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第3話 【煮沸魔法】で毒素を旨味に変換

 人は、推しが幸せそうに温かいごはんを食べている姿を見るだけで、確実に寿命が延びる生き物である。


 少なくとも私はそうだ。

 これはもう、全宇宙の真理として確信をもって言える。

 昨夜、冷え切った地下室で怯えきっていたレオン様が。今朝、蜂蜜入りのホットミルクを両手で大事そうに抱えながら、こくり、こくりと少しずつ飲んでくれたあの光景。

 あれを間近で拝めただけで、私は向こう十年くらいは不眠不休で働ける気がしていた。


 いや、十年どころではない。

 なんなら一生分の生きる気力が、一時的に前借りされた感すらある。

 尊い。あまりにも尊い。朝の光を浴びた推しの銀髪はそれ単体で国宝指定すべきだし、温かい食事にほっと息をつく横顔は保護指定の芸術品だし、何より「おいしい」と小さく呟いてくれた時点で、私がこの世界に転生してきた意味の八割は回収できた気さえする。


 しかし、現実はそんな幸福な余韻にいつまでも浸らせてくれるほど、甘くはなかった。


「……許せん」


 私は空になった食器を乗せたトレイを抱えながら、レオン様の部屋を出た廊下で、低くドスの効いた声で呟いた。


 今朝の食事は、私が厨房の隙を突いて直接確保してきたものだ。

 だからあの子は、ほかほかの温かいスープも、やわらかなパンも、甘いミルクも口にすることができた。


 けれど、もし私が動かなければ?

 いつも通り、あの継母派の使用人たちが食事を運んでいたとしたら?

 きっと氷のように冷めきった、あるいは露骨に量を減らされた残飯のようなものが出されていたのだろう。


 それだけでも腸が煮えくり返るのに、ゲーム本編の悲惨な知識を思い返せば、この公爵家でレオン様に向けられる悪意は、そんな生ぬるいものではなかった。

 食事への悪質な細工。

 衣服や日用品への嫌がらせ。

 冬場でも暖炉の薪を渡さない。

 使用人たちによるあからさまな無視と侮蔑。

 そして、直接的な『危害』。


 そう。

 ゲームの時系列的に、この時期にはもう始まっているはずなのだ。


 あの性悪な継母が裏で手を回し、“事故”や“体調不良”に見せかけて、幼いレオン様の心身を少しずつ削っていく陰湿極まりない嫌がらせが。


 しかも、ゲーム内のテキストではかなりマイルドにぼかされていたが、実際に生身でこの屋敷へ来てみてはっきりわかった。

 この家、思っていた以上に終わっている。

 陰湿さが想像の斜め上を突き抜けて、生々しい現実味を伴っていた。おい制作陣、これ全年齢向けの乙女ゲームに載せるにはだいぶ業が深すぎないか? もう少しソフトフォーカスをかけてください。現場が文字通りの地獄なんですけど。


 私は空の器を抱えたまま、厨房へ戻る足を速めた。


 朝のピークが一段落した厨房は、先ほどまでの戦場めいた慌ただしさが少しだけ落ち着いていた。

 それでも火の入った大鍋はぐつぐつと音を立て、焼き上がったばかりのパンの香りが漂い、皿を運ぶ使用人たちが絶えず行き交っている。


 その中で、私は明らかな『違和感』を覚えた。


 視線だ。


 何人かの使用人が、ちらり、ちらりと品定めをするようにこちらを窺っている。

 それ自体は珍しくない。昨夜の件から今朝にかけて、私はかなり勝手な行動をしているのだ。下っ端メイドのくせに、レオン様へ勝手に食事を運び、勝手に世話を焼いている。継母派の者たちからすれば、面白くないに決まっている。


