第10話 集めるべきもの
薄暗い部屋には、ほとんど光が差し込んでいなかった。
ドアが押し開かれ、ついさっき春木海斗と別れたばかりの森山しおりが足を踏み入れた。
部屋の壁一面に、びっしりと付箋が貼られている。
ほぼすべての付箋に、春木海斗に関する情報がびっしりと書き込まれていた。
【7月27日:今日、街で偶然見かけたけど、彼は私に気付かなかった。他の人との会話から名前を知った――春木海斗】
【8月2日:今日も海斗を見かけた。今度は彼も私に気付いたみたい。家まで尾行して、ようやく住んでいる場所がわかった】
【8月4日:また「偶然」ぶつかるように街で海斗に会った。彼は私に気付いたけど、一瞬見ただけで目を逸らした。私のこと、忘れちゃったのかな?】
【8月7日:海斗の写真をこっそり2枚撮った。この数日、ずっとその写真を抱いて寝てる】
【8月11日:今日は土砂降りだった。いつものように海斗と会えそうな場所に行ったら、やっぱり会えた。でも傘を持ってなくてびしょ濡れだった。私、傘を渡したかったのに、彼は一瞬で通り過ぎちゃった】
【8月13日:海斗、家の下の焼き肉屋さんがすごく好きみたい。覚えておこ】
【8月21日:久しぶりに海斗を見かけなかった。東京からいなくなっちゃった? ちょっと怖い。お家に行ってみようかと思ったけど、中に人がいたから諦めた】
――そう。
何日にもわたって、森山しおりはさまざまな方法で春木海斗との「偶然の出会い」を仕組んできた。
彼がいつも無視するから、ずっと「忘れられてるんじゃないか」と不安でたまらなかった。
今日ようやく、自分のマンションの下で再会できて、彼がまだ自分のことを覚えていてくれたと確認できたことで、ようやく胸をなでおろせた。
ベッドサイドの付箋の束を手に取り、一枚丁寧に剥がす。
引き出しからペンを取り出した。
【8月22日:今日、マンションの下で海斗に会えた。彼、私のこと覚えてた。近所のカフェで暑さをしのいだ。海斗、すごく大胆で……私のパンツの中に手を入れてきた。あの感覚、すごく好きだった。でもテクニックが上手すぎて……もしかして、よく女の子にこんなことしてる?】
【でも大丈夫。海斗を信じてる。彼は絶対に遊び人なんかじゃない。絶対に。だって本人が「彼女いたことない」って言ってたもん】
【これからは堂々と名前で呼び合える。海斗が「しおり」って呼んでくれる。私も「海斗」って呼べる。すごく幸せ。同じ高校で三年間一緒にいられるなんて、待ちきれない。同じクラスになれたらいいな】
【海斗のこと、一番大好き】
ペンが紙の上を滑るように動き、あっという間に書き終えた。
森山しおりはそれを壁に貼り付けると、ベッドの下から木製の箱を引きずり出した。
スカートの中に両手を入れ、そのまま下着を脱ぐ。
丁寧に畳んで、箱を開け、中に収めた。
箱の中にはたくさんの品が入っているが、一番目立つのは未開封の缶コーヒーと傘――初めて会ったときに春木海斗がくれたものだ。
その他には、数え切れないほどの写真。
すべて春木海斗の姿が写っていて、この半月あまり、彼が気付かないところでこっそり撮りためたものばかり。
この箱の目的はただ一つ。
春木海斗に関わる「もの」をすべて収めること。
たとえば――海斗が触れた下着。
森山しおりの目には、それこそが「絶対に集めるべきもの」だった。
箱に鍵をかけ、再びベッドの下に押し込む。
膝立ちの姿勢からゆっくり立ち上がり、深く息を吸った。
両手で顔を覆う。
視線が徐々に夢見心地に変わっていく。
「海斗……へへへ……」
……
「やっぱりやってよかった。過程はちょっとしんどかったけど、結果から見れば、関係は少し深まった……よね?」
春木海斗は汗だくで自宅に戻ると、そのままソファに倒れ込んだ。
リモコンでエアコンを入れ、少し休んでから冷蔵庫を開け、キンキンに冷えたコーラを一気に飲み干した。
今回の現実世界での森山しおりとの遭遇は、完全に予想外だった。
幸い致命的なミスは犯さなかった――でなければ、今頃少なくとも何カ所かナイフの傷が増えていただろう。
気持ちを落ち着かせ、春木海斗は冷静に今後の方針を考え始めた。
現実の森山しおりはシミュレーションの彼女と何ら変わらない。
油断は禁物だ。初期ヤンデレ値を100以下に下げるのが最優先事項のまま。
これからはもっと慎重に。
カウントダウンが終わるまでは、なるべく森山しおりと接触しない方がいい。
今カウントダウン中だからこそ、今の行動は彼女の性格属性に影響を与えない。
とはいえ、ハチェットエンド(斧エンド)を引き起こすことはできる。
ただ属性を変えることはできない――今持っている属性を無視できるわけでもない。
「やっぱりシミュレーションを続けるしかないか……」
春木海斗は独り言のように呟いた。
シミュレーションはチート級の能力だが、致命的な欠点が一つある。
一日一回しか使えないことだ。
もし一日三回、五回と回数を増やせたなら、今の何倍も早く進展できるのに。
コインの獲得量が減っても構わない。
特定のイベントだけをシミュレーションして結果を学習できれば十分だ。
残念ながら、一日一回が限界。
シミュレーション世界の数日が現実の1秒に相当するせいで、一日の大半は次のシミュレーション更新を待つだけの時間になってしまう。
「少し運動でもするか」
そう呟いて、春木海斗は自分の上腕二頭筋をちらりと見た。
六味地黄丸のおかげで身体能力は大幅に向上した。
確かにその恩恵は大きい。
でもそれは所詮「外からの助け」。
自分で鍛えた肉体には到底及ばない。
そういえば去年、思い立ってトレーニング器具一式を買ったことがある。
でも三日坊主で挫折して、それ以来埃をかぶったままだった。
今こそ引っ張り出す絶好のタイミングだ。
昔の春木海斗が怠けていたのは、生活が快適すぎたから。
今の彼には、いつ爆発するかわからない時限爆弾――森山しおりがいる。
いざという時のために、自分を鍛えるしかない。
こうして、中学時代は体育の授業すらまともに顔を出さなかった春木海斗が、
長期的な筋トレ生活を始めることになった。




