8
「お父さま! お母さま!」
自分の叫び声でキヌアは意識を取り戻した。徐々に視界がはっきりとしてくると、目の前に心配そうに覗き込むワスランの顔が見えた。
慌てて身体を起こすと、素肌に掛けられていた二枚の毛皮が滑り落ちた。
「気づかれましたか」
ワスランが安心したように身を引いて微笑んだ。しばらく状況が掴めずにワスランの様子を見ていたキヌアだったが、滑り落ちた毛皮の下には何も纏っていないことに気づき、慌てて毛皮をたくし上げ、ワスランに背を向けた。
「幸いどれも急所は外れており、矢に仕掛けられていた毒も軽い幻覚を誘う程度のものだったようです。しかし三箇所もの傷を放っておけば大事に至ります。処置が間に合ったようで良かった。意識が戻ればもう大丈夫です」
『処置』と聞き、改めてキヌアは肩を見た。強くしごかれた化膿止めの薬草の葉が何枚も重ねて貼り付けられている。そっと剝がすと、葉の汁で緑色に染まった傷口は、ナイフで少し大きめに切り開かれ、その周りには強く吸い付いたような痣が残っていた。毒矢の刺さった箇所をワスランがナイフで開き、滲み出た血を吸い取ったのだ。
残る脇腹や太腿の傷にも同じように『処置』を施したのだろう。それらの箇所に鈍い痛みを感じたのと同時に、キヌアは急に気恥ずかしさを覚えて俯いた。
一刻を争う事態に、ワスランはキヌアの肌着を切り裂いてしまったのだろう。そのあとキヌアが冷えないようにと、キヌアの纏っていた毛皮の上に自分の纏っていた毛皮を脱いで重ねたのだ。辺りは日も暮れ急激に冷え込み始めたというのに、ワスランは薄い麻の肌着一枚で焚き火に当たっていた。
「ありがとう、ワスラン。これを……」
上に重ねられた毛皮をワスランに返そうと手を掛けると、その手をワスランが押し留めた。
「まだ身体を温めて安静にしておかなければなりません。私のことはお気になさらずに」
笑顔でありながらも強い口調のワスランに、キヌアは黙って従うしかなかった。もう一度、二枚の毛皮をしっかりと体に巻きつけると、ゆっくり身体を横たえた。夜露が降り始めた地面からは、厚い毛皮を巻きつけていても、容赦なく冷気が伝わってくる。思わずキヌアは身震いした。横に座るワスランを見上げると、彼は焚き火の方を向いたまま、キヌアに語りかけてきた。
「ティッカに、キヌアさまは毒を射掛けられて動けない状態であることを女王さまに伝えるように申し付けておきました。私が付き添っているので心配はいらないと付け加えておきましたので。このまま一晩お休みになれば明日には部落へ戻れるくらいに回復するでしょう」
「私の毒を吸って、貴方は大丈夫なの?」
「ここ幾日か、夜になると激しいスコールがありました。お蔭で高原にいくつも小さな池が出来ていたのです。その水で姫の傷口を洗い流し、自分の口も漱ぐことができました。多少舌に痺れが残っていますが」
最後の言葉はキヌアを安心させようとして言った冗談らしい。彼はキヌアを見下ろして舌をちらっと見せると笑った。
「今晩はスコールがやってこないといいけれど。焚き火が消えて貴方が凍えてしまうわ」
「大丈夫。この風向きと雲の流れでは、今宵の天気は安定しているでしょう」
見上げるワスランの視線を追って、キヌアも横になったまま空を見上げた。もうすっかりと夜の闇に包まれた空に、それでも白く映えている雲がゆっくり流れていく。雲の切れ間からは満天の星空が覗いていた。
しばらく黙って雲の流れを見つめていたキヌアは、先ほどの『夢』のことを思い出してワスランに語りかけた。
「私……、思い出したのよ。あのフリカの大将が誰なのかを……。あの日、私を騙してフリカの都から連れ出し草原に放置した、フリカの王子。彼はフリカの陰謀を知っていて、私が巻き込まれないようにしたつもりだったんだわ」
ワスランが驚いたような顔でキヌアを見下ろした。キヌアはワスランに視線を合わせると無理に笑顔を作って見せた。
「きっと恐怖のあまり自分の記憶を封印してしまったのね。あの王子が射掛けさせた毒が私の記憶を蘇らせるなんて、皮肉だわ」
これまでキヌアは、父と兄たちが殺された日のことをほとんど覚えていなかった。キヌアの記憶は、フリカの都の外れの草原で倒れていたところをワスランに助けられた時点からしか、はっきりとしていなかったのだ。ワスランは、キヌアの記憶が無いことは不幸中の幸いだと思っていた。あの様に残酷な場面を幼い少女が目の当たりにし、その記憶に焼き付いてしまったとしたら、おそらく気が狂うか、常に何かに怯えるようになってしまったかもしれない。記憶を封印したからこそ、いまのキヌアがあるのだ。その封印が解け、キヌアが突然辛い過去に向き合うことになったとき、果たしてキヌアは耐え切れるのだろうか。ワスランはそのことをひどく心配した。
しかし、キヌアは割りと平然としている。それよりも、気掛かりだったフリカの大将の正体が分かったことで満足しているようだ。
確かにフリカの都で起こったことを、キヌア自身は見ていないのだ。フリカの王子が企てた作戦は実際、キヌアを救ったということなのだろうか。