 だが、その視線には、単なる不快感とは別の、妙にねっとりとした含みがあった。


 ひそひそと交わされる囁き声。

 私が近づくと、さっと逸らされる目。

 そして、奥の配膳台にぽつんと置かれた、小ぶりの銀の蓋付きボウル。


 なぜだか、背筋が粟立つような嫌な予感がした。


「……それ、どなたのお食事ですか?」


 できるだけ自然な笑顔を装って問いかけると、配膳台の前にいた年嵩のメイドが、わずかに肩を揺らした。

 そして、あからさまに愛想のない、鼻にかけた声で答える。


「北棟のお坊ちゃまのものに決まってるでしょう」

「レオン様の?」

「ええ。昼前には少しお腹も空くでしょうし。旦那様たちのお食事とは別に、わざわざ軽いスープを用意して差し上げるのよ」


 差し上げる。


 その恩着せがましい言い方だけで、背中を虫唾が走った。

 さも慈悲深いことをしているみたいな顔をしているけれど、その目には薄暗い侮蔑と、悪意しか浮かんでいない。


 私はにこやかに微笑んだまま、そっとボウルに視線を落とした。

 白い湯気が細く立ちのぼっている。見た目は、ごく普通の野菜ポタージュだ。けれど――。


 ぞわり、と。

 首筋を、氷のムカデが這いずり回ったような悪寒が走った。


 なんだろう、この感覚。

 見た目は何の変哲もないのに、近づいただけで、私の本能が「絶対に触るな」「口に入れるな」とけたたましく警鐘を鳴らしてくる。


 まるで、食べ物の皮を被った“致命的な何か”が、そこにとぐろを巻いているみたいだ。


 私は極めて慎重に、声を潜めて尋ねた。


「……味見は、もう済んでいますか?」

「は?」

「ですから、お毒見というか。厨房での安全確認は」

「そんな上等な手間、あの子に必要?」


 返ってきたのは、くすりと鼻で嘲笑うような声だった。


 ああ、なるほど。


 理解した瞬間、胸の奥で煮えたぎっていたマグマが、逆にすうっと絶対零度に冷えきった。


 こいつら。

 本当に、やりやがったのだ。


 ゲームの中で何となく匂わされていた、食事への細工。

 それを、平然と、日常の家事の延長みたいな顔でやっている。


「でも、ご安心なさいな」

 別のメイドが、口元を隠してくすくすと笑う。

「すぐにどうにかなるようなものではないわ。少し体が弱るだけ。もともとあの子、ひ弱ですもの」

「そうそう。熱でも出して寝込んでくれれば、お勉強やお稽古も休めるでしょうし。かえってあの子のためなんじゃない?」

「公爵夫人様も本当にお優しいのよ。ああいう不吉な子は、表に出ないほうが周りのためでもあるものね」


 笑い声が、ひどく耳障りだった。


 あまりにも軽く。

 あまりにも当たり前みたいに。

 たった八歳の子どもの尊厳も、健康も、未来も削り取ることを、ただの井戸端会議のネタみたいに話している。


 私の中で、何かが完全にブチ切れる音がした。


 怒りで叫び散らしたくなる衝動はある。

 この場で全員の襟首をまとめて掴み、床に正座させ、「八歳児に毒を盛るな」という人として最低限の道徳を物理(拳)で一から十まで叩き込みたくもなる。

 だが、ここで感情的に暴れれば、警戒されて今後さらに陰湿な手を使われるだけだ。


 落ち着け、私。

 今、最優先すべきミッションは何?

