7、
空の紺碧を映し出す一面の水原。広大な美しい水面が丘の合間にその姿を覗かせている。高台にあるその土地からの眺めに圧倒されて、キヌアは素っ頓狂な声を上げた。横から乳母が小声でたしなめる。
「キヌアさま、これから王族の一員として大切な宴に列席するのですよ。そのようなはしたない声を出してはなりません」
「いちいん? れっせき?」
複雑な言葉ばかりを並べる乳母に、キヌアは首を傾げてしまい、結局彼女が何を言おうとしているのか分からなかったが、いつもは穏やかな乳母が、今日は精一杯神経を張り詰めている様子を感じ取って、ともかく言うとおりにおとなしくしていようと心に決めた。
父と母、年の離れたきょうだいたちとともに訪れた異部族の都は、遥かに湖を望む丘の上にあった。
キリスカチェとは昔から親しい間柄の部族で、その一族のふたりの王たちもキリスカチェをよく訪れているのだというのだが、キヌアはその王たちや異民族の姿を目にしたことなど無かった。ましてや異郷を訪れるのも初めてである。
何もかもが初めて識る世界であり、しかも、こんなに美しい場所は、夢でさえ見たことが無かった。乳母に言われたとおり、おかしな声を出すまいと必死に口を結んではいたが、美しいその風景も、良い香りのする柔らかい空気も、自分の部落とは赴きの異なる建物が建ち並ぶ様も、すべてが驚きで、キヌアは目を見開き、忙しく首を動かして辺りを見回していた。
キヌアが家族とともに他部族の地へ赴くなど、これまで無かったことである。
キヌアの父カリ、そして長兄のトゥラはともにキリスカチェ族を率いる王である。ふたりの王が家族として、しかもごく僅かな側近しか連れずに異郷を訪れるとは、よほど訪問先の部族に信頼を置いているのだ。
その証拠にカリ王とその家族は、招かれた王の館では上座へと案内された。上座にカリの家族が並んで座り、招いた部族の王たちが末席に近いところに居るのである。同じ王という立場でありながら、まるでカリ王の手下のようにへつらう様は、かえって異様に見えた。
相手方のふたりの王のうち、年配と思われる方の王が、カリとその家族に歓迎の挨拶をした。
「此度は、わが末息子が、亡くなった兄の代わりとして新しく王座に就くこととなりました。ここに盛大な宴を饗し、新王の前途を祝したいと存じております。この晴れがましい場に、カリ王、トゥラ王がお揃いでご列席くださるとは、なんという光栄でしょうか。王妃さまも、そして王子さま方、お姫さま方も、どうぞ心ゆくまでお愉しみください」
外ではすでに賑やかな音楽とともに、民衆の騒ぐ声が聞こえていた。キヌアたちがこの街にやってくる幾日も前から、すでにお祭りは始まっていたようだ。民衆たちが声を揃えて盛んに叫んでいる名は、どうやら新しい王の名らしい。彼らが讃えるその若王は、父からの紹介を受けて、さらに畏まった様子でカリとトゥラに深々と頭を下げていた。
それからすぐに、キヌアの前には見たこともない料理が運ばれてきた。
湖で獲れるという魚、肥沃な土地で育つ芋や豆、高原ではなかなか口にすることのできないご馳走ばかりだ。
彼女が食べ物に夢中になっている間に、大人たちはそれぞれ会話に華を咲かせている。はじめのうちは珍しいご馳走を夢中で食べていたものの、お腹も膨れてくると次第に退屈になってきた。
「ねえ、君」
突然横から声を掛けられ、驚いてその方を向くと、キヌアよりも少し年上に見える少年が立っていた。館に入ったとき、同じくらいの子どもが居たことなど気づかなかった。大人ばかりの退屈な席に、話し相手がいたことが分かって、キヌアは思わずホッとした。
「君はピューマの仔を見たことある?」
キヌアは激しく首を振った。何も知らないといえば、その少年が面白そうなことを教えてくれるような気がしたのだ。もちろん、猛獣の仔など目にしたことが無いのは本当のことだが。
少年はキヌアの横にしゃがみこむと、顔を近づけてきて耳打ちするように言った。内緒話というよりも、辺りが騒がしすぎてそうしないと聞こえなかったのだ。
「ぼくはピューマの巣穴があるところを知っているんだ。その巣に三頭の仔が生まれた。親が餌を探しに行っている間に、その仔たちを間近に見ることができるんだよ。行ってみない?」
キヌアはどきどきと鼓動が高鳴るのを感じた。
「見たいけれど、もしも親が帰ってきたら喰い殺されてしまうわよ」
「大丈夫だよ。ぼくは毎日あの巣を観察しているから、親ピューマが狩りに出掛ける時間をよく知っているんだ。一度出たらそう簡単には帰ってこない。昨日だってぼくは仔ピューマを間近に見てきたんだ。くうくうと鳴いて、とてもかわいいんだよ」
巧みな誘いに、キヌアの気持ちが大きく傾いた。
「でも、勝手にここを抜け出したら叱られるわ」
「ご覧よ。大人たちは自分たちの話に夢中だ。それにみな酔っていて、君のことなんてすっかり忘れている」
