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場外:舞台裏

 黒瀬(くろせ)柚乃(ゆの)

 それが彼女の名前であった。

 モデル事務所「ORBIS(オルビス)VEIL(ヴェイル)」の社長、というのが彼女の肩書だ。

 所属モデルたちの活躍の場を広げるための、調査を兼ねた足場づくりの渡航の際に、それは起こった。

 発端は、早々と稼ぎ頭の地位を得たサキこと竜禅寺美咲の、映画試写会での一言。

 美咲自身にとっては最適解ではあるが、業界としては最悪手の、男性の影――というには直接的ではあるが――を知らしめるその一言。

 渡航先で事態を知った柚乃は、すぐさま事態の収拾を命じた。

「インタビュー形式での取材を受け入れて、弁明させなさい」

 この指示が更なる混乱を招くとは、予想もしていなかった。

 若手女性モデルであれば男性の影を見せない、というのは暗黙の了解であって、誰しもに共通する普遍の認識ではなかったのだ。

 それを週刊誌という媒体を通じて知った時、いかに自分が業界のルールに蝕まれていたか、柚乃は自省の念を強くしたものだった。

 柚乃が座す社長室のデスクの上には、その週刊誌。

 見開きのページにはそのインタビューが克明に印字され、白黒のコントラストが柚乃の視界を埋め尽くしている。

 柚乃が渡航先から帰ってきた時、それは世に氾濫してもはや収拾不可能であった。

 視線を上げたその先には、戦々恐々と立ちすくむ男性マネージャーの姿。

「それで彼女は?」

「……ご指示通り、なんとか引退を引き延ばしてもらっております」

「それは重畳」

 椅子に背中を預けると、抗議するかのような軋み音が響く。

 サキの発した一言の影響は劇的で、一瞬でトレンドとなった。

 その時はただ単に、偶像がひび割れた程度だったと言っていい。

 しかし、修復を見込んで、あえて週刊誌で発した続報は思いもかけない議論を世間にもたらした。

 一連のサキの言動は、是か、非か?