 決まっている。


 最推しの胃袋と、命と、心を守ることだ。


 私は一度、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。

 そして、これ以上ないほどの極上の営業スマイルを作る。


「……でしたら、そのお食事をお運びするお役目、私が引き受けます」

「……は?」

「レオン様のお世話は、今朝からこの私が専属でしておりますので。昼の軽食も、責任を持ってこのままお持ちしますね」


 場の空気が、ぴりっ、と凍りついたように張った。


 メイドたちが、明らかに嫌そうな顔で私を睨みつける。

 当然だ。こいつらからすれば、せっかく仕込んだ『罠』を、ぽっと出の下っ端に横取りされる形になるのだから。


 けれど、ここで引いてたまるか。


「夫人様から何かお言いつけがあった場合も、私が後ほどきちんとご報告にあがりますので」

「ちょっと、勝手な真似をしないでちょうだい!」

「勝手ではありません。昨夜から、お世話を任されておりますので」

「誰に!?」

「私の、強靭な良心と鋼の意志に、です」


 しんっ、と。一瞬だけ厨房の空気が止まった。


 しまった。

 ちょっと勢い余って言いすぎたかもしれない。

 でも本音だから仕方ない。私は推し保護最優先で動くと魂に誓った女である。社会性や協調性というものは、時として尊い推しの命の前にひれ伏すのだ。


 案の定、何人かのメイドが鬼のように眉を吊り上げた。

 だが、騒ぎを大きくして自分たちの『細工』が明るみに出ることを恐れたのか、それ以上強くは止めてこない。


「……好きになさいよ」

 年嵩のメイドが、忌々しそうに吐き捨てるように言う。

「ただし、後で何か問題が起きても、私たちは一切知らないから」

「ええ、重々承知しております。何かあったら、きっちり皆様の顔とお名前を覚えておきますね」


 にっこりと、背筋も凍るような笑みで言い返して、私はそのスープのボウルを持ち上げた。


 ずしり、と。

 見た目以上の、呪いのような嫌な重みが手に伝わる。


 やっぱりおかしい。

 これ、絶対におかしい。


 ◇ ◇ ◇


 私は人目の少ない裏手の空き部屋へ駆け込むと、急いで扉を閉め、配膳台代わりの古い机の上にボウルを置いた。


 さて。

 クイズの時間です。


 私はいま、最推しに盛られた『遅効性の毒入りスープらしきもの』を前にしています。

 このあと私が取るべき最適解を答えよ。


 一、即座に床へぶちまけて、毒の証拠を残し告発する。

 二、厨房へ戻って犯人たちを物理で締め上げる。

 三、錬金術か何かでどうにかして無害化する。


 ……うん。

 できれば三がいい。

 ものすごく三がいい。

 証拠固めも大事だが、今は時間との勝負だ。お腹を空かせたレオン様を待たせている。

 なにより、せっかく温かい食事を前にして「これは危険だから別のものを用意します」なんて没収することになれば、あの子はきっと「やっぱり自分はまともな食事すらもらえないんだ」と、また心を閉ざして遠慮してしまう。


 私はボウルをじっと覗き込み、慎重に魔力を探った。


 前世の私なら当然、食品に毒が入っているかどうかなんて見分けられなかった。

 だが、この世界の『クロエ』としての感覚は少し違う。

 お掃除魔法の時と、まったく同じだ。

 “汚れ”や“悪いもの”が、直感的なノイズとして引っかかる。


 このスープには、確かに致命的な何かが混ざっていた。


 ポタージュの液面の下。

 野菜の甘い香りに巧妙に紛れて、ぬるりとした不快な気配が沈殿している。

 舌を痺れさせ、少しずつ内側から体を蝕み、魔力回路を塞ぐような、じっとりとした粘着質な悪意。


 うわぁ。

 ほんとにガッツリ入ってる。

 しかもこれ、かなり手慣れてる感じの、自然に『生まれつきの体調不良』へ見せかけるタイプの遅効性の毒だ。

 やめてくれ。陰湿さがカンストしている。


 私はきつく眉をひそめた。


 どうする。

 捨てるだけなら簡単だ。

 でも、それではまた別の形で、もっと巧妙に仕掛けられるだけだ。

 だったらここで、完全に無害化して、ついでに向こうの想定を全部根底からぶち壊してやりたい。


 その時、ふと脳裏に、私の無自覚チートな『生活魔法』の感覚がよみがえった。


 掃除。(結果:絶対防御の聖域結界)

