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それはキリスカチェの誰もが予想しなかったことだ。
フリカの王家はカリの身内だと思っているものも多かった。強い信頼関係で結ばれた相手を訪ねるのに、どうして軍隊など率いていけようか。
カリ王は上機嫌だった。自慢の息子たちと娘たちをフリカの者たちに見せ付けてやろうという意図が無かったとはいえない。フリカの王も、息子を共治者として立てることが叶い、充実していると思っていたのだ。
長年夫婦のように連れ添ってきたはずのふたつの部族。その信頼が揺らいでいることを知らなかったのは、常に上位にいたキリスカチェだけだったのかもしれない。
フリカは常に不満を抱いていたのだ。同盟とは名ばかりで、やはりカリの存在は絶対的なものだった。ふたつの部族が異なる意志をもったとき、結局従うのはフリカだったのだ。強者の驕りは、そういった不満分子を見極める目を曇らせた。
何もおかしなことは無かった。穏やかに祝宴は過ぎていった。
王家の居室に無粋な警護のものが入ることは赦されなかった。ごく一部の側近を除いて、王に付き従ってきた護衛たちは王の間の入り口に掛けられた帳の外で待機していた。
カリの側近の中で最も若いワスランと、その新妻は、今回はじめて他の部族にお披露目となるカリの末娘キヌアの警護を任されていた。
ここまでやってくるときも、かわいらしい姫の仕草に夫婦の目じりは下がりっぱなしだった。かわいらしいといっても、カリの血を引くだけあって活発で聡明だ。この姫は最もカリ王の血を濃く受け継いでいるのではないかと夫婦は思った。ワスランと同じく優秀な戦士である妻は、すっかりキヌア姫を気に入って、姫さまのような子がほしいわ、そして優秀な戦士に育てたいわとワスランに話した。ワスランも妻の意見に深く頷いた。
突然、帳の向こうからけたたましい音が響いた。食器が割れる音や、物が倒れる音に続いて、鋭い悲鳴が聞こえてきた。待機していた側近たちが中に踏み込むと、正面の上座には横たわるカリ王の姿があった。その胸に刃物を突き立てているのはフリカの老王。その脇にも瀕死のトゥラ、彼を襲ったのは、フリカの若王だった。その場にいたカリの家族はみな周囲で呻き苦しんでいた。宴でふるまわれた酒に毒が盛られていたのだ。
「おのれー!」
護衛たちはすぐさま王を襲ったフリカの王に飛び掛った。しかし、部屋には密かに宴の前から兵士たちが配備されていたのだ。フリカ王に手を掛ける前に、兵士たちが躍り出てきて立ち塞がった。
キリスカチェの護衛とフリカの兵士が戦っている間に、フリカ王はカリにとどめを刺した。狭い室内で混戦状態となり、最早誰がどこにいるのか、無事なのかを確かめることができない。キリスカチェのふたりの王、カリとトゥラが息絶えたことだけは確実だった。
ワスランは敵を相手にしながら必死でキヌアの姿を探していた。同じく彼の妻も注意深く辺りを見回すのだが、どこにも王女の姿がない。それぞれの敵をなぎ払って、いったん近づくとどちらからともなく言った。
「姫の姿がない!」
ふたりで探してもその姿がないといういうことは、この室内にはいないということだ。正面の入り口から出ていったのなら、その外で待機していた自分たちに分からないはずはない。意図的に誰かがこの部屋のどこかに隠したのか、抜け口を使って外へ連れ出したのか。
「ワスラン、二手に分かれて部屋の隅を探りましょう」
襲い掛かる敵をかわしながら、ふたたび分かれたふたりは、部屋の隅をくまなく探していった。
「チャナンさま! チャナンさま!」
第一王女チャナンの警護を担当していた兵士が声を上げていた。チャナンもやはり姿が見えないらしい。
