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オカ族の襲撃が遠い記憶になるほどに、キリスカチェには平穏なときが続いた。それゆえ、キヌアの中の不安もいつしか薄らいでいった。
それはキヌアがもうすぐ十七の誕生日を迎えようかという頃だった。
「今度、アコラが成人の儀式を受けるそうよ」
侍女仲間からそう聞いたティッカの心に一抹の不安が過ぎった。他の者ならまだ良いが、寄りにも寄ってアコラとは。キヌアが聞いたらさぞ悔しがることだろう。なぜかといえば、アコラはキヌアと時を同じくして生まれた娘だからだ。
本来なら庶民であるアコラの年齢は数えない。しかしたまたま王女キヌアと同じ誕生日だったために、誰もがアコラの年齢を知っていた。キヌア自身もアコラには似たものを感じていたらしい。
そのアコラが王女を差し置いて成人の儀式を受ける栄誉に与った。しかし当然といえば当然。この差はキヌア自身が招いた結果にほかならない。ティッカは心を鬼にしてこのことをキヌアにしっかりと伝えなくてはと思い直した。
キリスカチェの女性は、その年齢や身体の成熟具合で成人を迎える。儀式を受けるのは特に戦士として活躍する者に限られ、その対象を決めるのは、この部族で最高齢であり誰もが崇め奉る存在である大巫女である。これまでの成長具合や生活状況を鑑みて、さらに神のお告げを聞き取ってその者を決めるらしいが、大巫女の決定には例え女王であったとしても逆らうことは赦されない。そしてお告げがあれば速やかに儀式の準備をしなくてはならないのだ。
大巫女の裁断ではあるが、おおよその理由は他の者にも分かった。アコラは昨年結婚し、子どもを産んだ。そろそろ乳離れを終えるというこの時期に成人の儀式を受けることになったのだ。成人の儀式というのは、利き腕の方の乳房を切り取るのである。もちろんその後も子どもをもうけ、育てることはできるが、儀式のあとの初産は負担が大きいため、できれば第一子が乳離れをしたあとに行うのが望ましいのだ。
いつまで経っても結婚を渋っているキヌアに非があるのは明らかだ。しかし、この話がかえってキヌアの頑なな心をほぐすきっかけになるかもしれない。ティッカは逆にキヌアの気持ちが変わってくれることを期待した。しかし……。
「キヌアさま、このたび成人を迎えるのはアコラに決まったそうですよ」
ティッカにそう告げられても、キヌアは「そう」と短く答えてまったく気にならない様子だった。ティッカはキヌアが悔しがるのではないかと気遣ったことも、結婚を考え始めるきっかけになるのではと期待したことも、当てが外れてがっかりした。
何かを期待するのが馬鹿らしくなって、それ以上キヌアにアコラの話をするのは止めにした。
身体の一部を切り落とすという行為は、死と隣り合わせである。つまりは大人になるために命を賭けなければならないのである。これまでも、成人の儀式が執り行われるたびに、その悲痛な叫びや、傷が癒えるまで当人たちが悶え苦しむさまを目にしてきている。それと引き換えにしても大人の女戦士と認められることは、キリスカチェの娘たちにとっては大変な名誉だ。その儀式を終えた娘たちは、成人を迎える前の少女たちにとっては憧れの的なのだ。
いつか自然とその仲間入りをするのだと、キヌアやティッカも漠然と信じていた。しかし同年代のアコラにいち早くその幸運が巡ってきたとき、それは自然と通る道筋ではないことを改めて知らされたのだ。
儀式は夕刻になって行われた。大巫女が穢れを払って清めた仮小屋に、介添え役の巫女や親族が集まり、厳かに行われる。ただ、俄かに仕立てた薄い壁の小屋からは、中で何が行われているのかが分かるような物音が容赦なく響いてくる。部族の者たちは新しく成人の仲間いりをする少女の無事を祈る気持ちと、多少の好奇心から、その小屋の周囲に集まって様子を窺っていた。
祈祷のための煙がもくもくと小屋から立ち上っている。焚かれている香木も軽い幻覚作用があり、さらにもっと強力な麻酔作用を持つ薬湯を飲まされているであろうアコラは、小屋の中でぐっすりと眠っているだろう。
その晩は、中で立ち回る人の影が、窓や入り口に掛けられた布に静かに揺らめいているだけだった。
明け方になって、麻酔の切れたアコラの叫び声があがり、周囲で篝火を焚いて様子を見守っていた人々が一斉に目を覚ました。
キヌアやティッカもその声を聞いていたが、それは恐ろしいものではなく、アコラがいよいよ大人になるための試練を越えようとしているのだと思うと、ただ羨ましいばかりだった。
その日一日、アコラの苦しげな声が聞こえていたが、翌日には仮小屋は静まり返っていた。それからさらに三日を経て、いよいよアコラが大巫女に伴われて姿を現した。
まだ少し足もとはおぼつかないが、彼女の表情は大人になったことを誇るように輝いていた。真新しい鹿革の胸当てを付け、集う一族の者たちの前で、女王たちから授けられた斧を高々と掲げて見せた。
誇らしげな彼女の姿と、それを讃える部族の者たちの歓声は、キヌアの心に小さな変化をもたらした。これまでも何度も見てきた成人の儀式ではあるが、同じときに生まれたアコラの成人は、他人事とは思えなかった。
軍の先頭に立って多くの兵を率いていく有能な将であっても、成人できなければいつまでも半人前だ。アコラが成人できたということは、キヌアも十分成人できる年になったのだ。
ティッカに聞いたときはそれほど意識していなかったが、実際にアコラの姿を目にした途端、キヌアの中に焦りが生まれた。
多くの祝福を受けながら人々の前に進み出て、やがて彼女の夫からわが子を受け取ったアコラは一転、優しい母の顔になって腕の中の子を見つめている。
ティッカは無口になったキヌアの顔を見た。じっとアコラの姿を見つめたまま、キヌアはティッカに呼びかけた。
「私ももう少し将来のことを真剣に考えてみるわ。満月の宴で私の相手をしてくれる人はまだいるかしらね」
思わずティッカは噴き出しそうになった。あれほど勝手気儘を通してきたお姫様に、アコラの成人がこれほど功を奏するとは。ただ、早く成人したいという理由で結婚を考えるとは、あまりにも短絡的で幼稚な考えのようにも思えるが。しかし、キヌアの考え方が変わったことは歓迎すべきことだ。
「勿論、キヌアさまに相応しいお相手は、まだまだいらっしゃいます。私もキヌアさまに負けないように、素敵な方を自力で探さなくてはいけませんね」
そう言って笑うティッカに、キヌアは振り返って微笑みかけた。
まだ若いふたりは、そのとき漠然と幸せな未来を思い描いて、期待に胸を膨らませていた。思い描いた未来は、儚い夢に終わることを知らずに……。