 洗濯。

 整理整頓。

 そして――煮沸消毒。


 あ。


「それだ……!」


 私は思わず顔を上げた。


 そうだ。

 煮沸だ。

 家事の基本中の基本。食の安全を守る、偉大なる人類の叡智。怪しいものはまず加熱。心配なら煮る。とりあえずしっかり中まで火を通す。前世でどれほどこの概念に助けられてきたことか。

 ありがとう衛生観念。ありがとう熱処理。人類の文明、ここに極まれり。


 もちろん、ファンタジー世界の毒が、ただの煮沸でどうにかなるとは限らない。

 だが、私の生活魔法は、どうやら普通の“ちょっと便利”という枠を遥かに逸脱している。

 ただの掃除で国宝級の聖域が張られる世界線だ。煮沸なら、もしかしたら毒素そのものをまるごと分解、あるいは浄化できるかもしれない。


 私はボウルの両脇に、そっと両手をかざした。


「……よし。いきます」


 深く息を吸い、目を閉じて意識を極限まで集中する。

 思い描くのは、雑菌も不純物も、食べる人に害をなす呪いも毒もすべてを熱で吹き飛ばし、安心安全で栄養満点な状態へ整えるイメージだ。


 おいしくなれ。

 あたたかくなれ。

 悪いものは全部、一匹残らず出ていけ!


「【煮沸消毒】!!」


 カッ、と目を開いた次の瞬間。

 ふわり、とスープの表面が眩い黄金色に輝いた。


「……え?」


 ぽこ、ぽこ、ぽこっ、と。

 やさしい沸騰音が部屋に広がる。

 けれど、それはどう見ても普通の加熱現象ではなかった。


 液面の奥底から、じわじわと禍々しい紫色の煙が立ちのぼってきたのだ。


「うわっ、なにこれ!?」


 思わず一歩飛び退いた。


 煙はどろりと濁った色をしていて、見るからに身体に悪そうだった。まるで小さなドクロの形すらうっすら浮かんでいる気がする。

 しかもそれが、スープの中から“毒の成分だけを精密に選り分ける”みたいに、するすると抽出されて浮かび上がってくるのだ。


 すごい。

 いや待って、すごすぎる。

 これ完全に当たりだ。SSRスーパースペシャルレアの引きだ。

 私の生活魔法さん、想像の百倍くらい仕事ができすぎる。何なんですかあなたは。家事の皮を被った対暗殺用の国家機密兵器かなにかですか?


 紫の煙はしばらく空中でふるふるともがくように揺れていたが、やがて浄化の光に包まれ、ぱちんっ! と甲高い音を立てて弾けるように消滅した。


 その直後だった。


 ふわぁぁぁ……っ、と。

 ボウルいっぱいに、信じられないほど芳醇で暴力的なまでの『美味の香り』が広がった。


「…………は?」


 私はぽかんと口を開けたまま、硬直した。


 さっきまで、確かに見た目は普通のポタージュだった。

 いや、普通どころか、どこか不穏で泥臭い匂いが底に沈んでいたはずだ。

 それが今は、どうだ。


 まろやかで濃厚なミルクの甘み。

 丁寧にじっくり炒められたタマネギの深いコク。

 高級食材の旨味が幾重にも溶け合った、ふくよかで優しく、食欲をダイレクトに殴ってくる香り。

 その奥に、ほのかに感じる清涼な魔力マナの気配まである。


 なにこれ。

 なんで毒を抜いただけで、逆にめちゃくちゃおいしそうになってるの!?


 私は恐る恐る備え付けのスプーンでひとすくいし、ほんの少しだけ舌先に乗せた。


 次の瞬間、カッ! と目を見開いた。


「うっっっま……っ!?」


 声が出た。

 いや、出るでしょうこれは。語彙力が消し飛ぶ。


 おいしい。

 なんかもう、やたらめったらおいしい。

 さっきまで“とりあえず腹を満たせればいい”みたいな顔をしていたモブのスープが、突然“三ツ星の宮廷料理人が人生を懸けて生み出した至高の一皿”みたいな圧倒的風格をまとっている。

 しかも後味が異様にすっきりしていて、飲んだ瞬間に、身体の内側の魔力回路へじんわりと心地よい力が染み込んでいく感覚まであった。


 えっ、待って。

 これ、ただの解毒じゃなくない?

