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どのくらい話をしただろうか。少なくとも一時間は話しっぱなしだったと思う。
「じゃあそろそろやりますか」
門横の壁に背中を預けてしゃがんでいた神山さんはゆっくりと膝を伸ばした。
「……神山さんって、大ざっぱに見えて結構面倒くさい性格だよね」
「嫌いになった?」
「ううん」
「そりゃ残念」
おどけた様子の神山さんを見て笑いながら、僕も腰を浮かす。
「外、凄いことになってると思うよ」
僕が言うと、神山さんは「だろうねー」と笑う。
「ま、話合わせてよ。高峰君も、一騎打ちの方が戦いやすいでしょ?」
「まぁ、そうだろうね」
神山さんがこちらに差し伸べた右手を掴むと、視界が変わった。背後の踏切は遮断機が降りていて、警報がけたたましく鳴り響いている。そんな踏切を囲むように立っている、三、四十人の魔術師。正面には春日部さんがいて、その向こう側に、源治さん、依千さん、伶さんの姿が見えた。無表情に怒りを滲ませたような伶さんに、怯えた表情の依千さん。一人、冷静な源治さんは、春日部さんの肩に手を置くと、魔術師達より一歩前に出た。
神山さんと源治さんが視線を交差させて数十秒。源治さんが口を開いたのは、電車が踏切を通過し、警報が鳴り止んでからだった。
「目的はなんだ」
「高峰君との一騎打ち。もちろん、フルパワー状態での」
怯むことなく、笑顔で返した神山さんは、チラリと依千さんに目を向ける。
「断ったら、このまま高峰君の首が跳ぶよ」
「……魔力譲渡は依千が高峰君に触れる必要がある」
「いいよ。いってらっしゃい」
神山さんは軽い調子で言うと、僕の背中をポンと押した。
僕が依千さんの方へ歩いて行くと、魔術師達が明らかに身構える。
「言っておくけど」と神山さんが口を開いたのは、そのタイミングだった。
「高峰君が魔力譲渡されたら一緒に戦おうなんて思わないでね。一騎打ちなら高峰君にも勝機はあるかもだけど、足手まといがいたんじゃあ、私が必ず勝つよ」
魔術師数人の顔が怒りで引きつった。
一触即発。歩くだけでも精神が削られていくような空気に、依千さんの前に着くと同時に冷たい汗が頬を伝う。
「高峰君……」
不安げな眼差しの依千さん。それは解呪をすることへの不安か、それとも僕を心配してくれているのか。
「ごめん、依千さん。そういうことになっちゃったよ」
依千さんは首を横に振る。その反応が分かっていて謝罪を口にした僕は卑怯だ。
「そ、それは、いいけど、でも神山鈴さんと戦うって……」
「勝てるの?」
伶さんの短い問いに、「分からない」と答える。神山さんの本気を僕は知らない。
「一応言っておくけど、単純に魔力量だけ比較して長期戦なんて挑んだら駄目よ。身体強化一つにしても、高峰君と神山鈴じゃあ無駄の無さに差がありすぎる。最初は良くても、ジリ貧になるのが目に見えてるから」
「うん」
「神山鈴の魔力切れを期待出来ないっていうことは、未来を見られる状態の神山鈴を倒さないといけないってこと」
「速さ重視だね」
「そういうこと。分かってるならいいわ。緊張もしてないみたいだし」
話は終わり、と言うように伶さんは一歩下がった。一言くらい応援してくれてもいいのに。
「あの、高峰君」
久し振りに聞いた依千さんの『あの』に、前を向く。
「ち、ちゃんと帰ってきてね」
「うん」
「高峰君なら私もすぐに仲良くなれると思うから」
「うん」
頷きながら、そういえばこんな風にちゃんと挨拶をして別れるのは初めてだと気付いた。今までと変わらないのは、依千さんの笑顔だけだ。
