…」
「それは俺だって同じさ。それでもあきらめずに勉強し続けたから今ここにいるのさ」
「そんな正論は聞き飽きたよ!」
和馬はがっくりと肩を落とす。
「はあ。俺が裕太に追いついて、そして追い越せるのはいつのことになるのだろうか」
「そう簡単には抜かされないさ」
「このまま勉強を続けてればいつかは」
「いや、俺だって勉強するからそれじゃあ差は縮まらないぞ」
「なんだよ!よし裕太今から一年間勉強するなよ。俺が追いつくまでそこで待ってろ」
「その調子じゃ一年で追いつくのは無理そうだな…」
「だから優しい目で俺を見るなし…」
もう何度目かわからない帰り道を、裕太と和馬は歩いた。
もう何度目かわからない話をしながら、二人は笑いあった。
「やっぱ裕太はすごいよな」
茜色の空の下で、和馬は唐突にそう切り出した。
「なんだよ藪から棒に」
裕太はきょとんとして答える。
「いや、裕太みたいな人間もやっぱり努力してそこにいるんだなって思って」
「何言ってんだ。そんなの当たり前だろ」
「そこだよ。当たり前のことを当たり前って言うのは簡単なことじゃない」
和馬は恥ずかしそうに笑った。
「俺から見れば裕太は天才さ。俺にわからないことを知っていて、俺が解けない問いに答えを出すことができる。俺の超えられない門を超えて、俺が歩けない道を踏みしめて、俺が見ることができない景色の中を進むんだ」
「そんな大げさな」
「いや、大げさなんかじゃないさ。でもそんな裕太も、俺から見れば雲の上にいるようにしか見えないお前でも、やっぱり俺と同じかそれ以上に苦しんで、俺が耐えきれなかった泥の中を這って進み、俺が飲めなかった臭くて苦い水を飲みほして、俺なんかよりいっぱい傷を負って、そしてその結果として俺より前にいるのさ」
「何が言いたいんだよ」
「なに、俺もお前も人間で、それもどうしようもないぐらい凡人だってことさ」
「なんだよ。それこそ当たり前だろ」
「そこそこ。それが凡人のお前にあって、凡人の俺にない強さなのさ」
裕太なんだか自分の顔が赤くなったような気がして、夕日のほうへ顔を向けた。
「ウサギと亀なんて話があっただろ」
「ああ」
「俺から見ればお前はウサギで、俺が亀だ」
「俺はウサギなんかじゃ…」
「まあ最後まで聞け。俺から見ればお前はウサギで、俺の十歩をただのひとっとびで超えていくように感じる。でもそれはたぶん間違いなんだ」
「…」
「俺が亀であるように、きっとお前も亀なのさ。それもきっと俺以上にのろまでしょうもない亀さ」
「おい」
「俺が十歩の道を行くように、お前も十歩の道を行く。ウサギは途中で居眠りをして亀に負けちまうけど、お前は亀だから足を止めることはない。それ以上に、俺がただ一瞬足を止めるその一瞬にも、お前は振り絞るようにして一歩を踏み出す。それは一瞬さ、でも一瞬だって百万遍も積もれば大きな差になる。俺とお前の間にあるのは、のろまな亀ともっとのろまな亀がただ一瞬をどう過ごしたかって差の結果なのさ」
裕太はハッとして和馬の顔を見る。
和馬は行く手に沈みゆく夕日をまっすぐに見つめていて、その顔色は茜色に塗りつぶされている。
「この世に百万の人間がいるとするなら、きっとそのうち九十九万九千九百九十九人までは俺らと同じように亀なのさ。小石だらけの道を這うようにして泥だらけになって進んでいくのさ。そしてその亀のうちでも、特別でも特殊でもないなんの変哲もない何匹かが、ほかの亀が休む間も惜しんで歩を進める。ただそれだけのことが、それだけの差を生むのさ」
「…和馬、お前なにを」
「だからきっとお前にうらやましいなんて言うことは俺にはできないのさ。俺が当たり前にできた、何の変哲もないことを、お前はやった。それは何も特別じゃなくて、ただお前が俺より一瞬長く耐えているというだけさ。そして俺がその一瞬を耐えられなかった。それだけなのさ」
二人はもうとうに和馬の家の前についていた。しかし彼らは際限のない道を歩むがごとく、足は止めても、歩みは緩めなかった。
「お前の努力を俺はあきらめた。お前の苦しみを俺は耐えられなかった。お前の傷を俺は知らない。そんな俺が、ただうらやましいうらやましいなんて連呼するのは間違ってる。そんなのはただ自分にないものをほしがるだけの駄々っ子と同じさ。それを手に入れる苦しみを、その道で受ける傷を、その人がなしたなんの変哲もないしかし膨大な努力を知らないで、ただただ持てる者を持てる者とひとくくりにするのは、きっと無責任なことなのさ」
立ち止まる裕太の前に、和馬は夕日を背に受けて立った。
茜色の光が和馬を覆い隠し、その表情や顔色はわからない。
「俺はそんな人間になりたくない。俺ができたはずのことをただなしただけの凡人を天才なんて言葉でくくりたくはない。ただそれだけのことができなかったと認められなくて、ただそれをなしただけと信じたくなくて、あいつは天才だからと言い訳をして逃げてその意味を踏みにじるような人間になりたくはない」
真っ黒な影が、裕太をまっすぐに見つめる。
「だから、俺はお前をうらやむことをやめる。持たざる者が持てるものを無責任にねたむのをやめる。そしてただ彼のなした努力を追いかけるのさ。いつしか肩を並べて苦しむことができるように。だから今の俺が今のお前にかけられる言葉はきっとただ一つ」
和馬はくるりと回って、裕太に背を向けた。
「裕太、きっと俺はお前を尊敬している。お前の努力は俺にはわからないけど、お前がそこに立つために受けた苦しみはわからないけど、俺はお前を尊敬する。そして待ってろよ。いつか、お前と肩を並べて愚痴を言い合ってやる」
その瞬間、夕日が一際強く輝いて、あたりを茜色に染め上げた。
そして裕太がくらんだ眼をやっと開けたとき。
裕太は布団の上で朝日を見ていた。