 ネット隆盛の現代、情報の伝達速度は凄まじい。

 それは事の是非についての議論も同じであり、また、その趨勢の結果も同じであった。

 それは大多数の好意的意見で纏まった。

 ――堂々としていて凄い。

 ――地に足がついている。

 ――芸能人にだって私生活がある。

 ――恋が綺麗の原動力だったんだ。

 などなど。

 その勢いに押されて否定的な意見は徐々に封殺されていき、ネット上では引退阻止運動なども起こっている。

 実際、事務所の電話はそれでパンクしていて、ケーブルを引っこ抜いている有様だ。

「やってくれたわね」

 マネージャーは身震いした。

 サキを管理できず、またフォローもできなかったことを責められていると。

「しかし、彼女があのような言動をするとは夢にも思わず」

「ええ、それは私も同じ」

 ――というか、誰も思わなかったでしょうね。

 柚乃は自分の予想を覆した少女の顔を思い浮かべ、唇の端を釣り上げた。

 そう、少女。

 弱冠十六歳の高校二年生。

 目力と言い、立ち姿と言い、その存在力に圧倒されて思わず声をかけてしまっていた。

 そばには友人と思しき、これもまた魅力的なモデル候補がいたのに目に入らないほどだった。

 もっと輝く。いえ、輝かせたい、私の手で。

 そう思って声をかけて、その後の会話の流れから、やはり自分の目に狂いはなかったと確信した。

 その場では受け流されたものの、思った通りに了承の返事が来た。

 モデルとしての仕事をごり押しした部分もあったが、すぐに周りをその魅力で虜にしていく様に、ほらごらんなさい、と得意げになったものだった。

 もっとも、誤算もあった。

 サキとしての活動は余暇に留める、という条件が出されたのだ。

 それはデビューしたてにしては不相応な要求であったが、柚乃としては余裕の仮面の下で飲まざるを得なかった。

 足元を見られた形ではあったが、学業優先という説明を聞いて、なるほど、と思わされて竜禅寺美咲のしたたかさを見せつけられもした。

 しかし旨みもあった。

 サキの人気が高まるにつれ、需要は増える。

 それでもサキ自身が供給を増やそうとしない。

 その事実は下手な人気では足枷となっただろうが、サキの前ではそれは当てはまらず、ファンにとっては飢餓感となって、希少価値を押し上げていく。

 サキを擁する事務所としてはこれ以上ない好循環であった。

 そんな関係を築けたと思ったら、今回の出来事だ。

 しかもサキは契約の不明瞭や引退までを口にしている。

 ――自立、しているのでしょうね。

 柚乃は思い返す。

「美しくなれますか」

 彼女はそう言っていた。

 あくまでモデルはその手段、それが自分に合わないなら別の手段を探すまで。

 そう、竜禅寺美咲にとっては、柚乃が歯を食いしばって育ててきたこの事務所も、その手段の一つに過ぎないのだ。

 女性モデルの立場を守る。

 そんな思いで立ち上げたこの事務所が、当の女性の立場を守れず逆に切り捨てられるなんて、あっていいはずがない。

「そ、それでどうしましょう。彼女にはこのまま、フェードアウトしてもらった方が事務所のためにもいいかと存じますが」

 マネージャーの耳障りな提案が響く。

「却下ね。彼女は得難い人材よ。世間の反応も考えると、手放す方がダメージは計り知れない」

「そ、それではどのように」

「開き直るのよ」

「ひ、開き直る?」

 柚乃は会心の微笑を、口元にひらめかせた。

「事務所公認、彼氏ありモデル。このトレンドを逆手にとって、そのパイオニアに祭りあげるのよ」

「……正気ですか?」

「確かに前代未聞よ。でもね」

 思わず、柚乃は苦笑を浮かべた。

「私たちにとっては型破りでも、彼女にとってはそれが普通なのよ。それを魅力として、全社を挙げてサポートする。いいわね?」

「わ、わかりました」

「今から幹部会議の調整をするわ。ありがとう、もう大丈夫よ」

「は、はい。それでは失礼します」

 責任追及を免れた形になったマネージャーは、そそくさと社長室を辞した。

 それを見届けて、柚乃はデスクに肘をついた。

「やってくれたわね」

 先ほど、マネージャーの前で発した言葉をつぶやく。

 そこにはいくつもの意味が含まれていた。

 マネージャーへの非難。

 事務所を混乱させたサキへの怨嗟。

 そして――あっさりと、女性モデルの地位を向上してくれた竜禅寺美咲への、感謝の念。

 特に最後は、その手腕に脱帽し、羨望する意味合いも籠っている。

 どうしたらそんなことができるのか、どうして自分は今までできなかったのか、と。

 余裕と自信が崩れ落ちそうになる。

「――さすがは、竜禅寺の秘蔵っ子、と言うべきかしら。

 竜禅寺の名だたる一族と違い、さほど目立った実績がないと言われていたのは、誰の目も節穴だったからか。

 それとも、突然化けたのか。

 だとしたら、そんな人材に巡り合えたのはもはや天啓と言っていいはずだ。

 逃してなるものか、このチャンス。と、柚乃は自分を鼓舞してタスクを整理する。

「まずはマネージャーの変更ね。保身ばかりじゃ、彼女の信頼を損ねるだけだわ。ああもう、最初からあんなのじゃなければ――」

 人材不足が悔やまれる。

 だが、この事態がなければサキの認識に気づけなかったかもしれず、そのずれは決定的なタイミングで露呈することになったかも知れない。

 それを考えればまだ修復可能な今のうちで良かったと思うべきだろう、と柚乃は結論付ける。

「さ、忙しくなるわ」

 言葉と裏腹に、柚乃の口元には生気が満ち溢れているのだった。



 モデル事務所オルビス・ヴェイルとしての謝罪会見などは開かれなかった。

 ただSNS上では、サキとの契約内容に認識の違いがあり、それは事務所が一方的に忖度を押し付けた結果でサキには何の非もないとはアナウンスされた。

 その上で事務所としてはサキの恋を応援し、所属モデルとしても一人の女性としてもサポートする体制を取ると発表した。