依千さんが握手を求めるように両手をそっと前に出す。
僕が右手を浮かせると、依千さんは「やっぱ、いいや」と言って手を引っ込め、
「えいっ」
という掛け声と共に僕の胸に飛び込んできた。
心なし優しい風が僕達二人を中心に吹く。依千さんから流れ込んでくる魔力を全身で感じた。これまでよりも暖かく感じるのは、依千さんの体温のせいだろうか。
僕の肩に顔を埋めている依千さんの表情は見えないけど、そっと手を当てた背中は震えていた。
泣いているのだろうか。もしそうなら、その涙の理由がなにであれ、少しだけ嬉しい。
気を失った依千さんを春日部さんに任せてから、もう一度伶さんを見る。
「じゃ、行ってきます」
「ん。頑張らなくてもいいから死なないでね」
それは難しい、という言葉は飲み込んで、苦笑しながら頷いた。
依千さんを背負っている春日部さんに軽く頭を下げてから踵を返す。
源治さんと目が合い、歩きながら頭を下げると、小さく首を縦に振って答えてくれた。この人は今なにを考えているのだろうか。想像すら出来ない。
魔術師の中には怒りを表すかのごとく、燃え盛るような魔力を持っている人もいるけど、誰一人として動く気配はない。
その方が僕としても有り難かった。神山さんの言葉は多分正しいし、力の制御が下手くそな僕が現実世界で戦ったりすれば周囲の被害は軽いものでは済まないだろうから。
「準備オーケー?」
僕を覗き込む神山さんに頷いて答えた。
「緊張してる?」
梅津家門前に戻ると、神山さんが笑いながら訊いてきた。
「ううん。不思議と、してない」
「そっか」
「神山さんはしてるみたいだね」
「分かっちゃう?」
「魔力が落ち着かない動きしてるよ」
僕がそう言うと、神山さんは「へぇ」と興味深そうな顔をした。
「分かるんだ、そういうの。ていうか、見える?」
「うん」
「凄いね。魔法みたい」
おどけて笑ってから、僕に背を向けて門に向かって歩き出す。
「でもね、緊張じゃないよ。これは武者震い」
「僕と戦うのが楽しみ?」
「そりゃあね。一対一で勝敗が分からない相手なんて高峰君くらいだし」
「……一対多数なら?」
「世界中を敵に回しても平気なら、とっくに依千ちゃんを攫ってるよ」
神山さんは門を抜けて数歩進んだところで足を止めた。それと同時に、不安定だった魔力の揺れも穏やかなものになる。
「お互い、思い残すことのないように――ってのは無理か」
振り向きざまの言葉に、僕は頷く。
「約束しちゃったからね」
神山さんは「ニシシ」と笑うと、魔力を全身に張り巡らせた。
「じゃ、始めよっか」
頷けば、その瞬間に戦闘が始まる。それが分かっていながらも、僕は気付けば即答していた。
それはただの反射的な行動だろうか。それとも、心の奥では僕もこんな戦いを待ち望んでいたのだろうか。
頭の隅に、そんな疑問が浮かんだ次の瞬間、僕の目前数センチのところに神山さんの指先が迫っていた。避けることはおろか手で払うことも庇うことも出来ない。咄嗟に硬質化させた魔力を眼前に集める。それを察した神山さんは――いや、違う。神山さんにはこの先が見えているんだ。突き出そうとした左手を引っ込めて、その勢いのまま、握った右拳で僕の魔力障壁を殴った。障壁にヒビが入るような音がして、僕は大きく後ろに跳んだ。
距離十メートルほど。互いに射程距離ではあるけど、僕の場合は下手に魔法を使うより、自分で動いた方が速いし威力も強い。そのことが神山さんも分かっているのか、右拳を解いて両腕を垂らしてから、「ふぅ」と小さく息を吐いた。
