燃えさし
戦後十七年目の秋。
旧仙京外縁第三哨所。
メビウス・テクノロジーズ管轄指揮所で、ルヴィン少佐は、映らなくなった地図を見ていた。
壁の投影板に浮かんでいるはずの周辺地図は、三日前から、砂嵐のようなノイズに覆われたままだった。
衛星の位置情報も、偵察ドローンの映像も、測距の信号も、全部が同じノイズに呑まれている。
「今朝も、だめです」
通信卓の前で、若い警備員が首を振った。
「磁場が、昨日より強くなってます。外縁の北側は、もう測距が一メートル単位で狂ってます」
「ドローンは」
「二機飛ばして、二機とも戻りませんでした。北の旧市街の上空で、信号が途切れて」
ルヴィンは、投影板のノイズを、もう一度見た。
戦後、線が引かれてから十七年。
この旧仙京外縁は、線の内側ぎりぎりに残された、大戦前からの古い下町だった。狭い路地、低い家並み、古い鉄骨の市場。千人ほどの住人が、線の向こうの戦闘区を背にして、今も暮らしている。
その外縁の北側から、磁場が、少しずつ這い寄ってきていた。
「……二十年前の地図を持ってこい」
「は?」
「紙の地図だ。倉庫の奥に、大戦期の旧陸軍の測量図がある。磁場に狂わない地図は、それしかない」
警備員は、一瞬だけ戸惑った顔をして、それから倉庫へ走っていった。
ルヴィンは、指揮所の窓から外を見た。
朝靄の向こうに、旧仙京外縁の屋根が連なっている。その北の端、線の向こうの戦闘区との境目で、空気がかすかに揺らいでいた。陽炎のように。
見えない何かが、地図を食っていた。
*
戦争が終わったとき、ルヴィンは軍に残らなかった。
電子統合陸軍は解体され、正規軍は縮小された。
前線を知る士官たちの多くは、行き場を失った。
ある者は企業連の重役になり、ある者は民間軍事会社に移り、ある者は何もせずに街へ消えた。
ルヴィン少佐は、メビウス・テックの警備部門に籍を置いた。
誘ったのは、旧陸軍で同じ釜の飯を食った蘇芳だった。
「線の内側を守る仕事だ。お前向きだろう、ルヴィ」
戦後五年目のことだった。
それから十二年、ルヴィンは境界区の線の上の哨所を転々とし、三年前から、この旧仙京外縁第三哨所の所長を務めている。
部下は人間の警備員が二十名と、旧式の警備機が十機。それと、哨所付きの技術者が一人。
「少佐、地図、見つかったって?」
指揮所の扉が開き、工具袋を肩にかけた女が入ってきた。
煤で汚れた作業着。短く切った髪。口元には、いつも何か面白がっているような笑み。
チルダ。
旧陸軍の工兵隊の出身で、戦後は哨所付きの技術者として、ルヴィンの下で設備の面倒を見ている。
大戦の頃、二人は兵器運用の割符の片割れだった。
「見つかった。測量の年式は古いが、地形は変わっていない」
「建物は変わってるけどね。二十年で、境界区もずいぶん建て増ししたし」
チルダは、机の上に広げられた紙の測量図を覗き込んだ。
黄ばんだ紙に、手描きの等高線と、路地の線。端には、旧陸軍の第七機動群の印。
「……これ、あたしたちの頃の図だ」
「そうだ」
「懐かしい」チルダは、図の上の一点を指でなぞった。
「ここ、第七の補給路。あたしが橋を架けた場所」
「三時間でな」
「配線まで入れたら七時間」
二人は、少しだけ笑った。
それから、チルダは笑みを消した。
「少佐。磁場のこと」
「ああ」
「北の旧市場の鉄骨、赤錆が一週間で倍になってる。生の辰砂が、線の外から地面伝いに染み込んできてる。……測距が狂うのは、そのせい。鉄が、みんな、少しずつ磁石になってる」
「止められるか」
「止めるには、外縁の北側の鉄を、全部抜かなきゃいけない。家も、市場も、配管も」
チルダは首を振った。
「無理だよ。千人以上住んでるんだから」
ルヴィンは、黙って測量図を見ていた。
「……メビウス本社には、報告した」
「蘇芳さんは、なんて」
「住人の移転計画を、上に掛け合っていると。だが、予算がつくのは、早くて来年の春だそうだ」