 なんかこう、毒の成分だけを反転させて、旨味と栄養と超強力な魔力回復バフに変換してません?

 そんなことある?

 いや、あってるな。この世界の無自覚チートな私の生活魔法なら、普通にありうる。怖い。便利すぎて逆に怖い。神様、設定ガバガバじゃないですか。


 私は黄金に輝くスープをじっと見つめた。

 淡い光が、表面にほんのりと揺れている。


 ……これ、絶対、普通の料理の範疇を超えてる。

 たぶん、体力回復とか、閉ざされた魔力回路の強制開通とか、そういうとんでもない付加価値までついてるエリクサー(飲む点滴)だ。

 どこまでやるんだよ私の家事魔法。衛生観念が高ぶりすぎて神秘の領域に達している。


 だが、非常に好都合だ。


 私はボウルを見下ろし、にやりと口角を上げた。


 いいでしょう。

 毒を盛るなら、好きなだけ盛ればいい。

 その毒ごと私が極上の美味に反転させて、推しの血肉と力にして差し上げます。

 悪意の完全なるリサイクル、ここに極まれり。ざまあ見ろである。


 ◇ ◇ ◇


 レオン様のお部屋へ戻ると、彼は窓辺の椅子にちょこんと座って待っていた。


 お掃除魔法で浄化された室内は、朝よりさらに穏やかで神聖な空気に満ちている。

 差し込む昼前の光が白いカーテンを透かし、きらきらと彼の銀髪を照らしていた。

 その姿は、まるで神様が気まぐれに人の世へ落としてしまった繊細な宝石みたいで、私は危うくトレイを持ったままその場にひざまずいて拝むところだった。


 危ない危ない。

 毎回尊さに即死していては話が進まない。

 今の私は限界オタクの顔を隠し、推しの生活基盤を整える、敏腕モブメイドなのだ。


「お待たせいたしました、レオン様」

「……クロエ」


 私の姿を見つけた瞬間、その蒼い瞳がわずかに、けれど確かにやわらいだ。


 ああもう。

 その小さな変化だけで、どんぶり飯三杯はいける。

 いや、今はスープだ。この最強のバフ回復スープを飲んでいただかねば。


 私はトレイを机に置き、食欲をそそる湯気の立つボウルをそっと差し出した。


「お昼前の軽いスープです」

「また、持ってきてくれたんだ」

「もちろんです。温かいうちにどうぞ」


 レオン様は遠慮がちにスプーンを取り上げた。

 けれど、口へ運ぶ直前で、ぴたりと動きを止める。


「……どうしました?」


 問いかけると、彼は少しためらったあと、震える小さな声で言った。


「前は、ときどき……これを飲むと、すごく気持ち悪くなった」

「…………」


 私は笑顔を顔面に貼り付けたまま、内心で完全に真顔になった。


 ああ。

 そうですか。

 やっぱり、そうでしたか。


 知ってたけど。

 ゲームの知識として知ってはいたけど。

 実際に被害者本人の口から、その怯えを含んだ声で聞くと、胸の奥に煮えたぎる殺意のマグマが発生するのを止められない。


 よくもまあ。

 こんな幼い子に。

 こんな、出された食事を警戒することすら覚えてしまうほど、卑劣な真似を。


 私はゆっくりと怒りの息を吐き出し、彼の前で静かに膝をついた。


「レオン様」

「……うん」

「これは、絶対に大丈夫です」

「ほんとに……?」

「はい。私が、ちゃあんと確認しました」


 嘘ではない。

 確認どころか、毒を極上の旨味に変換するという、意味のわからない錬金術的偉業まで成し遂げている。


 レオン様は私の顔をじっと見つめた。

 不安そうに、でも、私の言葉を確かめるみたいに。


 そして、おそるおそる、スプーンを口に運んだ。

 ほんの、ひとくち。


 その瞬間。

 彼の蒼い目が、ぱっ! と大きく見開かれた。


「……おいしい」

「はい」

「すごく……すごく、おいしい!」

「よかったです!」


 ふふっ、と喉の奥で笑いそうになるのを必死にこらえる。

 よかった。本当によかった。

 毒が抜けただけじゃなく、ちゃんと彼の口に合うおいしさになっている。


 レオン様はもう一口、次にもう一口と、ためらいがちだった最初とは違って、少しずつ素直に、そして夢中でスプーンを運んでいった。

 その青白かった頬に、ほんのわずかでも血色が差していくのがわかる。


 すると、途中で彼が不思議そうに首をかしげた。


「……なんだか、あったかい」

「温かいスープですから」

「ちがうの。お腹のずっと奥のほうが、ぽかぽかする」

「…………」

「それに、さっきまでちょっと体がだるかったのに……今は、すごく、力が湧いてくるみたい」


 私は沈黙した。


 やっぱりだ。

 これ、ただの解毒スープじゃない。

 死にかけていた魔力回路を強制的に修復・開通させる、超バフ回復効果つきだ。


 なんなんだ本当に、私のこの生活魔法。

 洗えば浄化、掃除すれば絶対防御結界、煮ればエリクサー級の回復食。

 家事の範疇が、国を守れる軍事レベルに達していませんか?

