1.かわいそうな貴婦人ディアナ
よろしくお願いします。
夫を殺してしまった。
「え、うそ……」
ディアナは呆然とした。
悲しみはなかった。あるのは衝撃と、これからどうしようという不安だけだ。
「も、もしもーし、い、生きてますかー? もしもーし?」
ゆすっても起きない。
確実に死んでいる。
「……っ!」
ひゅっと息を飲み込む。血の気が引いた。
周囲にはむっとするような鉄の匂いが充満していた。それが部屋からのものなのか自分からただよっているものなのかディアナには区別がつかない。息をするたびに自身の口の中からむせかえるような鉄の味がするからだ。
ぽたぽたと血がしたたる。それは自分の顔から流れる鼻血だった。
ふと顔を見上げると壁に掛かった姿見が目に留まった。そこにうつる自分の真っ赤に泣きはらした黄金の瞳と目が合う。
ディアナの顔は見るも無惨な状態だった。気弱そうな細い眉の下には数日前の傷が青たんになっており、鼻の横から左頬にかけてはつい先ほど殴られたせいで真っ赤に腫れていた。したたる鼻血とはまた別に唇は切れて出血している。
元々天然パーマではあるものの、さらに乱れてぼさぼさの黒髪も相まってまるでおばけの顔みたいだ。
しかしそれも見慣れてしまった。結婚してからのこの三年間は毎日似たような状態だった。だから今はそんなことは些細な問題だ。
問題は、床に広がるおびただしい血液の海。
その海の中に溺れるように、彼女の夫、カークス・レーヴラインは死んでいた。
ディアナが殴り殺したのだ。
「……っ!」
手に持っているなんだか高級そうな角張った置物からも血がしたたっている。
彼女の夫、カークスは『とんでもないくそ野郎』だった。
ディアナが結婚したのは一七歳の春。夫のカークスは五歳年上の二十二歳だった。
いまから約三年前のことだ。
ディアナの実家、ゼーテ伯爵家はかつてはそれなりに栄えたがいまや没落寸前の貧乏貴族だ。そんな家の娘など本来ならば結婚してくれる相手などいないが、そんなディアナにも縁談の話がきた。
かなりの名門、レーヴライン侯爵家から。
レーヴラインはこの帝国の四大公家と呼ばれる由緒高い家のうち、ズード公爵家に連なる血筋である。
そんな名門貴族からの縁談の打診など、あからさまにきなくさい。
罠があるに決まっている。
しかしそれにすがらないわけにはいかなかった。
本当に、切羽詰まっていたのだ。
親類になるにあたり、それなりの融資と商売の取引もしてくれるという話に、ディアナは飛びついた。
罠であったとしても、自分ひとりが耐えれば領地の復興資金が手に入るのだ。そうすれば家族も領民も助かる。
よくある話だ。そうして入ったレーヴライン家には案の定、罠があった。
ひとつ目は愛人。
夫となるカークスにはすでに愛人がいた。
相手が平民ゆえに結婚できなかったらしい。つまりディアナとの結婚は隠れ蓑。跡継ぎさえ生めば用済みというわけである。
それはいい。
問題はふたつ目の罠だった。
輝く白銀の髪に青い瞳をした鍛えられた体躯をした美丈夫な男。
その見た目だけはいい男に、結婚して即日、ディアナは殴られた。
「特に意味はない」
突然殴られて呆然とするディアナに彼はそう告げた。
「おまえは俺のうさばらしの道具だ」と。
そう、カークスはとんでもない暴力夫だったのだ。
それから三年。
ディアナは耐えた。
「この愚図が、子も生めないのか」
暴言にも。
「外に出てくるな、飯? そのへんの水でもすすってろ」
絶食にも。
そして絶えることのない暴力にも。
確かに『金目当ての結婚』だった。
ディアナにもそれは恥ずべきところがある。しかしーー。
これほどまでの横暴を許されるほどに、ディアナの行為は罪深かったのだろうか。
一度だけ、抵抗とも呼べないささやかな抵抗をしたことがある。
「わたしは人間です。やめてください」
震える声で、ディアナはそう訴えた。
それに返ってきたのは無言の拳だった。
その時、ディアナはすべてが無駄なのだと悟った。
ディアナの話す言葉には意味はなく、ディアナの行動にも価値はない。
義母に訴えても「それがあなたの務めよ」と鼻で笑われるだけだった。
使用人たちもディアナがまるでいないかのように通り過ぎていった。
それでも耐え続けたのは、かろうじて心の支えがあったからだ。
家族と領地。
ディアナがここにいるだけで、今頃領地は潤っているはず。
(いや、本当にそうだろうか?)
本当に家族のためにディアナは耐えていたのか。
ただ単に頭が回らず、重大な決断をなにひとつ下すことができずに、ただ漠然と縮こまっていただけではないか。
時間を問わずに暴力をふるわれて睡眠もろくにとれず、食事もないことのほうが多い。
そんな状態のディアナの頭にはいつしか霞がかかり、思考はまとまらず、ただうずくまってくだらない妄想をする時間ばかりが増えていった。
このまま自分はここでみじめに死ぬのだーー、という恐怖。
それとは対象的にいつか誰かが助けに来てくれてすべてがうまくいくーー、という希望的な思考。
わけがわからなくなるまでそれを繰り返す夜と朝が続き、冬を耐えしのぐ虫のように丸まってただひたすら苦痛が通り過ぎるのを願って願って願って願ってーー、その結果、
(殺してしまった……)
呆然とする。
確かに今日の暴力はいつもに輪をかけて酷かった。殴る蹴るだけではなく首を絞められたのだ。息ができず殺されると思ったディアナはとっさに周囲に手を伸ばし、手に触れた物をしゃにむに振り回した。
それが彼の脳天にクリーンヒットしたのだ。
「え、どうしよ……」
このままだと実家に金が入らなくなってしまう。
とっさに思ったのはそんなことだ。
殴られて痛かったはずの頬ももう痛くない。
動揺しすぎて感覚がないのだ。
(せっかく家族の役に立てると思ったのに……)
そのために結婚したというのに。夫を殺してしまうなんて考え得る限り最悪の行為だ。
その時、
「……っ!?」
きぃ、と小さな音がした。
ディアナは弾かれたように顔を上げる。
扉の開いた音だ。
「これは……」
そこにはカークスの弟、エリアスが立っていた。
次は本日15:40頃投稿予定です。