チルダは、窓の外の、北の揺らぎを見た。
「春まで、もつかな」
「もたせる。それが、この哨所の仕事だ」
*
その夜、ルヴィンは一人で、哨所の地下倉庫に降りた。
倉庫の一番奥、床板の下に、鍵のかかった鉄の箱がある。中に入っているのは、油紙に包まれた、いくつかの部品。
【嵐の招き手】
大戦の終わりに、返納されるはずだった大砲搭載用の追加部品。
返納の命令を出すはずだった上位は、停戦の混乱の中で消えた。
命令の届かないまま、ルヴィンとチルダは、それを手元に残した。使うためではない。誰の手にも渡さないために。
戦後十七年、二人はそれを、哨所から哨所へ、配置換えのたびに黙って持ち運んできた。
ルヴィンは箱に手を当てた。
とん、とん。
二回、叩いた。承認手順の前の、昔からの癖だった。
「……まだ、役目は終わっていないか」
箱は、何も答えなかった。
*
地図が消えてから、六日目。
磁場は、外縁の北側から、少しずつ南へ広がっていた。
哨所の警備機は、十機のうち四機が、制御系の不調で動かなくなった。
残る六機も、巡回のたびに経路を外れ、壁にぶつかってから引き返してくる。
通信は、無線が半分しか届かない。本社との連絡は、大戦期に敷かれた古い有線の電話線だけが頼りだった。
指揮所の古い電話機が鳴った。
ルヴィンは、受話器を取った。
『ルヴィ。私だ』
蘇芳の声だった。有線の雑音の向こうで、少しかすれている。
「蘇芳中将」
『その呼び方はやめろ。今ではメビウスの部長だ』
「失礼しました、部長」
蘇芳は、雑音の向こうで、短く息を吐いた。
『……移転の予算、前倒しで企業連合から引き出した。企業連は辰砂第一主義だが、人の命にも多少は敏感でな。来月には、第一陣の住人を線の内側の仮設住宅へ移せる』
「助かります」
『それと、悪い知らせだ。北の戦闘区で、残党の動きが活発になっている。偵察ドローンは磁場で全滅だが、境界の監視塔から、夜間の熱源が増えているのが見えるそうだ』
「数は」
『分からん。磁場で、何も測れん』
ルヴィンは、窓の外の、北の揺らぎを見た。
「……残党は、磁場に慣れています。二十年あの中で、戦闘区を通る輸送品を奪いながら暮らしてきた連中です。こちらの地図が使えないことも、知っているでしょう」
『襲ってくると思うか』
「来ます」ルヴィンは即答した。
「地図のない夜に、地図を持っている側が攻める。大戦の頃、私たちがそうしました」
電話の向こうで、蘇芳はしばらく黙っていた。
『……援軍を出す。だが、磁場の中に、普通の警備機は送れん。人間の部隊を集めるのに、四日かかる』
「四日」
『もたせられるか』
「もたせます」
『ルヴィ』
「はい」
『無茶はするなよ。お前はもう、少佐じゃない。哨所の所長だ』
ルヴィンは、少しだけ口元を緩めた。
「部下はみな、私を少佐と呼びます。直させようとしたのですが、直りません」
『……そうか。私と同じだな』
蘇芳の声が、少しだけ柔らかくなった。
『四日だ。四日後に、私が行く』
電話が切れた。
ルヴィンは、哨所の全員を指揮所に集めた。
人間の警備員が数十名。メビウスが寄越した自律アンドロイド数機。
そしてチルダ。
「地図は使えない。無線も、あてにならない。警備機は、半分が動かない」
警備員たちの顔が、強張った。
若い者が多い。戦後に生まれた世代。大戦を知らない者たち。
「だから、大戦の頃のやり方でやる」
ルヴィンは、机の上に、黄ばんだ紙の測量図を広げた。
「各班に、この図の写しを配る。紙の地図だ。磁場には狂わない。それと、外縁の路地を、今夜のうちに全員の足で歩いておけ。角の数を数えろ。坂の向きを覚えろ。どの家の軒が低いかを、身体で覚えろ。目を閉じても歩けるくらいになれ」
「……目を閉じても、ですか」
「地図が消えた夜に、頼れるのは足の記憶だけだ」
チルダが、壁に寄りかかったまま、小さく笑った。
「少佐の昔の口癖」
