第9話:目覚めの毒、跪く神
目が覚めると、視界を埋め尽くしていたのは、あの禍々しいほどに鮮やかな朱色の天井だった。
隣では、朔夜がまだ深い眠りについている。
(この美しさに、私はずっと騙されていた。閉塞的な村が嫌だったんじゃない。この甘美な毒に当てられて、まともな判断力を奪われていただけ……今なら、はっきりと分かる)
千年の少女に固執し、村を破壊してまで私を連れ込んだ。それほどまでに、この怪物は追い詰められていたのだ。
(……ああ、本当に。ただの、可哀想な怪物)
一つだけ、鮮明に理解したことがある。
村が消えてしまった今、もう「替え」はいない。彼が言った『唯一無二』という言葉は、今や私にとって、彼を支配するための最大の武器に変わっていた。
白無垢を無造作に羽織ると、身体は驚くほど軽い。
昨夜、無理やり注ぎ込まれた彼の『気』が、この幽世で私が形を保っていられる唯一の生命線なのだ。
(気持ち悪い。でも……今は、これを利用するしかない)
「……花耶」
振り返ると、朔夜が目を開けていた。その瞳には、私がここに留まっているかを確認するような、必死の不安が混じっている。
「おはよう、朔夜様」
あえて、十八年間見せてきた通りの、無垢な微笑みを浮かべる。
安堵して伸ばされたその手を、私は指先一つ触れさせず、さらりとかわした。
「……花耶?」
(どうする? ここで突き放せば幽閉されるかしら。それとも――)
私はゆっくりと寝台の端に腰掛けた。
「ねえ、朔夜様。昨夜、あなたが私の中にすべてを注ぎ込んだ『生』の鍵は、今どこにあると思いますか?」
「……どういう意味だ」
下腹部にそっと手を当て、彼を見下ろした。
「……いえ。ただ、気になったの。もし、私がここでの暮らしに絶望して、あの石像たちのように『石』になってしまったら。……あなたの一族の『生』も、そこで一緒に終わってしまうのではないかしら、と思って」
「花耶……っ! お前だけは違うのだ。心配することはない。私は花耶を、決してそんな目には合わせない」
朔夜が顔色を変えて身を乗り出す。その表情には、愛などではなく「絶対的な喪失への恐怖」が張り付いていた。神としての威厳は剥がれ落ち、そこにあるのは、たった一人の人間に命運を握られた者の、無様な焦燥だ。
(ああ、なんて愚かな人。18の私よりも愚かだ)
私は、震える彼の指先をあえて優しく握りしめた。
悠久の時を生きながら、この男は「純愛」などという猛進的な幻想に捕らわれている。一族の将来を案じ、唯一無二の私を育てることに腐心するあまり、彼は現世の狡猾さも、人の心の移ろいやすさも、何一つ知らないのだ。
「本当にそうでしょうか……」
支配しているのは彼ではない。生殺与奪の権を握っているのは、私なのだ。
「私を閉じ込めたり、無理強いしたりすれば、きっと私の心はすぐに枯れてしまう。そうなれば、あなたたちが繋ごうとした未来も、すべて砂になって消える……そんな夢を見ていたの」
脅しているのではない。ただ、事実を突きつけて微笑んだ。
この男の純真な「執着」こそが、私にとっては最も扱いやすい手綱になる。
「だから、お願い……。私を、あまり怖がらせないで。……ね、朔夜様?」
私は彼の胸に顔を埋め、彼の視界から隠れたところで、冷徹な笑みを深めた。
「ああ……ああ、花耶。怖がらせるつもりは無いのだ。ただ、私は……」
私の肩口に顔を埋めた彼の声は、熱に浮かされたように湿り気を帯びている。
「お前を愛しているのだ。千年の前に触れたあの魂を……。やっと手に入れたのだ。どうか私の側から消えないでおくれ……」
千年の孤独を抱えた神様。その重すぎる愛のすべてを、私がこれからじっくりと「利用」してここから逃げてやる。