 これに、またも世間、ネット上は大きく揺れた。

 引退撤回への喜びに沸く中、当然サキ本人へとどんな相手なのかの質問が殺到する。

 サキ自身はSNSなどは実は展開しておらず、事務所が代わりに返答するに至っていた。

 それは次のようなものである。

「誰かを大切に思う気持ちに、説明が必要なのでしょうか」

 誰しもの胸に熱を灯すそのコメントに、ネット上は一気に沈静化した。

 その次に発生したのは、そっと恋を見守ろう、お手本にしよう、といった温度感の意見であった。

 要するに、事務所とサキの方針はおおむね認められたのだ。

 そうなると、両者の利害に重なる部分が出てくる。

「大好きなあなたと会うために」

 などと称して、コーディネートの特集記事が組まれ始める。

 これは事務所の戦略の一環ではあるが、竜禅寺美咲としての願望の発露でもある。

 事務所はモデルを売り込める、美咲は特定個人へ自分を売り込める、となるわけだ。

 なに公開の場を利用しているんだ、と美咲が叱られ呆れられた一幕も発生したが、それは柚乃の預かり知るところではなかった。

「……なんとか、いい方向へ流れてくれたわね」

 柚乃は安堵のため息をつき、雑誌上の輝く笑顔を振りまくサキに視線を落とした。

 この一ヶ月は生きた心地がしなかった。

 試写会の一件はサキには何の責任もなく、そうすると誰の責任かというと、サキが所属する事務所社長に帰する。

 つまり黒瀬柚乃はこれまで、その責任をなんとかするため、四方八方に謝罪も含めた行脚を行う羽目になっていたのだった。

「お疲れ様っす」

「本当よ。でも、まあ……」

 柚乃は肩の凝りからくる頭痛を堪えつつ、雑誌から顔を上げてサキ付きの新マネージャーを見た。

「竜禅寺のご助力がなければ、こんなにうまくいったかどうかってところよ――八重垣さん」

 柚乃の視線の先、社長室の一角を占めるソファーには、くつろぐ八重垣瑠璃子の姿があった。

 彼女はガラス製の爪磨きで爪の手入れをしており、柚乃には関心がなさそうに見える。

 先ほどの労いも、独り言のようだった。

「美咲さんについていなくていいの?」

「彼氏さんとラブラブ通話中っす。お邪魔すると怖いんで」

「そう、関係が良好そうでなによりね」

「本当にそう思ってるんすかー?」

 あくまでも爪に集中しながらで、瑠璃子の質問は何気ない。

 しかしそれに対して、柚乃の心は無風でいられなかった。

 けれど、それは今、表に出すべきではない感情だ。

「ええ、もちろんよ。それにしても、美咲さんに直にお礼を言いたかったのに、残念だわ」

「いらない、恩を着せられたくなかっただけだから。だそうっすよ」

「……手厳しいわね」

 そう、世間の情報操作には美咲が関与していた。

 自分をパパラッチしてきた者の手を掴むどころか懐をまさぐり、得た弱みをちらつかせる。

 あくまで、それぞれにささやかなお願いをした結果、相互作用を起こして世論にまで波及した。

 おまけに気づけば、ここ最近のごたごたに紛れて、オルビス・ヴェイルの株の何割かが別々の他者の名義となってもいる。

 その他者が誰に繋がっているのか――考えるまでもない。

 そうしていつの間にか、誰かにとって都合のいい環境が整備されていた。

 自分の牙城がぐらついている錯覚に柚乃は囚われたが――それは武者震いへと変わる。

「随分、楽しい綱引きじゃない」

「どういう感想でもいいっすけどね」

 ふっ、と瑠璃子は爪の先に息を吹きかけた。そうしてだるそうに立ち上がると、爪磨きをぶらぶらさせる。

「うちはさっきの言葉を伝えに来ただけなんで、そろそろ失礼するっすよ」

「ええ、ありがとう。美咲さんのスケジュール管理、お願いするわね」

「あいあい」

 普通の感性ではサキのマネージャーは務まらない。

 そう思って、一番近しいと思われるこの八重垣瑠璃子に声をかけた。

 彼女は美咲の近くにいられるならば、とその役割を快く引き受けてくれた。

 が、柚乃は彼女自身にも可能性を見出している。

 服装は学校帰りの制服を着崩しているだけなのに。

 形のいい胸が大きく主張し、腰の位置も高く、膝上のスカートからすらりと伸びる脚線が美しい。

 染めた金髪はサイドテール、それに合わせたような赤いカラーコンタクトレンズがどこか冷え冷えと光る。

 そして、いくつもの銀のピアスが煌めくその姿。

 コンセプトは明らかにギャルだけど、逆に言うと、どうしたらギャルに見えるか知っている。

 自分の見せ方を研究し尽くしている。

 ――光っている。

 もう、どこを磨けばいいのかわからないくらいに。

 だからこそ、問いかける。

「あなたはモデルに興味はないの?」

「ないっすね。うちが興味あるのは、ミサのことだけなんで」

「残念ね」

 この質問は何度かなされており、その度に答えは同じだ。

 しかし、今回はそれだけでは終わらなかった。

「そう、興味あるのはミサのことだけなんで」

 ぶらぶらさせていた爪磨きが消え、次の瞬間にはテーブルに垂直に突き立っていた。

「あんまり、変なことは考えない方がいいっすよ」

 軸のぶれない歩き方で、瑠璃子は静かに退室した。

 誰もいなくなり、しん、と空気のみがたゆたう社長室。

 そこに、生気のない声が混ざった。

「…………嘘でしょ……?」

 呆気に取られていた柚乃は、恐る恐るテーブルに近づくと、爪磨きに指を這わせる。

 そうして力を入れても、ぐらつきもしないことを確認すると、力が抜けたかのようにソファーに腰を落とした。

「……食い破られたりして」

 さすがに表情が引きつる柚乃だったが、瑠璃子が立ち去ったドアと爪磨きに視線を往復させ、額に手を当てた。

「……暗殺者系モデルとして売り出せないかしら」

 柚乃は商魂逞しかった。

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