「口癖ではない。経験だ」
*
地図が消えてから、八日目の夜。
残党は、来た。
最初の兆候は、音だった。
北の旧市場の方角から、からから、と金属が擦れ合う低い音が、断続的に響いてきた。磁化した鉄骨が、何かの重みに軋む音。
「熱源、多数」監視塔の警備員が、有線の伝令管越しに叫んだ。
「北の旧市場から、南へ! 数、数えられません! 磁場で、計器が!」
「目で数えろ」ルヴィンは言った。「計器は捨てろっ」
「目視……二十、いや、三十! 旧式の自律歩行機が、旧市場の鉄骨の陰から出てきます!」
「いったい、どこから拾ってきたのだ」
ルヴィンは、指揮所の窓から北を見た。
暗がりの中、旧市場の錆びた鉄骨の間を、いくつもの影が動いていた。
自律歩行機。その後ろに、もっと大きな、装軌式の影が二つ。
磁場の中で、影の輪郭がかすかに揺らいでいた。
電子反応は、何も拾えない。磁場が、残党の信号をすべて覆い隠していた。
「……磁場ごと、隠れて来たか」
「所長、どうします」
ルヴィンは、紙の測量図を広げた。指を、北の旧市場から南へ、ゆっくりと滑らせる。
「旧市場から哨所までの道は、三本しかない。大通り、東の坂、西の水路沿い。装軌式の重い機体は、大通りしか通れない。東の坂は、二十年前に陸軍部隊が爆破した跡で、今も段差が残っている。西の水路は、狭すぎる」
「じゃあ、大通りに全員を」
「違う」ルヴィンは首を振った。
「大通りは、相手も分かっている。あれは陽動だ。本命は、歩行機を東の坂の段差の脇から回してくる。二十年前、私が同じことをした」
警備員が、息を呑んだ。
「第一班、東の坂の上。段差の脇の、瓦礫の陰に伏せろ。第二班は大通りで、音だけ立てろ。撃つふりをしろ。第三班は、住人の避難誘導だ」
「避難は、どこへ」
ルヴィンは、測量図の一点を指した。哨所の地下から南へ延びる、細い線。
「哨所の地下の、旧陸軍の排水路だ。線の内側の、第四検問所まで繋がっている。検問所まで行けば、残党は手出しできん」
チルダが、測量図を覗き込んだ。
「……あたしたちの頃の排水路」
「そうだ。地上の道は、全部、磁場の中だ。だが地下は、二十年前の石積みのままだ。鉄が少ない。磁場が、まだ届いていない」
戦闘は、ルヴィンの読み通りに進んだ。
大通りの第二班が音を立てると、残党の装軌式は、そちらへ重い車体を向けた。
その間に、自律歩行機の群れが、東の坂の段差の脇へ回り込んでくる。
段差の上の瓦礫の陰で、第一班が待っていた。
「撃て」
二十年前の段差は、今も残党の歩行機の脚を止めた。
段差を越えようと体勢を崩した機体を、上から一機ずつ撃ち抜いていく。
磁場で計器が使えない中、警備員たちは、昨夜足で覚えた路地の角を頼りに、位置を変えながら撃ち続けた。
「……当たってる」若い警備員が、震える声で言った。「地図、ないのに」
「地図は、お前の足の中にある」ルヴィンは、伝令管越しに言った。「次、三つ右の角へ。軒の低い家の陰だ」
一時間後。
東の坂の歩行機は、半数が沈黙していた。大通りの装軌式も、第二班の陽動に足を取られ、前に進めずにいる。
だが、残党は、引かなかった。
「少佐」伝令管から、監視塔の声。
「北の旧市場から、もう一つ、大きな影が。……装軌式の、さらに奥。車体の上に、何か、筒のようなものを載せています」
ルヴィンの手が、止まった。
「形を言え」
「太い筒です。表面に、溝のような……赤く、光ってます。脈打つみたいに」
指揮所の空気が、凍りついた。
チルダが、ルヴィンを見た。
「……少佐」
「ああ――」
辰砂過負荷型。
撃てば、周辺一帯を焼き払い、母機ごと自壊する、使い捨ての最終兵器。
大戦の撤退戦で、殿が最後に使うもの。
残党は、それを、この哨所に向けて運んできていた。
「なぜ、ここに」チルダが、低い声で言った。
「こんな小さな哨所に、あんな最終兵器を」
ルヴィンは、答えなかった。
答えは、二人とも分かっていた。