 私、もしかして前世で国でも救って徳を積みすぎたのかな。それとも家事に取り憑かれた古代の最高位聖女か何かの生まれ変わりなんだろうか。

 いや、そんな重い設定はいらない。私はただ、推しのために快適で安全な暮らしを提供したいだけの、一般オタクなんですが。


「クロエ?」

「はっ。すみません、ちょっと内心で自分の魔法へのツッコミが追いつかなくて」

「つっこみ?」

「いえ、こちらの話です。どうぞお気になさらず、全部召し上がってください」


 レオン様はまだ少し不思議そうにしていたが、それ以上は問わず、もう一度おいしそうにスープを口に運んだ。


 その様子を見ているうちに、私はふと気づいた。


 スプーンを握る彼の手が、昨夜よりほんの少しだけ力強い。

 目元の暗い陰もわずかに薄くなっている。

 呼吸も、朝よりずっと深くて安定している。


 たった一杯のスープ。

 けれど、その一杯が、この子の身体と心に、確かに『希望』を灯している。


 そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 食事は、生きることだ。

 温かくておいしいごはんを食べることは、「明日も生きよう」と思える活力になる。

 誰かが自分のために、安全なものを用意してくれる。その当たり前の事実が、どれほど人を救うか。私は前世でも、この世界でも知っている。


 だったら。

 私は何度だって作ろう。

 何度だって運ぼう。

 毒も呪いも悪意も、全部まとめて圧倒的なおいしさに変えて、あなたの明日の力にしてみせる。


「……クロエ」

「はい?」

「これ、好き」


 その一言に、危うく私の心臓が物理的に止まるところだった。


 好き。


 推しが。

 私の用意したものを。

 真っ直ぐな瞳で、好きだと。


 だめだ。

 語彙力が死ぬ。

 情緒が灰になる。

 推しの笑顔がまぶしすぎて直視できない。


 私はぎゅっと拳を握りしめ、どうにか限界化しそうな自分を抑え込んで平静を装った。


「でしたら、また作りますね」

「ほんと?」

「ええ。もっともっとおいしいものも、たくさん」

「……毎日?」

「毎日でも」

「ずっと?」

「ずっとです」


 一秒の迷いもない、即答だった。


 レオン様はしばらく私を見つめて、それから。

 ほんの少しだけ、嬉しそうに頬をゆるめた。


 その微笑みは、まだか細くて、壊れやすくて、けれど確かに温かかった。

 暗く冷たい水底に差し込んだ一筋の光みたいに、小さく、でも眩しい。


 ああ。

 救われているのは、もしかしたら私の方かもしれない。


 この子の笑顔をひとつ守れるたびに、前世で何度も噛みしめた「何もできない」という無力感が、少しずつほどけていく気がする。

 画面の向こうでただ泣くことしかできなかった私が、今はこうして、この子の目の前で温かいものを差し出せる。


 それだけで、もう。

 どんな困難があっても、何度だって立ち上がれる。


 ◇ ◇ ◇


 その日の午後。


 私は使用人用の廊下を歩きながら、わざとらしく、ご機嫌な様子で小さく鼻歌を歌っていた。

 気分がいいからではない。

 牽制だ。


 見ろ。