「なるほど。その彼が成長してフリカを再興したのかもしれません。
しかし、それではあの同盟者たちはフリカとどういう繋がりがあるのでしょうか。過去キリスカチェが彼らを瓦解させたことに対する復讐ならば、フリカ族の者だけで挑んでくれば良い。それに、単にフリカ族の復讐の為に、あれだけ多くの部族が協力するなど考えられません。そして……」
「……私に毒矢を放ったあの一族のことでしょう?」
キヌアにとっても、謎の一族が何故フリカの王子と手を組んだのかが大きな疑問であった。あのときキヌアを狙った一団は、数は少ないものの、よく訓練された組織だった。そして身に纏った装束は非常に質の高いものであることが分かった。フリカの様な弱小の、然も一度崩壊したも同然の部族の者が率いることの出来るような者たちではない。あるいは、王子の方が率いられていたということなのか。
「私の憶測ではありますが、あの者たちは湖岸一の大部族、コヤではないかと……」
「コヤですって? コヤがフリカと手を結んだというの? そしてキリスカチェを狙っているというの?」
「今のところ、はっきりとした証拠はありませんが、あれだけの貫禄のある部族はそうそうおりません。湖岸の部族の中ではコヤまたはルパカという二大国家が思い当たる。フリカに近いとなれば、おそらくコヤではないかと思うのです」
「もしも、その憶測が正しければ、この後、私たちがどのように戦ったとしても勝ち目はないわ」
キヌアは傷の後遺症だけはない激しい悪寒を感じ、毛皮をかき抱いてできるだけ小さく背中を丸めた。
「この戦いで、地の女王軍は多くの捕虜を連れ帰りました。彼らの証言で事の次第は明らかになるでしょう。余計な憶測は神経をすり減らすばかりです。もう止しましょう。
姫はご自分の傷を癒すことが第一です。兎も角、今宵はゆっくりとお休みください」
そう言ってワスランはキヌアが無造作に身体に巻きつけた毛皮を丁寧に整え、眠りなさいと言う様にその背中をとんとんと叩いた。
キヌアにフリカの王子の記憶が蘇ったとき、同時に鮮明になった記憶があった。草原で意識を失っていた自分を助け起こした父王の若き側近の顔だ。動物の仔が生まれて初めて見た親を慕うように、彼女はその後何かとその側近の後を付いて回った。おそらく封印された記憶が衝撃的なものだということだけは自覚しており、そうしていないと不安に押し潰されてしまうことを潜在的に悟っていたのだろう。
成長するにつれ、その側近を慕う理由が微妙に変わっていったことを、キヌアはどこかで感じ取っていた。
目を閉じていると、何故か父王の肩車から眺めたキヌアの紫の畑の光景が蘇ってきた。風になびく穂の群れをぐるりと見渡し、足の間からこちらを見上げる父の顔に視線を転じる。今まで靄が掛かっているように曖昧だったその顔が、そのときはっきりとキヌアの目に映った。
それは父カリではなく、幼い自分を救い出した側近の顔だった。
「ワスラン」
眠ったと思っていたキヌアの声にワスランは驚いたのか、一瞬の間を置いて返事をした。
「何でしょうか」
「私はよく貴方をいつまでも独り身だとからかうことがあるけれど、貴方には恋人や妻はいなかったの?」
自分のことはほとんど話さないワスランに、これは随分と意地悪な質問だと、キヌアは言ってしまってから思った。しかし、彼女の予想は外れ、ワスランはキヌアの問いにすんなりと答えた。
「おりましたよ。妻が。わたしたち夫婦はともにカリさまをお支えする側近でした」
これまで何年も傍に居ながら、キヌアには初めて知る事実だった。
「彼女はどうしたの?」
一度知ってしまえば、気になることはすべて知ってしまいたい。ワスランには酷な話なのではないかと思いつつ、キヌアは質問を止めることができなかった。
「妻は……」
ワスランはいったん言葉を切って考え込んだあと、その続きを話し始めた。
「姫をお救いしたあの日、フリカの手に掛かって命を落としました」
キヌアは思わず起き上がってワスランに詰め寄った。
「それなら、フリカは貴方にとっても憎き仇じゃないの!」
「戦はすべて仇をつくるものです。勝った者は負けた者の仇となります。仇を討つこと考えるよりも、亡くなった者の意志を守って生き抜くことが大事なのです。
姫をお守りし、カリ王の後継として立派にお育てすることは妻の願いでもあったのです。だから私は自らが進んで戦地に立つより、姫を戦士としてお育てし、成長した暁には貴女さまの補佐として戦地に赴くことを選んだのです」
ワスランの答えはキヌアが考えていたよりもずっと重く、キヌアの心にのしかかってきた。彼がキヌアの側に居る理由は、キヌアにとって屈辱としかいい様がない。そう感じてしまう自分がまた腹立たしくもあった。
そう、キヌアは、自分の憧れる父の姿がいつの間にかこの側近の姿とすり替わっていたことに、そのとき初めて気づいたのだ。そしてそれが淡い恋心であることにも。
キヌアは泣きたい気持ちを必死で抑え、そのままふたたび身体を横たえてワスランに背を向けた。
遥か遠くから獣の遠吠えが聞こえてきた。