残党は、二十年、戦闘区の中で戦争を続けてきた。
その中で、失われたレリックの所在を、彼らなりに探し続けてきたはずだ。
返納されなかった追加パーツ。行方の分からない一基。
地下倉庫の床板の下の、鉄の箱。
「……嗅ぎつけられたのか」
「たぶん」チルダは、唇を噛んだ。
「磁場で地図が消えたのと、同じ頃に動き出してる。偶然じゃない。磁場が、ここまで届くのを待ってたんだ。こっちの目を潰してから、取りに来た」
「奴らの物ではない」
「でも、あの過負荷型。撃たれたら、哨所ごと焼ける。箱ごと」
ルヴィンは、しばらく黙っていた。
それから、顔を上げた。
「チルダ。箱を開けろ」
チルダの目が、見開かれた。
「……開けて、どうするの」
「バラせ。全部、ばらばらの部品にしろ。一つ一つは、ただの旧式のジャンクにしか見えないように。それを、避難する住人の荷物に紛れ込ませろ」
「住人の、荷物に」
「排水路を抜けて、線の内側へ運ばせる。誰も、それが何かを知らないまま。……木を隠すなら、森だ」
チルダは、しばらくルヴィンの顔を見ていた。
「組み立て方は、どうするの。バラしたら、図面がないと」
「図面は……俺の頭の中にある」ルヴィンは言った。
「お前の頭の中には、母機側の調整がある。割符は、今も生きている。部品がどこに散らばっても、俺たち二人がいなければ、それはただのジャンクだ。俺たち二人が揃わなければ、誰にも組めない」
チルダは、何かを言いかけて、口を閉じた。
それから、工具袋を肩にかけ直した。
「……十五分ちょうだい」
チルダは、地下倉庫へ駆け下りていった。
*
住人の避難は、哨所の地下から始まった。
旧陸軍の排水路。石積みの、細く湿った通路。
第三班の警備員が先導し、懐中灯を手にした住人たちが、一列になって南へ進んでいく。老人、子供、赤ん坊を抱いた母親。荷物を背負った男たち。
その荷物の中に、ジャンクの部品が、一つずつ紛れていた。
チルダが、避難する住人の一人一人に、何気ない顔で部品を手渡していく。
「おじいちゃん、これ、ついでに持ってって。重くないから」
「なんだい、これは」
「ただの古い部品。検問所に着いたら、どっかに捨てていいから」
「捨てていいなら、なんで持たせるんだい」
「縁起物」
老人は首を傾げながらも、部品を荷物の袋に放り込んだ。
チルダは、それを見送ってから、次の住人へ向かった。
地上では、戦闘が続いていた。
辰砂過負荷型を載せた装軌式が、旧市場の奥から、ゆっくりと前進してくる。
放熱溝の赤い光が、一歩ごとに強くなっていく。充填が、進んでいる。
「少佐」監視塔の声が、伝令管越しに裏返った。
「あの筒、光が、どんどん強く……!」
「監視塔、降りろ! 全員、排水路へ。第一班、第二班も撤退開始。住人の後ろにつけ」
「少佐は!」
「私は残る」
伝令管の向こうが、一瞬、静まり返った。
「……殿、ですか」
「指揮所から、哨所の残りの警備機を遠隔で動かす。磁場で半分は言うことを聞かんが、残りの半分で、あの筒の注意を引く。お前たちが排水路を抜けるまでの時間を稼ぐ」
「でも、それじゃ少佐が」
「命令だ!」
*
指揮所に、チルダが駆け込んできた。煤だらけの顔。
手には、最後の部品が一つ。
「全部、配った。これで最後」
「なぜ、まだ持っている」
「コアユニットは、あたしが持ってく」チルダは、部品を作業着の胸ポケットに押し込んだ。
「それと、少佐を迎えに来た」
「行け」
「少佐も来て」
「私は殿だ」
「また、それ」チルダの声が、少しだけ震えた。
「二十年前も、そうだった。第十九採掘区で。少佐の上官が殿を引き受けて、残って、帰ってこなかった。少佐は、それをずっと引きずってる」
ルヴィンは、答えなかった。
「今度は、少佐が残るの? 誰かを引きずらせるために?」
「チルダ」
ルヴィンは、指揮所の古い操作卓に手を置いたまま、静かに言った。