 私はぴんぴんしているし、レオン様も無事だ。そちらの陰湿な仕込みはまったく通じていませんよ、と。


 案の定、すれ違う継母派のメイドたちが、亡霊でも見たかのようにぎょっとした顔をしていた。

 中には、あからさまに青ざめている者までいる。


「な、なんで……」

「お食事、本当にお召し上がりになったのよね……?」

「体調を崩したって話は……」


 ひそひそと、焦ったような声が漏れる。


 私はにっこりと、最高に感じの良い笑顔で微笑みかけた。


「ええ、とてもおいしそうに、残さず召し上がっていましたよ」

「……っ!」

「なんだか、すごく元気も出たみたいです。お気遣いありがとうございます」

「そんな、はず……っ」


 そこで、一人のメイドがハッとして口をつぐんだ。

 たぶん、これ以上は余計なことを言いかねないと気づいたのだろう。


 私はその焦った顔を、しっかりと見た。

 覚えた。

 絶対に忘れない。


 今すぐ断罪はしない。

 でも記録ログは残す。

 推しに害をなす者の顔と声は、限界オタクの脳内記憶領域に最優先で永久保存される仕様なのだ。ナメないでいただきたい。私は推しの出演シーンなら秒単位で暗記できる女である。敵の所業も当然、クラウドにバックアップ済みだ。


 その時だった。


 北棟の方角から、ばたばたと慌ただしい足音が響いてきた。

 若い下男が、蒼白な顔で駆け込んでくる。


「た、大変です!」

「何よ、騒々しい」

「北棟の坊ちゃんの部屋に……あ、あの、近づけなくて……!」

「はぁ?」

「扉の前まで行くと、急に見えない壁みたいなものがあって! 体が重くなって……息苦しくて……それに、なんだか、すごく怖くて……!」


 私はぴくりと眉を動かした。


 なるほど。

 私のお掃除結界さん、今日も絶好調に仕事をしているらしい。


 レオン様のお部屋は、今や私のお掃除魔法によって極限まで浄化され、ぬくもりに守られ、どうやら『悪意を持った者にだけ選択的に物理的圧をかける』という、チート聖域へと進化している。

 つまり何か。

 推しを害そうとする不届き者には、自動で「お帰りください(物理)」をしてくれるオートセキュリティ仕様なのかもしれない。


 つよい。

 頼もしすぎる。

 私の生活魔法、もはや護国用の戦略兵器では?


「そんな馬鹿なことがあるわけ……!」

 継母派のメイドが声を荒らげて言いかけた、その時。


 ばちりっ! と。

 廊下の奥、北棟へ続く扉のあたりで、小さな白金の火花が散った。


 誰もが息を呑む。


 火花は一瞬だった。

 けれど、その場にいた何人かは、まるで見えない巨大な獣に威圧されたみたいに顔を強張らせ、悲鳴を上げそうになって数歩あとずさった。


 私は心の中でそっと合掌した。


 ああ……。

 レオン様のお部屋、完全にやばいレベルの聖域になってる。

 ただホコリを払って掃除しただけなんだけどな。

 ちょっと念入りに、「悪いもの全部出ていけ」って願っただけなんだけどな。

 どうしてこう、毎回スケールが私の想定の五段階くらい上へ飛んでいくんでしょうか。便利だけど怖い。いや、推しが守られるなら万々歳ですありがとうございます!