神山さんは、予想以上に速い。そして、その力は速度だけに特化したものではない。今でこそ全身にうっすらと魔力を覆っている程度の神山さんだが、行動を起こす度に爆発するような魔力を全身、あるいは一部に纏っていた。常に全身に、ほぼ全力の魔力を纏っている僕には決して真似できない戦い方だ。魔力操作の技量もそうだが、なによりも敵を前にして脱力するという行為は隙以外の何でもない。これは、数秒とはいえ未来が見えている神山さんのみ出来ることだ。
神山さんがすっと右手を前に出す。こちらに向けた掌には、神山さんの上半身を隠すほど凝縮された魔力が込められていた。
僕が右に跳ぶと同時に、雷のような軌道を描いた魔力がすぐ横を通り抜けた。見た目は大したことない。しかし、それが触れた門が塵のように焦げ落ちたのが視界の隅で見えた。
僕が地面に足を着ける前に、神山さんは目の前まで迫ってきていた。両手に魔力が込められている。また連続攻撃か? 考える間もなく、左手がとんでくる。それを払おうと横に振った右手は空を切り、僕の視界に映ったのは、中途半端なところで止めた左手。
それを見た瞬間、神山さんと佐竹家護衛の教室での戦闘を思い出した。
これは、あれだ。
魔力越しに感じる衝撃。左手で頭は庇えたが、数メートルほど飛ばされた。追撃がこなかったのは、僕が後ろに跳んでダメージを減らしたのが分かったからか。身体に痛みはない。だが、その分の魔力は確実に削られている。
長期戦になればジリ貧、なんてものじゃない。短期戦でも後手後手だ。
今のは魔力による打撃。他にも斬撃。銃撃があり、どんな動作から飛び出してくるか分からない。
つまり、今のまま後手に回っていたら、絶対に勝てない。むしろ攻めて攻めて攻めまくって、相手に何もさせないくらいじゃないと。
右手に魔力を集めて、ナイフをイメージする。
「……佐竹家の得意分野だね」
僕の右手に現れたナイフを見て、神山さんが呟くように言う。
魔力による斬撃。この魔法はコストや使い勝手がよく、魔術師の魔力量が激減した現代では魔術師が使っているポピュラーなものだが、元々は佐竹家の魔術師が好んで使っていたのだという。もちろん、昔と現代では斬撃一つでも圧倒的な差があるのだろうけど。
答えることなくナイフを構えて、思い切り地面を蹴った。
口元に笑みを浮かべたまま僕を迎えいれた神山さんは、身体を後ろに流して首を狙った横振りを避けた。そんなことは、見なくても分かっている。右手を戻す動作でもう一回、続けて左手にナイフを具現化し更に一回。二撃目も僅かに避けられ、三撃目はすくい上げるような掌底によって弾かれた。宙に飛んだナイフを目で追っている暇などなく、身体で隠した右手からレーザー状の魔力弾を飛ばす。狙いは、ナイフを弾き飛ばし、覆っている魔力が乱れた右腕。角度的に、当たれば右腕を消し飛ばせる。
未来が見える。その眼は、どうしようもなく厄介だ。何秒後が見えるのか、正確には分からないらしいが、少なくとも一秒後は見えている。そして、僕達の戦いで、一秒とはどれだけ長い時間か。
ならば避けられない攻撃を、避けられない未来しか見えない攻撃をすればいいだけのことだ。
今度は神山さんが飛び退く番だった。数センチ消し飛んだワンピースの裾を驚いた表情で見てから、神山さんは「うわぁ!」と笑った。胸に当てた右腕には傷一つなく、ワンピースも避けた拍子に当たっただけだった。
「すごい! 今のは未来が追っ付いてこなかった!」
無邪気に喜ぶ姿に、思わず笑みが浮かぶ。
「初めてだよ、こんなの! ていうか、高峰君具現化とか初めてでしょ? 一発成功?」
頷くと、神山さんは「すごい!」と二、三度手を叩いた。拍手のつもりらしい。
「凄くないよ。一度に具現化出来るのは一つまでみたいだし」