「割符は、二人揃わなければ意味がない。だから、二人とも死ぬわけにはいかない」
「……だから、あたしだけ逃げろって?」
「お前が生きていれば、割符は残る。私の頭の中の半分は、どうにかする」
「どうにかって、どうやって」
ルヴィンは、少しだけ口元を緩めた。
「蘇芳中将が、何か考えるだろう。あの人は昔から、無茶を通すのがうまい」
チルダは、長いことルヴィンの顔を見ていた。
それから、乱暴に袖で目元を拭った。
「……バカ少佐」
「行け」
「行くよ! 行けばいいんでしょ!」
チルダは、扉の前で一度だけ振り返った。
「出口で、待ってるから。来なかったら、一生、文句言うから」
「ああ」
扉が閉まった。
*
ルヴィンは、指揮所に一人残った。
古い操作卓の前に座り、哨所に残った警備機を、一機ずつ遠隔で起こしていく。
磁場の中で、半分は応答しなかった。応答した四機を、旧市場の方角へ向かわせる。
「お前たちも、殿だ」
警備機は、何も答えなかった。命令通りに、錆びた路地を北へ進んでいく。
窓の外。旧市場の奥で、辰砂過負荷型の赤い光が、脈打ちながら膨らんでいた。
警備機が、装軌式の足元に辿り着いた。
射撃を始める。装甲は抜けない。
だが、注意は引ける。装軌式の車体が、警備機の方へ向きを変えた。
伝令管の残っていた一本から、遠い声が届いた。排水路の中の、第三班。
『少佐……住人、全員、排水路の中ほどを通過……! 第一班、第二班も、合流しました! あと、出口まで、十分!』
「十分か」
ルヴィンは、窓の外を見た。
赤い光が、さらに膨らんだ。
――十分は、もたない。
ルヴィンは、操作卓の上の、もう一つの装置に手を伸ばした。
哨所の地下倉庫に、大戦の頃から据え付けられていた、旧陸軍の自爆処理装置。
二十年前、第十九採掘区で、使えなかったもの。坑道に負傷兵がいたから。
今、地下の排水路にいるのは、千人の住人と、二十人の部下と、チルダだった。
ルヴィンは、装置の起爆範囲を確かめた。
哨所の地上部だけ。地下の排水路は、石積みの奥にある。届かない。
それを確かめてから、装置を起動しなかった。
代わりに、装置の外装を開け、中の起爆用の辰砂セルを抜き取った。
それを、哨所の北側の、旧市場へ続く一番太い鉄骨の柱に、直結した。
「……二十年前の、借りだ」
磁化した鉄骨は、旧市場の鉄骨と、地面伝いに繋がっている。その先に、辰砂過負荷型を載せた装軌式がいる。
過負荷型が撃つ前に、こちらから、先に火を入れる。磁化した鉄骨を伝って、相手の充填中の辰砂に、無理やり火を走らせる。暴発させる。
撃たせる前に、焼く。
できるかどうかは、分からなかった。
理屈は、チルダなら説明できるだろう。
ルヴィンには、勘しかなかった。二十年前、この旧市場の鉄骨を、自分の部隊がどう組んだかの、勘だけが。
ルヴィンは、伝令管に口を寄せた。
「第三班。出口まで、急げ! 振り返るな!」
『少佐……?』
「チルダに、伝えろ」
一瞬、言葉を探した。
「……文句は、後で聞く」
ルヴィンは、操作卓の上のスイッチに、手を置いた。
とん、とん。
二回、叩いた。
それから、押した。
*
――最初に来たのは、光だった。
赤い光が、哨所の北の鉄骨から、地面を這うように旧市場へ走っていった。
辰砂の影響で磁化した鉄が、一本の導火線になっていた。
光は旧市場の鉄骨を駆け上がり、その奥の装軌式へ、充填中の辰砂へ、吸い込まれていった。
――次に来たのは、音だった。
旧市場の奥で、辰砂過負荷型が、撃つ前に、内側から破裂した。
赤い炎が、夜を裂いた。
母機ごと、周囲の残党の歩行機ごと、旧市場の鉄骨ごと。
炎は、磁化した鉄を伝って、南へも走ってきた。哨所の方へ。
ルヴィンは、指揮所の窓から、それを見ていた。
逃げなかった。逃げる時間は、なかった。
それに、炎が哨所の地上を焼いている間は、排水路の入口は塞がれる。残党の残りが、住人を追って地下に入ることはできない。