「……北棟へは、あまり近づかないほうがよろしいかもしれませんね」

 私がやんわりと忠告すると、年嵩のメイドがぎろりと憎々しげに睨んできた。

「あなた、何か知っているの!?」

「まさか。ただ、私が念入りにお掃除しすぎたせいで、空気が澄みすぎてしまったのかもしれません」

「そんなわけないでしょう!」

「そうですか? 私はけっこう、あると思いますけど」


 にっこり。


 相手のこめかみが、怒りでぴくぴくと引きつっている。

 でも知らない。私は何も知らない。知らないけれど、これだけは断言できる。


 これから先、レオン様に近づこうとする悪意ある者は、多少なりともこの“掃除済み聖域結界”に手痛く阻まれるだろう。

 そして私は、その隙にもっともっと手を打てる。


 食事も。

 環境も。

 教育も。

 全部だ。


 私は廊下の窓から、北棟の方角を見やった。


 見えないはずの結界が、陽光の中で淡くきらめいた気がした。


 その向こうにいる小さな推しは、今ごろ温かい部屋で、毒の消えたおいしいスープを飲み終えて、少しだけ穏やかな顔をしてくれているだろうか。

 そう思うだけで、胸の奥がやわらかく、どうしようもないほどの熱を帯びた。


 大丈夫です、レオン様。


 あなたを蝕む毒は、私が全部煮沸して、バフ飯に変えてみせます。

 あなたへ向けられる悪意は、私がひとつ残らず浄化して弾き返してみせます。

 そして、あなたの心と体を満たすものを、これからいくつでも、際限なく積み上げていく。


 だって私は、しつこいのだ。

 推しの幸福に対して、びっくりするくらい諦めが悪いオタクなのだ。


 前世では、ただ画面の前で祈ることしかできなかった。

 でも今は違う。

 私はこの手で、あなたの毎日を、運命を変えられる。


 たとえそれが、スープ一杯から始まる奇跡だとしても。


 ――この日を境に。


 レオン様は、私が運ぶ食事だけは、一切の疑いなく口にするようになった。

 他の使用人が差し出すものには、どれほど丁寧な顔をされても決して警戒を解かないくせに。私が「大丈夫ですよ」と言えば、素直に受け取ってくれるのだ。


 その事実が嬉しくて、同時に切なくて、私は何度も胸を締めつけられた。


 この子は、そうやって覚えてしまったのだ。

 誰の手から受け取るものなら安全で、誰の笑顔には毒が混じっているのかを。


 だったら、なおさら。


 その選別の先に、私だけではなく、もっとたくさんの安全と優しさを置いてあげたい。

 世界は全部が敵じゃないと、いつか思えるようにしてあげたい。


 まあ、現時点ではまず、私が全方位に目を光らせて物理と魔法で守るしかないのですが!

 任せてくださいよ。推しの健康管理、食事管理、メンタルケア、生活環境改善、ついでに敵の排除まで、限界オタクのメイドは守備範囲が無限に広いんですからね!


 私はこっそり、誰にも見えないように強く拳を握る。


 来るなら来い、毒殺イベント。

 陰湿な嫌がらせだろうが、回りくどい暗殺未遂だろうが、全部まとめて返り討ちだ。

 今後この屋敷でレオン様に盛られる悪意は、すべて私の家事魔法によって、彼の旨味と栄養へ変換される運命にあると思え。


 そうして私は、ふつふつと闘志を燃やしながら、次に備えて厨房の食材の在庫を確認しに向かった。


 推しを幸せにする孤独な戦いは、まだ始まったばかりだ。

 そして私はもう、誰にも止められない。


 だって、最推しのための貢ぎと世話焼きに、限界なんて存在しないのだから。

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