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「おそらく、湖畔の地にて異変が起きているのでしょう。オカ族はこれまで湖の北岸にひっそりと暮らしてきた部族。農耕を主な生業とし、狩猟はあまり得意とはしません。複数の親族集団が寄り合っているとはいえ、すべての民を合わせても、人数はそれほど多くはありません。ゆえに他の大部族はこれまで、彼らを脅威として見る事も、僅かなその土地を奪おうとも思いませんでした。

 その彼らが一族を挙げてこの高原(プナ)にやってきた。しかも無謀にも我らの土地を奪おうと考えた。湖畔の勢力図に大きな変動があった証拠でしょう。弱小なオカでさえ、ここ(キリスカチェ)を奪おうと考えたのです。これから他の部族が次々と戦いを挑んでくることはおおいに予想されますな」


 どこも欠けることのない美しい形をした月は、眩しい白い光を盛んに降り注いでいる。キヌアは手を伸ばせば届きそうなほどに大きなその球体を見つめながら、ふとワスランの言葉を思い出した。

 オカ族を打破し、ひとつキリスカチェを脅威から護ったというのに、地平に消えた黒い影はそれ以上の脅威が自分たちを狙っているという警告を送ってきた。キヌアと同じくワスランも同じ影を目撃しており、キヌアにそう告げたのだ。

 他の地から流れてきた部族がたまたまここにやってきて衝突することは珍しいことではない。しかし、湖に存在する無数の部族の力関係に歪みが生じたのだとすれば、それはキリスカチェにとって死活問題となる。オカを制して意気揚々としているわけにはいかないのだ。


「果たしてあの美しい月をあと何度見ることができるのかしら……」


 キヌアが思わず呟いたとき、その胸に顔を埋めていた男が身を起こして怪訝な顔を向けた。


「今このときに、何を不吉なことをおっしゃいますか」


 キヌアがそれに答える間も与えずに、男は彼女の唇に吸い付く。そして両手でキヌアの頭を抱え彼女の唇をゆっくりと舐め回した。しばらくそうしてから唇を離した男は、キヌアの頭を両掌に挟んだまま彼女の瞳を間近に覗きこんだ。

 

「また戦のことを考えていたのでしょう。姫の頭にはそれしか無いのですか。せっかくの美しい顔も、そのうち人を喰らうことばかりを考えている飢えたピューマのようになってしまいますよ」


 またキヌアが言葉を発する暇を与えずに、男は再び唇を重ねてきた。男の言葉に少し不快な思いを持ちながらも、諦めてキヌアも目を閉じ男の愛撫に応じた。


 満月の夜、キリスカチェでは男女の交わりの宴が開かれる。男女が寄り集まって相手を決め身体を重ねるのだが、そこでお互いに相性が良ければ夫婦となることもあり、悪ければ一夜限りの関係で終わるのだ。


 戦に長け、他部族に侵されることが少ないとはいえ、キリスカチェ一族の人口は他に比べて圧倒的に少ない。

 男は勿論、女であっても戦に出ることが多いこの部族は、結婚しても伴侶を亡くすことが多いためだ。さらに子どもを産むことのできる年齢の女性の数も限られており、一族を存続させるためには、若いうちから多くの子どもを産む必要があり、伴侶を亡くしてもまだ子を産める年ならば、すぐに再婚させる必要があるのだ。

 そんな合理性から始まった慣習なのだろうが、若い男女にとっては心ときめく出会いの機会でもある。どの若者もこの日は戦闘用の毛皮や、普段使いの質素な麻織りの服ではなく、美しい光沢を持つなめらかな毛皮や、色鮮やかな刺繍が施された長めの服を着、顔に祭り用の化粧を施して宴に臨むのだ。


 月明かりに照らされた高原のあちらこちらで、甘い囁き声や、愉しげなさざめきが聴こえる。ときどきふざけ合ってけたたましい笑い声を上げる者もいる。

 庶民はこの晩になって初めて相手を選ぶので、自らを飾り立てたり気取ったりということに忙しいが、王族であるキヌアはその限りではない。その夜の相手もすでに女王によって決められていたのだ。女王軍の統帥である武将の息子で、彼自身も女王の親衛隊で活躍する戦士頭である。キヌアよりも少し年上に見えるその男は名をカシュカと言ったか。名さえもおぼろげに聞いていたくらいである。キヌアがこの宴に、はじめからさして興味がないことは明らかだ。


 まるで関心を持たないキヌアに代わって、ティッカが自分の支度も後回しにしてキヌアを飾り立てた。

 普段、固く編み込んでいるために絡み合っている髪は丁寧にほぐして広げ、癖のついた波打つ髪にところどころ、高原(プナ)に僅かに咲く小さな草花を挿した。キヌアには内緒で新調させた貴重なビクーニャの毛織の服は彼女の身体にぴったりと合った。鮮やかな色の織り模様が入った膝丈まである貫頭衣だ。満足したティッカは、草木や実の汁で服の柄に似た鮮やかな絵柄を、キヌアの顔にもともと施されているちいさな刺青に描き足した。