そうしているうちに、さらに多くのフリカの戦士が入り口から部屋へとなだれこんできた。はじめから宴は偽装だった。カリ王の一家を、僅かな数の警護とともに一網打尽にするつもりだったのだ。
王族の警護を任されるほど選りすぐりの戦士たちであっても、この状況では敵に敵う筈がなかった。王は息絶え、王子は捕えられ、王女は連れ去られ、王妃もどうなっているのか分からない。
ワスランと妻はともかく、幼いキヌア姫を探すことだけに集中した。
偶然に、ワスランは上座の背後に小さな抜け穴があることに気づいた。抜け穴の手前に、キヌアが気に入って持ち歩いていた木彫りの人形が落ちていた。素早く妻に合図を送り、ふたりはその抜け道を辿った。すかさずふたりの行動に気づいた敵がそれを追ってきた。断崖の道を伝って、その頂上に辿り着いたとき、敵はすぐ背後に迫っていた。
「シルパ、敵は私が引き受ける。姫をさがせ」
すると妻はワスランの身体を押し戻して言った。
「姫は貴方が探すのよ! 探し出したら、姫を抱いてキリスカチェまで駆け、急を報せてちょうだい! 私の力では無理だわ。だから私がここで敵を迎え撃つ!」
「しかし!」
「さあ、行って! こういうときは、女の方が時間を稼げるのよ」
妻の言葉の意味を考えている間はなかった。敵は三人、最初に斧を合わせた敵を適当にあしらい、妻は流れるように身体を動かしてほかの二人にも斬りかかっていった。ここで時間を稼がなくては、後からさらに多くの敵が加勢にやってくるだろう。そうなれば、ふたりでも手に負えなくなる。妻を犠牲にして、出来るだけ早くキヌア姫を探し出さなくてはならなかった。後ろ髪を引かれながらも、ワスランは平原を走っていった。
キヌア姫は、そう遠くないところで気を失って倒れていた。誰に導かれてきたのか、辺りには誰もいなかった。素早く姫を抱き上げ、キリスカチェに向かって全力で駆けた。部落に帰り、すぐさま援軍を率いて戻ってきたとしても、もう妻が無事でいるということは考えられない。それでも万にひとつの望みがないわけではない。一刻でも早く、一刻でも早く! 焦りと不安で余計に呼吸が乱れる。ただ、腕に抱いた幼い姫の温もりと鼓動だけが、ワスランの支えだった。
ワスランが軍を率いてフリカの街に攻め入ったとき、すでに街はもぬけの殻だった。その街は、キリスカチェを陥れるために用意された擬似の街だったのだ。カリ王と息子たち、付き従っていた側近と召し使いたちの亡骸、そして、僅かな数ではあるが、巻き込まれたフリカ側の兵士の亡骸が転がっていた。
王妃とチャナン王女の姿は無く、キリスカチェ軍は廃墟を探し回った。果たして、手足を縛られ意識を失った王妃を王宮からそう離れていない小屋で、瀕死の状態のチャナン王女を街の門の近くで発見した。
フリカはふたりを奴隷として連れ去ろうとしたが、激しく抵抗したためにその場に置いていったのだろう。その腹いせに暴行を加えていったのだ。
それは積年の怨恨の深さを物語っていた。王を滅ぼすだけに留まらず、王妃と王女に恥辱を与えること。キリスカチェの者には、フリカのその恨みの根深さを想像することは決して出来ないのだ。そして、フリカの報復が新たにキリスカチェの怨恨を生むこととなった。
王妃と王女を救い出し、カリと息子たちと殉死した仲間の亡骸を回収し、最後にようやくワスランは妻を探しに行くことが出来た。妻はワスランと別れて敵と戦ったあの断崖の上で亡骸となって見つかった。身包み剝がされた憐れな姿を見て、ワスランは妻の最後の言葉の意味をようやく理解したのだ。
言葉も無く、キヌアはワスランの横顔を見ていた。彼の顔は土の塑像のように無表情で無機質だった。身体が震えているのは凍えたせいではない。その震えは心の奥底から響いてきた。衝撃を解き放つため、空を見上げて大きく息を吸い、そしてゆっくりとゆっくりと吐き出した。夜はもうすっかり明けて、朝日に照らされた金色の雲が日の光を導くようにゆっくりと流れていった。