「へぇー……。私、具現化って苦手なんだよね。手が埋まっちゃうっていうのが」
右手を握ったり開いたりする姿に、なんとなく納得した。神山さんって、そんな感じがする。
「でも久し振りに使ってみようかな、具現化。せっかくの楽しいバトルだし」
神山さんの右手に集まった魔力は身の丈ほどある刀に変わる。
ナイフと比べるとリーチの差では完全に負けているが、同じ武器を僕が使ったところで、ただでさえ大きい隙が更に増えるだけだろう。
僕が身構えると同時に、神山さんは一気に距離を詰め、刀を薙ぐ。
魔力で具現化した武器に重量はほとんどないため速度は変わらないが、やはり振りは僅かに大きくなる。
先程よりは少し余裕を持って、あえてギリギリのところでかわした。が、一瞬、刀がブレたように見えて、咄嗟に上半身を後ろに倒す。
鼻先スレスレを斬撃が通っていったのを見ながら、右手にナイフを持ち、倒れながらも投げる。それは軽々と避けられたが、体制を立て直す程度の隙は作ることが出来た。
今度は時間を置かない。一息に懐に飛び込み、カウンター気味に振られた刀を更に腰を落として避ける。目前に迫ったがら空きの腹部を狙った突きは紙一重のところで後ろに跳んで避けられ、またしても服を僅かに切り裂くだけとなった。
このまま攻めていけば、いつか攻撃を当てられる自信はある。だけど、そのいつかが早く訪れる保証はない。
あくまでも、狙うのは短期決戦だ。
そして今なら、神山さんは避けられない。
先程避けられて、神山さんを背後に落ちているナイフに目を向ける。
神山さんは僕が武器を一つしか具現化出来ないと思っている。そして、死角からの攻撃で察しがついた。未来が見えるのはその視界の中だけだ。魔力を目に集めることによって視力が良くなったり視界が広がったりという効果はあるが、今の状態の僕でも真後ろを見ることはできない。背後から来る攻撃を避けることは、神山さんでも難しいはずだ。
手の中にあるナイフの柄を握り、神山さんに向けて地面を蹴る。それと同時に、背後のナイフを操作。神山さんの背中に向けて最速で動かした。
僕は囮だ。完全なる一対一で、囮や奇襲の可能性を考える人などいない。
神山さんは刀を消し、全身を完全に隠すほど大きな盾を具現化した。守りに徹する反応は予想外だったが、この攻撃を防がれる分には何も問題はない。
そう考えた瞬間だった。
突然、視界に影がかかった。その理由を考える前に、身体が動く。
飛び退いた瞬間、神山さんを囲むように降ってきた大量の盾は、手に持っているのと同じ形のものだった。神山さんの背後、間近まで迫っていたナイフは、盾によりあえなく霧散する。
失敗、ではない。完全に防がれた。盾が消え、砂埃の中に見えた、得意気に笑う神山さんの顔がそれを肯定している。
嘘がバレていた、あるいは死角であろうと未来を見ることは可能なのか。いや、もしかすると、何も見えない未来が見えたのだろうか? 全方位に向けた防御はそのため? 訊いたところで答えてはくれないだろう。
「小細工は通じないよ、高峰君」
砂埃が晴れ、神山さんの笑顔が鮮明になる。
「小細工って油断している相手にしか効かないものだからね」
確かに、僕が神山さんの嘘に騙されたのは、油断していたからかもしれない。あの神山さんが苦手な魔法なんて、ある筈がないというのに。
「この戦いが終わったら、全力で戦っても負けるかもしれない勝負なんて出来なくなるんだし、最後くらい正面からぶつかり合おうよ」
刀を具現化し、切っ先をこちらへ向ける。その目は真剣、だが愉楽が隠しきれないかのように口元は笑みを浮かべていた。