天井に、ひびが走った。
崩れかけた指揮所の、ひび割れた天井。
そこに、炎が来た。
ルヴィンは、最後に、天井を見上げた。
――坑道の負傷兵を下がらせて、殿を。
二十年前に、できなかったこと。
今度は、できた。
*
炎が収まったのは、夜明け近くだった。
旧仙京外縁第三哨所の地上部は、跡形もなく焼け落ちていた。
旧市場の鉄骨は溶けて折れ曲がり、辰砂過負荷型を載せていた装軌式は、黒い残骸になっていた。残党の残りは、北の戦闘区へ退いていた。
住人は、全員、線の内側に辿り着いていた。
千人。
二十人と、一人。
排水路の出口、第四検問所の地下で、チルダは、夜明けまで座り込んでいた。
胸ポケットに、最後の部品を握りしめたまま。
*
蘇芳は、その日の昼に来た。
急いで調達してきた人間の部隊を半分だけ連れて、自分の足で焼け跡に入った。
焼け跡の指揮所の中で、救助隊がルヴィンを見つけたのは、午後になってからだった。
崩れた天井の梁の下。全身に、深い火傷。呼吸は、かろうじてあった。
だが、身体は、もう人間の医療で戻せる状態ではなかった。
蘇芳は、担架の横に膝をついた。
「……ルヴィ」
返事はなかった。
焼けた指の先が、担架の縁を、かすかに叩いていた。
とん、とん。
蘇芳は、その手を、自分の生身の手で握った。
「お前は、本当に、昔から」
言葉が、続かなかった。
*
その夜、蘇芳は、本社の研究部門の扉を叩いた。
人格転写プログラム。
大戦期の技術から、メビウスが細々と再現を試みている計画。人間の思考リソースを、アンドロイドのフレームへ移す試み。
成功例は、まだ一つもなかった。
「被験者を、一名」
研究部門の責任者は、蘇芳の差し出した書類を見て、顔をしかめた。
「旧陸軍の少佐……年齢も、損傷の程度も、条件としては最悪です。成功の見込みは、ほとんどありません」
「分かっている」
「失敗すれば、記録上、被験者は死亡となります。転写しなくても、死亡です。どちらでも、同じですよ」
「同じではない」蘇芳は言った。
「転写すれば、可能性が残る」
「その可能性のために、予算を使うのですか」
「使う」
責任者は、長いこと蘇芳の顔を見ていた。
「……なぜ、この被験者なのですか」
蘇芳は、少しだけ黙った。
「まだ、必要だからだ」
それが何なのか、蘇芳は言わなかった。
知らなかったのかもしれない。
ただ、焼け跡で、ルヴィンの指が二回叩いた音だけを、覚えていた。
*
記録上、ルヴィン所長は、戦後十七年目の秋、旧仙京外縁第三哨所の防衛戦において殉職した。
線は、その翌月、引き直された。
磁場に侵された旧仙京外縁の北半分は、線の外に切り離された。
住人の戻らない、焼けた下町。
それは、新しい地図の上で、旧仙京が戦闘区へはみ出した一角として記された。
ルヴィンのコレクションは、持ち主不在のまま、旧軍の保管倉庫に移された。
そして、ジャンクの部品がいくつか、線の内側のあちこちの家の物置に、誰にも気づかれずに眠っていた。縁起物として。
*
転写の準備には、半年かかった。
その間に、もう一つの申請が、研究部門に届いていた。
申請者の名は、チルダ。
「……あなたは、健康体ですが」
研究部門の責任者は、書類と、目の前の女を見比べた。
「健康体だよ」チルダは言った。
「でも、あたしも転写して」
「理由を」
「少佐の転写が成功したとき、隣に、昔の少佐を知ってる奴が要るでしょ」
「それは、人間のあなたでも」
「人間のあたしじゃ、だめなの」
チルダは、作業着の胸ポケットから、小さな部品を一つ取り出し、深く握りしめた。
ただの旧式のジャンクにしか見えない部品。
「少佐が持ってるのと、同じ速さで歳を取らないと。同じ場所に立てないと。……あたしが先に死んだら、意味がない」
「意味、とは」
「割符」
責任者は、意味が分からないという顔をした。
チルダは、それ以上は説明しなかった。