「姫にはお話しするつもりはありませんでした。このようなことは知らずに、伸び伸びと育ち、そして怖れるものなどない戦士となっていただきたかった。しかし、姫の運命が一転し、さらにご自分の命を危険に晒してまで思い悩む様子を見ては、黙っているわけにはいかなくなった」
ワスランは、ようやく生気を取り戻したように、キヌアのほうを向いて語りかけた。
「姫、戦士を殺すもっとも強力な武器は何だと思われますか」
キヌアは首を大きく横に振って「わからないわ」と答えた。
「それは屈辱です。高い志と誇りを持っていれば、どのように威力のある武器であっても、それをかわす知恵と度胸は湧いて来る。しかし屈辱を与えられ、その誇りが踏みにじられたとき、脆い小石にさえ致命傷を与えられることがあるのです。本当に強い戦士とは、この屈辱を乗り越えた者なのです。ふたりの女王さまは、あのときの屈辱を乗り越え、キリスカチェを再興するまでに至りました。
姫は父君に似た強い信念を持っておられる。だからこそ、優秀な戦士となることができた。しかしその信念が向かっていた先を変えねばならなくなったことは姫にとって最大の屈辱。姫がこの屈辱を乗り越えたとき、貴女は最も強い意志を手に入れることができるのです」
キヌアは怪訝な顔でワスランを見た。
「では、貴方はなぜ未だに悪夢を見るの?」
ワスランはふっと笑いを浮かべ、空に視線を移した。
「つまり、私は未だ屈辱を乗り越えられない軟弱な戦士だということです」
「そんなことはないわ。貴方は誰よりも強い……」
「姫、空をご覧なさい」
突然言われてキヌアは素直に空を見上げた。先ほどまで金色だった雲が、冴えていく空の蒼を背景に、今は白く耀いて見えた。
「雲は、その色と形を常に変えます。黒く澱んだ色にもなれば、眩い白にもなり、ときに耀く金にもなれば、鮮やかな七色にもなる。そして空を一面に覆うこともあれば、散々にちぎれて小さな塊になり消えることもある。それでもその存在が無くなることはありません。雲は雲であり続ける。
真の強さとは、その姿形を柔軟に変えながらも、決してその本質は変えない。誰にも侵されないということなのです。
他者を排除することだけが戦いではない。他者の懐に飛び込んでその色を変えながらも、信念を守り続ける。それも戦いなのです。
姫、雲のように生き抜いていくのです。ながれる雲の如く、しなやかに、逞しく。そして本当の強さを持つ『戦士』となるのです」
そう言われても、そのときのキヌアにはすべてが納得できるわけではなかった。それでも自分を見限ったと思っていたワスランが、強く生き抜いてほしいと心から願ってくれていることは分かった。それだけでも、キヌアには大きな救いだ。
そのまま何も言わずに、空に連なる雲の群れを見つめていた。しばらくそうしたあと、気持ちが落ち着いてきたことを感じたキヌアは、身体に巻きつけた掛け布を押さえながらよろよろと立ち上がった。
「…………帰るわ」
瞬間、ふわっと足が掬われ、キヌアは天を向いていた。ワスランがキヌアの身体を抱き上げたのだ。
「この格好ではうまく歩けないでしょう。女王の館までお送りします」
「でも……」
キヌアの返事など聞かず、ワスランはキヌアを横抱きにしたまま丘を上り始めた。仕方なくキヌアは、揺れる身体を安定させるためにワスランの首に腕を回した。
ふと遠い記憶の断片が蘇ってきた。
あの日、同じように抱きかかえられながら、何も知らない少女は思っていた。
―― よかった。もう怖いことなどないわ。この人が父さまと母さまのところへ連れていってくれるのだわ! ――