一対一。小細工無し。正面からの真剣勝負。男なら一度は憧れそうな状況。しかし相手は同い年の女の子。華奢で、子供っぽくて、そして告白までされた。
それでも、口角が上がるのを抑えることは出来なかった。
依千さんへの罪悪感によって忘れていた、この力を手にした時の快感が蘇ってくる。
そして、その力を全力で試せる相手がここにいる。
源治さんの本当の目的は、呪いの完全解呪ではなく、封印された魔力を争いに利用すること。そして、同じ目的を持っている梅津家とは協力関係にある。
神山家壊滅後、一人で調査を進め、その事を知っていた神山さんは、三年前、佐竹家梅津家双方に動きがあるのを見て、佐竹家に入り、内部から更なる調査を進めた。
結果、判明したのは、封印された魔力を梅津家に見せる計画が進んでいるというものだった。
方法は簡単だ。梅津家に挨拶という名目で依千さんを外に連れ出す。そこを襲撃させ、依千さんに解呪を使わせる。その時、魔力を受け止めるのは、近くにいる護衛を適当に使うつもりだった。
その計画を知った神山さんは、怒りのまま梅津家当主を殺害。続いて依千さんを連れて行こうとして、和羽さんに阻止された。
これが、神山さんから聞いた三年前の全貌だ。
そして今回の梅津家への挨拶は、その計画の再開を目的としたもの。神山さんに釘を刺されどにも関わらず、計画再開に踏み出したのは、僕という存在がいたから。つまり源治さんや梅津家は、神山さんと戦うことになったとしても僕なら勝てるという判断を下したのだ。
そして梅津家は滅ぼされた。神山さんが言ったように、調子に乗ってしまったために。
もしかしたら、これすらも源治さんの思惑通りなのかもしれない。僕の力を見るために梅津家と協力して、僕と依千さん、伶さんを襲撃。その罪を擦り付け、反撃という体で争いを起こし、松戸家を制圧した。そして梅津家がいなくなった今、佐竹家と並ぶ魔術師集団はいなくなったことになるのだから。
「……どうでもいいか」
小さく呟いた言葉に、神山さんが首を傾げた。
「なんでもないよ」
神山さんの言うとおり、今は戦いに集中しよう。
右半身を引き、指を軽く曲げて掌を上に向けた左手を前に出して中腰に構える。
「様になってるね。カッコいい」
「ありがとう」
そういえば、春日部さんは源治さんのことを知っているのだろうか。佐竹家のお手伝いさん的ポジションの人だ。何も知らないとは考えにくいが――。
ふと浮かんだ疑問を振り払う。
集中、集中。する前に、もう一つ、質問が頭に浮かんだ。
神山さんが構えたのを見て、ゆっくりと口を開く。
この質問の答えを神山さんが口にした瞬間が、再開の合図となるのだろう。
「神山さん」
「ん?」
僕も神山さんも、口を開きながらも構えは解かない。
「まだ、僕のことは好き?」
我ながら突拍子のない質問だが、神山さんは驚きを欠片も見せずに笑う。
「大好き」
そして僕らは、地面を蹴った。
『彼女が久し振りに私を訪ねてきた。研究の関係で呼び出すことはあるが、自発的に私のもとへ来ることなど、今までに何度あっただろうか。
開口一番、彼女は『一目惚れした』と言った。私はこれまで恋愛的意味合いの一目惚れをしたことはないが、年頃の子供が学校に通っていれば、そういう経験をすることもあるだろう。感覚で生きているような彼女なら特にそう思う。
そうなのか、という我ながら無関心な返事に、彼女は笑顔で頷き、その相手のことを事細かく話し始めた。
階段で運命的な出会いをしたことや、大人しそうだけど根暗そうでもある顔立ちのこと。しかし、その顔を見た瞬間にビビッときた、というイマイチ理解しがたい表現も混ざっていたが、彼女は終始笑顔だった。
