ハシュは反省し、けれども吼える
「これって……これこそ想定外の事態っていうやつだよね……」
ハシュの額には嫌な汗がじわりと浮かぶ。
そのまま、むむ、と頬を膨らませて考えこみ、浮かぶ案など何もなくて両手で頭を抱えるようにしながらうつむいて目を閉じ、放り出されて閉ざされてしまった扉を背にずるずると座り込む。
数時間前にもおなじ体勢を経験したが、あのときはほんとうに事態が呑みこめず、意識も混乱しすぎて気を失ってしまったが、いまもおなじように意識が混乱しても、状況精査に気を取られているおかげで意識だけははっきりとしていた。
いったいこれは、どういうことだろう?
おかしい……。
何かがおかしい。
――相手が見つかれば簡単だと思えていたことが、こんなにも困難だなんて。
ハシュとしては、けっして事態を甘く見ていたわけではない。
誰もがその名を出せば逆らいようもなく怯えて、「来い」と言われれば「仰せのままに」と極刑台に向かう覚悟で従い、ハシュが突如として背負わされた重荷も受け取るしか他がないと……そういうふうに読んでいた。
だって、そうだろう。
誰があの七三黒縁眼鏡鬼畜の呼び出しを断れよう?
そう思っていたのに、まさか断る者がいるなんて!
――しかも、いい大人がこうと言いきった。
――自分は対象外の「クレイドル」だから、と!
そう言って自分は完全に蚊帳の外だと主張して、他の「クレイドル」を当たれと言って同名者を迷いなく売るメモまで作成して、ハシュのそれ以上の一切の接触を断絶した。
確かにそれは一面正しい防衛方法だろうが、ハシュに強いたってハシュも困る。
――これは、大人の大人げない逃げの作戦が上手なのか。
――それとも、ハシュの素直すぎる単純発想が大人には通用しないのか。
「むむむ……」
文官というのはこういう経験を積み重ねて、どこで相手に罠を仕掛けるのか。その算出がどんどんうまくなって狸となって化けていくのかもしれない。
自分もいずれはそんなふうになってしまうのだろうか?
ハシュは腕を組んで考えこみ、唐突に新たな心理に到達してしまうが、それはいまのハシュには手助けにもならない。
思わず手にしているメモを、くしゃり、と握ってしまう。
最初の「クレイドル」にはまんまと逃げられてしまったが、ハシュは大人の手口も同時に学べたので、今度は慎重に尋ねることにしようと心に決める。
何せ、ここ五月騎士団には奇跡的に十人近くも獲物がいるのだ。
このあとひとり、ふたりと狩りに失敗したところで全敗にはつながらないだろう。――たぶん。
「この時間帯だと、だいたいの人は夕食を取るから食堂に集中するよね」
時刻はいつの間にか業務終業時間。
日もすっかり落ちて、窓の外は夜色に染まっている。
暗いが、外では間隔よく灯りの燈籠があるので、見栄えとしてはどこか幻想的で奇麗なのかもしれない。
だが……ハシュは外の世界をなるべく見ないようにしながら考えをつづける。
一日の就労を終えた文官たちは家路や官舎を目指し、あるいは夕食を取るために各庁舎にある食堂を訪ねだしているころだから、人を探すのにもってこいなのは食堂だろうと目星をつける。
ハシュもさすがにお腹が空いたので、このあと親友のバティアが待つ十二月騎士団を訪ねる前に何かを食べておきたい。
各騎士団の庁舎などにある食堂はどれも家政従事者たち――料理人自慢の味が揃い、他の騎士団の武官や文官も気軽に訪ねて食べることができるし、トゥブアン皇国は夕食時にたくさん食べる習慣があるので、夕食時の食堂はそれこそ美味しさとにぎわいに包まれている。
業務、激務を終えたあとの夕食はさぞかし美味しいことだろう。
つまり、油断も多いということだ。
「そこで、クレイドルさんらしき人を物色するしかないか」
問題は今日、一気に片を付けるか。
それともようすを伺って狙いを定め、明日、ふたたび五月騎士団を訪ねてじっくり捕まえるのが得か。
――さて、どちらがハシュに利をもたらすだろう?
できることなら明日のほうが気焦りせずに済みそうだが、最初の「クレイドル」がうっかりハシュのことを十月騎士団の伝書鳩のひとりが四月騎士団団長の使い魔を兼任している――などと、あらぬ噂を広めでもしたら、ハシュは迂闊に五月騎士団を歩くことができなくなる。
ハシュには左目もとにあるほくろが容姿を表す特徴のひとつであるし、十月騎士団の軍装には伝書鳩の目印である特徴的な肩章を付けているので、噂が本格的になれば誰もが一発でハシュの正体を見抜いてしまえる。
これはかなり都合が悪い。
――となると、やっぱり狩りは今日が最適かな……?
どういうことか。
人探しのはずが、いつの間にか狩りという用語に変わってきている。
例えとしてはまちがってもいないが、そもそも自分は何者だったっけ……とハシュは自身の正体さえ前後不覚になってしまう。
「とりあえず、俺も食べに行こう。お腹空いたぁ」
まずは気を取り直そう。
そこから改めて考えようとハシュは思い、立ち上がる。
そのまま文官が籠城している部屋に背を向けて立ち去ってもよかったが、それではハシュの気もおさまらない。
ハシュは自分を締め出した扉に向かって「べぇ!」と舌を突き出してやった。
すると、気のせいかもしれないが……。
ハシュがようやくのことで扉から離れた気配を察して、息を潜めてこちらのようすを伺っていた文官が心底ほっとして、安堵の息を漏らしたような気がする。
――それが大人の……文官のやることかッ!
扉越しから伝わるそれにハシュは「もうッ」と苛立ち、
「どうしても誰も捉まらなかったら、あなたを捕まえに来ますからねッ」
最後の最後で思いきって叫んでしまい、ハシュは憤懣を爆発させるのだった。