「工兵の手は、アンドロイドの方が、正確でしょ。あたし、汎用の工兵仕様でいい。設備の復旧と、経路の確保。昔からやってたこと、そのまま」
*
蘇芳は、その申請を、黙って承認した。
チルダの転写は、ルヴィンより先に行われた。
健康な身体と意識からの転写は、損傷の激しいルヴィンよりも条件が良かった。汎用のType-LIフレームへ。
汎用フレームへの転写としては、成功した。
ただし研究部門の記録には『限定的適合』とだけ記された。
思考リソースは載ったが、フレームの性能を引き出しきるには至らない。
指揮官級のフレームでの完全な適合は、まだ一例もなかった。
目を覚ましたチルダは、自分の記憶の中に、いくつかの欠けと、いくつかの混線を見つけた。
「……あれ。少佐と最後に話したの、指揮所だっけ。排水路の入口だっけ」
研究者が、端末を確認しながら言った。
「転写に伴う、記憶の齟齬です。よくあることです」
「齟齬」
チルダは、その言葉を、しばらく口の中で転がしていた。
「……いい言葉だね、それ」
「はい?」
「確かめないで、済むから」
*
ルヴィンの転写は、それから三か月後だった。
損傷の激しい思考リソース。
大戦と戦後を合わせて三十年分の、指揮官の記憶。
それを、まだ一度も成功したことのない、指揮官級の新型フレームへ。
研究部門は、そのフレームに、仮の型番をつけていた。Type-L。
転写の当日、
蘇芳は、研究室のガラス越しに、それを見ていた。チルダが、その隣に立っていた。
アンドロイドの身体で。
「……成功すると思う?」チルダが訊いた。
「分からん」
「正直だね」
「嘘をついても、結果は変わらん」
研究室の中で、フレームに繋がれた無数の線が、一斉に光った。
それから、長い、長い沈黙が続いた。
*
最初に戻ってきたのは、音だった。
空調の低い唸り。どこか遠くで、金属が触れ合う音。
それから、自分のものではない、規則正しい電子音。
目を開けた。
天井が、見えた。
白い、継ぎ目のない天井。
見覚えがない。最後に見た天井は、崩れかけた指揮所の、ひび割れた天井だった。そこに、炎が来た。
「意識、戻りました」
誰かの声がした。
「少佐。聞こえますか。少佐」
少佐。その呼び方は、自分のものだ。
だが、声が出なかった。口を開けようとして、口がどこにあるのか、分からなかった。
手を伸ばそうとした。その手は自分の意志とは無関係に、空中で不自然な円を描いて止まった。金属と人工筋肉で構成された、見慣れない五指。
*
三日後、ようやく言葉が出るようになった頃、研究部門の責任者が、書類を持ってきた。
「新しい機体の、登録名が必要です」
「……名前」
自分のものではない、高く滑らかな声だった。
「記録上、ルヴィン所長は殉職しています。同じ名前では、登録できません。法務上の問題がありますので」
天井を見たまま、しばらく黙っていた。
ガラスの向こうに、人影が二つ見えた。機械の腕を持つ男と、ジャケットの中にインナースーツを着た女。
男が、ガラス越しに、口を動かした。
声は聞こえなかったが、何を言ったかは分かった。
――ルヴィ。
「……ルヴィリア」
「はい?」
「ルヴィリアで、いい」
責任者は、書類にその名を書き込んだ。
「由来を、伺っても」
「昔、そう呼ばれていた名前に、少し、足しただけだ」
それ以上は、言わなかった。
足したものが何なのか、自分でもまだ、整理できていなかった。
*
一週間後。
歩行訓練は、難航していた。
ナノテックスーツの硬化が、着地のたびに一拍遅れる。何度も転び、立ち上がり、また転んだ。
ある朝、訓練室の扉が開いた。
工兵の装備を抱えた、作業着の女が入ってきた。
煤のない、真新しいジャケット。短く切った髪。口元には、何か面白がっているような笑み。
「調整に来たよ。……って、歩行、まだ安定してないんだ」
ルヴィリアは、床に座り込んだまま、その女を見上げた。