研究の話の合間に、ちょっとした世間話をすることも最近は増えてきていたが、あんな表情を見るのは初めてだった。
彼女にとって私は悪である。それは彼女が決め、私も了承したことだ。しかし、今の彼女はそれを忘れてしまったような、私自身忘れてしまいそうになる表情をしている。
恋は盲目という言葉に初めて賛同した』
『彼女が一目惚れした相手は、高峰裕太。佐竹家の呪いの器になれる存在だった。佐竹依千といい高峰裕太といい、彼女が気に入るのは一般人とは程遠い場所にいる者だけだ。
本来なら彼女は、器が見つかった場合、有無を言わさず殺すつもりだったのだろう。器が見つかれば、佐竹源治が動かないはずがないのだから。
高峰裕太を殺さなかった理由は一目惚れだけだろうか。彼女ならそれも十分有り得ることだと思う。しかしそれだけでないとすれば、彼女は高峰裕太に何を期待しているというのだろうか』
『三日振りに彼女が訪ねてきた。高峰裕太のこと、佐竹家と接触したことを訊くと『耳が早いね』と笑った。
高峰裕太にはフられたと言っていた。私から見れば当然極まりないことだが、そんなことは彼女とて百も承知の上だろう。彼女の予想では、高峰裕太は佐竹依千か佐竹伶のことが好き、あるいは気になっているらしいが、彼女が交際を断られたのはそれ以前の問題だろう。しかし、彼女の中でその予想はほぼ確定事項らしく、私に『どっちだと思う?』と訊いてきた。
私は佐竹家の双子に会ったことがない。知っているのはせいぜい顔くらいだ。それも二人ともほぼ同じ顔立ちなため、比較の役には立たない。
しかし、まぁ。呪いのことを考えると、佐竹伶の方を選ぶのが一般的ではないだろうか。
その考えを端的に伝えると、彼女は『はっ』と鼻で笑った。どうやら彼女とは意見が合わなかったらしい。
女心が分かってない、と言う彼女に、高峰裕太は男だと内心で訂正した』
「負けちゃった」
両足で立つ力もなくなったのか、崩れるように尻餅をついた神山さんに残された魔力は、吹いたら消えそうなほど小さなもの。
あとは、距離を置いて攻撃していれば、数発で終わる。それが出来る程度の魔力が僕には残っていて、それを防ぐ魔力など神山さんには残っていない。紙一重でよけ続けても、せいぜい四、五発が限界だろう。
それが分かっていても、僕は神山さんの前まで足を進めた。
「へへ」と力ない笑みを浮かべる神山さんの両手の指は関節を無視してあらぬ方向に曲がっているか、関節部分から吹き飛んでいる。最後の一撃を受け止めた際のものだろう。身体強化中はある程度痛みが軽減されるとはいえ――。
「高峰君の肋骨、たぶん折れてるから、あとから相当痛いよ」
お互い様というように笑う神山さんだが、額に浮かんだ汗で、痛みを堪えているのが分かる。
魔力が多ければ多いほど痛みが緩和されるのか、それとも戦闘による興奮状態で痛みを感じないだけなのかは分からないが、他の部位とさほど痛みの差は感じない。でも、確かに一度クリーンヒットを許してしまった箇所だ。おそらく、神山さんの言葉は正しいのだろう。
「……神山さんは、これで良かったの?」
「うん」
人によっては頭にきてもおかしくない僕の問いに、神山さんは真剣な表情で頷いた。
「こういう状況を作ったのも私だし、こういう展開も予想しなかったわけじゃないから」
「……やっぱり、神山さんの考えることはよく分からないよ」
「うん、私も」
神山さんは歯を見せて笑うと、僕を見上げたままゆっくりと瞳を閉じた。
「さ、終わらせて? 魔力切れで痛い思いするのも、泣くところ見られるのも嫌だし」