 ティッカが苦心して飾り立てたキヌアは、血と埃にまみれ、討ち取った敵の首を平然と掴むような獰猛な女戦士と同じ人物だとは思えない。そこにいるのは若々しさの中に僅かに妖艶さを漂わすような魅力的な女性だ。


 これまでも何度か母の決めた相手と『満月の見合い』をしたことはあったが、その誰にも興味は湧かなかった。だから結局相手を適当にあしらって勝手に帰ってきてしまったのだ。そのたびに女王からきつく言い聞かされた。「キリスカチェ一族のために、ましてや王家存続のために早く相手を見つけて丈夫な子を成さなければならないのですよ」と。

 その忠告も若い娘には耳の横にたかってくる虫の羽音のように耳障りなばかりだった。今回もただ、母にまた口うるさく言われるのが嫌で仕方なく男の相手をしているのだ。まるでときめきなど感じない。いや、これまで誰か異性にときめきを感じた記憶はない。如何に戦士として大成できるか。如何に一族を率いる長に相応しい者と成れるのか。常にそのことしか頭に無いのだから。男であれば、こんな面倒な役目を引き受けずに自分の腕を磨くことだけを考えていることが出来たのに……。


「姫、また心ここに在らずという顔ですね」


 折角着飾ったキヌアの服を剥ぎ取ろうとしていた不届きな男は、手を止めて再び彼女の瞳を覗きこみ、溜め息とともにそう呟いた。 


(まあ、あの方がお相手なんですか! 羨ましい)


 ふとティッカの声が脳裏に蘇ってキヌアは改めて男の姿を見つめた。

 艶やかに灼けた浅黒い顔に、鼻筋や頬骨の上に幾筋も入れられた鮮やかな色の刺青が映え、精悍な顔立ちを際立たせている。ティッカが羨ましがるとおり、整った顔をした男だ。それに若いうちから女王の近衛隊の戦士頭を任されているのだからそれなりに腕の立つ人物なのだろう。身分があるゆえに王家の親類となっても遜色はない。

 それでも矢張り、キヌアにはさほど魅力的には思えなかった。だからといって、カシュカに触れられることに抵抗は覚えない。要するに好感も嫌悪も、何も感じていないのである。

 一方、カシュカの方はキヌアに気に入られようと必死になっている様子がありありと見て取れる。彼女を気遣って、優しく優しくその身体に触れ、甘い声で慎重に囁きかける。

 心の中に不安が無ければその様子を愉しんでみるのも悪くはないだろうが、キヌアの心には得体の知れない不安が渦巻いていた。

 その不安を忘れるために、この夜と目の前の男に意識を向けることが必要なのかもしれない。そう思い至ったキヌアは細く長い溜め息を吐いて小さく首を振った。


 カシュカは、キヌアの溜め息が彼女の喜びの表現だと勘違いしたのだろうか。それを聞いた途端に彼女の身体を乱暴に抱きかかえ、地面に押し倒した。キヌアの両腕を押さえつけ、これまでとは豹変した殺気立ったような顔をキヌアの顔にぐっと近づけた。

 カシュカがキヌアを押さえ込んだとき、キヌアの表情もさっと変わった。冷酷な戦士の目が蘇る。少しはカシュカに心を沿わせてみようかと思った気持ちを、キヌアはその一瞬で消し去った。

 勢いよく膝を曲げると、被さっているカシュカの鳩尾(みぞおち)にそれをぐいっと喰い込ませた。その衝撃でカシュカは「うぐっ」と苦しそうに呻いた。同時に自分を押さえつけている腕が緩んだのを悟って、キヌアは自分の腕を引き抜き、逆にカシュカの二の腕を掴んだ。そのまま渾身の力で男の身体を反転させる。今度はカシュカの方が地面に仰向けに転がっていた。

 突然立場が逆転して動転しているカシュカの肩を左手で押さえつけ、首は右の肘下の腕で押さえ込んだ。男が両脚を動かそうとすれば、それも自分の両脚で挟み込んで押さえつける。

 キヌアに身体をぴったりと寄せられて、カシュカは腕も脚も上げることができず、完全に動きを封じられてしまった。

 唖然とするカシュカの顔にキヌアは顔を近づけると、静かに囁きかけた。


「すまないけれど、誰かに押さえ込まれることは我慢ならないの」


 優しげなその囁きが、かえってカシュカの背筋を寒くした。キヌアはカシュカににっこりと笑いかけるとゆっくりと身体を離し、横たわっているカシュカを残して部落の方へと戻っていった。


 


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