見覚えが、あるような、ないような。
記憶が、転写の過程で、ところどころ混線していた。
この顔を、どこかで見た。煤だらけの顔で。
指揮所の扉の前で、振り返った顔で。
「来なかったら、一生、文句言うから」と言った顔で。
確かめようとして、やめた。
確かめれば、答えが出る。
女も、ルヴィリアの顔を見ていた。同じように、何かを確かめようとして、やめたような目で。
「初めまして」女が言った。
「……初めまして」ルヴィリアは言った。
それから、女はしゃがみ込み、ルヴィリアの足元のスーツを見た。
「スーツに、合わせようとしてるでしょ」
「研究者にも、同じことを言われた」
「でしょうね。でも、言い方が悪いんだよ、あの人たち」
女は、ルヴィリアのスーツの袖に、軽く触れた。
「スーツを、敵だと思わないで。あんたの部下だと思って」
*
その夜、ルヴィリアが一人で訓練室を歩いていると、扉の外で、あの女の声がした。
研究部門の誰かと話している。
「あ、そうだ。あの子の転写、成功したんだから、文句一個言っていいよね」
「文句、ですか。誰に」
「秘密」
足音が遠ざかっていった。
ルヴィリアは、訓練室の真ん中で、立ち止まった。
文句。
何かが、記憶の奥で、かすかに引っかかった。排水路の出口。
待っている、と言った声。来なかったら、と言った声。
確かめなかった。
ただ、歩き出す前に、一拍置いた。着地する、とスーツに伝えるように。
足を踏み出した。
着地と硬化が、同じ瞬間に重なった。
もう一歩。もう一歩。
訓練室の端まで、一度も転ばずに歩いた。
壁に手をついて、振り返る。誰もいない訓練室に、自分の足音だけが残っていた。
ルヴィリアは、壁を、指先で叩いた。
とん、とん。
二回。
なぜそうしたのかは、分からなかった。ただ、そうすると、少しだけ、落ち着いた。
*
――それから、二年が経った。
新都の西の端、旧仙京との境の路地に、看板の電飾が半分切れたジャンク屋がある。
店の奥の、「非売品」と手書きされた棚には、旧式の部品が、いくつか並んでいる。
どれも、ただのジャンクの顔をしている。
そのうちのいくつかは、ある年の秋に、焼けた下町から逃げてきた住人の荷物の中から、縁起物として、少しずつ買い戻されたものだった。
最後の一つだけは、最初から、店主の作業着に入っていた。
閉店後の店の屋上で、ルヴィリアは、地平線の低いところの、戦闘区の信号灯を見ていた。
旧仙京が、線の外へはみ出した一角。その奥に、焼け落ちた哨所の跡がある。
階段の扉が開き、チルダが缶を二つ持って上がってきた。
「ねえ、ルヴィリア」
「なんだ」
「あそこ、見えるね。外縁の跡」
「見える」
チルダは、缶の一つを差し出した。
ルヴィリアは受け取るが、口はつけない。いつものことだった。
「あたしの記録だとね」チルダが言った。
「あの夜、誰かが、殿をやって、帰ってこなかったことになってる」
「……」
「でも、たぶん、記憶の齟齬だね」
ルヴィリアは、地平線を見たまま答えた。
「そうだな。齟齬だ」
「そっちの記録だと、どうなってる?」
少しだけ、間が空いた。
「……誰かが、排水路の出口で待っていた。来なかったら、一生文句を言う、と」
「あはは。それも齟齬だね」
「ああ。齟齬だ」
二機は、それ以上は照らし合わせなかった。
ルヴィリアの指先が、缶の表面を、二回、軽く叩いた。
チルダは、それを見て、小さく笑った。
「文句、まだ言ってなかったね」
「聞く、と言った」
「……じゃあ、一個だけ」
チルダは、缶を足元に置いて、ルヴィリアの方を見た。
「おかえり、ルヴィン少佐」
ルヴィリアは、少しだけ、黙った。
「……それは、文句ではない」
「文句だよ。二年も待たせたんだから」
地平線の低いところで、信号灯が一つ、ふっと消えて、少し遅れてまた点いた。
ルヴィリアは、缶を握ったまま、その灯りを見ていた。
残り火は、まだ消えていなかった。