言われて見回すと、すっかり打ち解けた大人たちは酒に酔って上機嫌になって話したり笑い合ったりしている。母や姉は、相手の王妃や娘たちと夢中で歓談している。あれではぽつんとつまらなそうに座っている自分のことなど、しばらく誰も思い出しそうになかった。乳母や側近たちは部屋の外で待機しているので、中には居ない。
「そうね。ぜひ連れて行って」
キヌアが返事をし終わるか終わらないうちに、少年はキヌアの手を引いて立ち上がった。席の後ろに掛けられた垂れ布の後ろに回ると、その布の奥に小さな出入り口があった。その館がどのような構造になっているのか分からないが、番兵に厳重に護られている出入り口から入ったというのに、あっさりと外に出られたことが不思議でならなかった。
館の裏には人気は無かった。王の館は部落の最も端にあり、正面に街を見下ろす形で建っているのだ。背後に急峻な崖が迫っていて、特にそこを護らなくても誰も近づくことができないため、兵の姿も無い。
少年はキヌアを引き連れて、その崖づたいに歩いて行った。館からだいぶ離れたところに、細い道がつづら折になって崖の上へと続いていた。小さな子どもの足でようやく歩けるような道幅だ。キヌアの手を引いたまま、少年はゆっくりとそこを上っていった。
ときどき立ち止まり、キヌアのことを気遣って聞く。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫」
キヌアだからこそ怖いとは思わないが、女の子をこんな危険な場所に誘うなんて思いやりのないこと、とキヌアは心の中で毒づいた。
崖を上り切ると広大な草原が広がっていた。確かにこの草原を通って街へと入っていった。しかしそのときは、緩やかな道を大きく迂回して行ったので、これほどの高さの違いがあるとは思わなかった。
振り返るとあの碧い水面は、来た時に見たよりも遥かに大きく拡がって見えた。
「すごいわ!」
キヌアはその景観に、はしゃぐどころか言葉を失った。暫く見つめたあと、少年を振り返って言った。
「あなたの国はなんて素敵なところなの? わたしの国も素敵だと思ってきたけど、こんなにすごい景色はないわ」
しかし少年はキヌアの言葉に、ひとつも表情を変えないで言った。
「そうかい? ぼくにはこの景色がそう素敵だとは思えない。あの湖も争いの血で汚れている」
少年の言葉にキヌアの鼓動が高まる。それが先ほどの鼓動とは違うことに気が付いた。
少年はそれ以上何も言わずにキヌアに先立って歩き出した。キヌアもそれ以上何も彼に声を掛けることはできなくなり、ただ黙って彼のあとを付いていった。
しばらく行くと、大きな岩があり、その下の地面が少し窪んで空洞になっているのが見えた。
「あそこだよ。少し、ここで待っていて」
少年に言われてキヌアは立ち止まった。少年はまったく警戒せずにその穴へと近づいていく。どこからかピューマが襲ってくるのではないかと気が気ではない。握り締めた掌にじっとりと汗が滲んできた。
少年は穴の中へと潜り込み、しばらくするとまた姿を現した。それから岩の周りをゆっくりと一周すると、キヌアの元へと戻ってきた。
「ピューマの家族はどこかへ移動してしまったらしい。昨日までは居たのに、ぼくが仔どもに近づいたから、母親が人間の臭いに気づいて警戒したんだ。ごめんね」
少年はそう言いながら、巣穴に残っていたらしいふわふわとした毛玉を見せた。
ピューマの仔を見られなかったことよりも、警戒したピューマに襲われずに済んだことに、キヌアはホッとしていた。ただ退屈なあの場所から抜け出すきっかけが欲しかっただけなのに、反り立つような崖を上ったり、猛獣の気配に怯えたりしているうちに、すっかり疲れ果ててしまったのだ。すでに早く戻りたいと思っていた。
「残念だわ。早く戻りましょ」
そう言って少年よりも早く街のほうへと歩き出したキヌアの眼に、あの崖の向こうからもうもうと立ち上る黒煙が映った。風に乗って人々の悲鳴や怒号が聞こえてくる。
「大変よ! 街で何かが起こったんだわ!」
少年を振り返って叫ぶと、キヌアは駆け出そうとした。しかしその腕を少年が強く掴んだ。
「今、戻ってはいけないよ」
少年の言葉に、キヌアは耳を疑った。
「何を言ってるの! あなたの街が燃えているのよ! あなたの国の人々が叫んでいるのよ!」
必死に叫ぶキヌアとは対照的に、少年は不気味なほどに落ち着き払ってキヌアを掴む腕に力を入れる。
「君はあそこに行ってはいけない」
「なんでよ! 私のお父さまとお母さまもいるのよ! 離して!」
少年の腕を必死に振りほどき、キヌアは駆け出した。
その瞬間、キヌアは頭の後ろに強い衝撃を受けた。目の奥に閃光が走り、やがて辺りが真っ暗になった。朦朧とする意識の中に少年の声が響いてきた。
「君のためなんだよ……」