穏やかな表情と言葉に、心臓が大きく跳ねた。戦闘による高揚感が急速に薄れていくのが分かる。そして、鈍い痛みが胸に走った。
痛い。どうしようもないほど痛い。立っていられないほど痛い。涙が出るほど痛い。吐くほど痛い。
「……高峰君」
先ほどまでとは逆。地面に膝と肘をついて吐瀉物をまき散らす僕を、神山さんが見下ろしている。溢れ出てくる涙とあまりの吐き気に頭がおかしくなりそうだった。胃の中にあるものすべてどころか、何もかも出てしまいそうな感覚。それなら、記憶をすべて吐き出したい。そんなふざけたことを、頭の隅で考えた。
ずっと地面を見ているせいで神山さんがどんな顔をしているのかは分からないけど、きっと困っているのだろうということは想像できた。そうじゃなかったら、いつもみたいに笑顔で軽口を叩いているだろうから。だから、神山さんは珍しく困っている。
ようやく涙が止まり、顔を上げると、眉尻を下げて心配そうな表情があった。折れ曲がり、欠損した手をこちらに向けて、僕と目が合うと、サッと引っ込めた。
それでも、彼女は泣いていなかった。
神山さんは流されない。他人にも、空気にも。ただ自分の感情のまま動く。自分がやりたいことのために手段は選ばず、誰かのために誰かを傷つけたり殺したりもする。そこに自分はあるのだろうか。きっと、神山さんは頷く。自分のためにやっていることだと。そういうところは、依千さんとそっくりだ。流されず、自分と誰かのために動けるところ。
それは、自己犠牲だ。自分のためだと言いながら自分を犠牲にして、大切な誰かの奇跡を願っている。そして二人が望んでいる奇跡は、相手は違うが同じもの。自分自身には、どうやっても訪れない日常だ。
そんな人を、なんで僕が殺さなきゃならない。いや、そうじゃない。相手が神山さんだからとかじゃなくて、最初から誰も殺したくはなかった。覚悟は出来ても、本心まで変えることは出来ないから、何も考えず、ただ流されていただけだ。
「ごめん。僕には、神山さんを殺せない」
「……なんで?」
「骨折の痛みで、もう動けない」
僕が答えると、神山さんは静かに微笑み、
「そっか。高峰君だって、そうだよね」
そう言うと、折れ曲がり千切れかけの人差し指の先端を自分のこめかみに近付けた。
「これが、私の最後の殺人」
指先になけなしの魔力が集まるのを見た瞬間、僕の右手が勝手に動いた。
神山さんの側頭部と指の間に滑り込ませた僕の手は、神山さんの千切れかけていた指を完全に千切り、そこに集まっていた魔力は行き場を失い、小さな爆発を起こした。
神山さんは横に倒れ、僕は膝を地面についた状態で右手首を抑えた。
「……高峰君」
地面に手首をつきながら上体を起こした神山さんは、僕に顔を向けると目を見開く。片側の耳からは血が垂れていた。
「なんで、防がなかったの?」
それほどの魔力は、もう残っていない。魔力を硬質化させれば防げたかもしれないけど、弾いて神山さんに当たったら、手を出した意味がない。
出来る限り、魔力を緩衝材にしながら、爆発を右手で包み込んだ。そうでもしないと、僕も神山さんも死んでいただろうから。
「ごめん。でも、神山さんには死なないで欲しい」
「……右手、なくなっちゃっても?」
左手で抑えている手首の先、ただ血が流れ出ているだけの箇所を見る。指も、甲もない。
「左利きの練習するよ」
おどけて言ったけれど、神山さんの顔に笑みは戻らない。
「私を殺さないと、後悔するかもよ?」
「いいよ」
「……高峰君って、意外と馬鹿?」
初めて見た心底呆れた表情の神山さんに笑顔で返す。
「僕は、昔から馬鹿だよ」
その方向が、少し変わっただけで。




