変わっていく君へ
「ちょっと、今日は聞いてほしいことがあって」
いつものように美咲がうちを尋ねてきたが、いつものテンションは鳴りを潜めていた。
しおらしい、というよりは緊張感に満ちていて、ちゃぶ台に向かう姿勢も正座であった。
「というか、相談? ……なのかしら」
「俺で良ければ」
どうやら真剣なようで、そうとくれば俺もそれなりの聞く姿勢になった。
同じく正座になって、しばし待つ。
「えっと。まずはその……。この前……あの、いきなり結婚とか言いだしてキレたこと、ちゃんと謝ってなかったって思って。あの時は、ごめんなさい」
言うと、美咲は頭を下げた。
「別にいい。ちょっとびっくりしただけだしな」
実は度肝を抜かれたどころか、呆然自失になる程だったが、過ぎたことでもあるし。
「ありがとうございます。ホントに……我ながら、思い出すと痛々しかったわ、あたし」
ため息と共に、伏せた表情を歪めた美咲。
「若気の至りってやつだろ」
「ええ、ホントに。そ、それで、その……」
ちらちらと上目遣いでこちらを見てくる。
「えと、改めてなんですけど。あたしたちって、その……か、彼女と彼氏、ってことでホントにいいんですよね……?」
自信なさげなその様に、俺は思わず吹き出した。
「わ、笑わないでよ! し、真剣なの!」
「いや、わるい」
俺は咳払いをして、なんとか笑いを封じ込めた。
美咲はお気に召さないのか、口を尖らせている。
「何を今更、って思ったんだよ」
「そ、そう思ってくれるんだ」
今度は嬉しそうに、相好を崩す。
「で、で、なんですけど」
「なんでさっきから、ちょいちょい敬語なんだ?」
「ちゃ、茶化さないでよ!」
「わかった」
「そ、それでですねぇ……」
何度も深呼吸するが、緊張はほぐれないようだった。
諦めたのか、勢いをつけて前のめりになる。
「スキンシップってどんなことまで許されるのでしょうか……!?」
俺は軽く仰け反ってしまった。
妙な質問に空いてしまった間を埋める様に、美咲はまくしたててくる。
「こ、この前は腕のたくましさを堪能させてもらったし、肩も揉ませてもらって、この間はつ、ついに、キ、キ、キスだってしてもらったわけよ? 最大でそこまでなのか、それともそれが最低ラインのか、は、はっきりしてもらいたいの!」
なじるような口調ではあったがすがるような表情で、どうにも美咲も感情を持て余しているようだった。
「……そうだなあ」
対して俺は、難問を突き付けられて首筋に手を当てた。
こうなっては、さすがに曖昧にすべきではないだろう。
「美咲が高校を卒業するまで、手は出さない。それが俺の方針だったんだが」
「が!?」
食いついてきそうな美咲に俺は指摘する。
「よだれ」
「ん、んんっ。そ、それでそれで?」
美咲はハンカチで口元を拭って、背筋を伸ばした。
「早けりゃ中学生同士とかでも最後まで行くんだろうけど、俺にも立場があるし――」
言いかけたが、俺はため息でそれを打ち切った。
「――いや、言い訳だな。俺は、深い仲になるのが怖いんだ」
「――幸人さん」
目を見張ってしまった美咲を見ていられず、俺は顔を俯かせた。
「許せはした。もう過去にはなったと思う。けど、やっぱりトラウマなんだろうな。近づいたはいいものの、いつかまた突き放されるんじゃないか、とふと思ってしまう」
美咲の息を吸い込む気配を打ち消すように、俺は先んじて続ける。
「わかってる、美咲はそんなことをしないだろうって信じてる。俺が弱いからなんだよな、結局。勇気を出して言ってくれた女の子に、弱音を吐くことしか――」
衣擦れ、床を叩く音が連続した。
頬を両側から包まれ、無理やり顔をあげられ。
そうして俺は、美咲にキスをされていた。
数秒のそれが終わると、眼前には泣くのを堪えた、美咲の顔があった。
俺は膝立ちになった美咲の胸元に抱きしめられた。
「あたしが癒すわ」
勇ましい声が、胸を通じて響いてくる。
「ずっと信じていて」
「……ああ」
疑ったことはなかったよ、ずっと。
俺としては、随分恥ずかしい所を見せたと思っていたのだが。
美咲のそれは俺の比ではなく、ちゃぶ台に突っ伏してしばらく顔を上げられないほどだった。
「ど、どうしてもっと堪能しなかったの。っていうか押し倒せたじゃない。絶対いけたわ、あの流れ。ど、どうしてあそこで気絶しちゃったの、あたし……?」
違った、途中から悔恨のあまりの反省会になっていた。
自分がしたことに気づいて目を回してしまったことが、それほどショックだったか。
「まあ、今のところはあれが最大ラインってことなんだろうな」
「そんなっ!?」
顔を上げて愕然とする美咲。
が、俺と視線が合うと、たちまち顔を赤くして俯いてしまった。
「な、慣れるもん……! いえでも、慣れるのもなんかヤ……っ!」
「慌ただしい奴だな」
とは、言わずにおいた。
のんびりお茶でも啜ることにする。
「え、ええと」
ひとまず内心の葛藤にけりをつけたのか、美咲は気を取り直したように咳払いした。
「あと、もう一つなんだけど」
「ああ」
話はまだあったようだ。
とは言え、美咲は足を崩しているので、俺も特に気負わず聞く姿勢になる。
「……もうちょっと将来のことを、視野を広げて考えてみたいと思うの」
「うん」
「そ、そんなわけで、スカウトされたモデルをやってみようかと」
「……へえ」
その様はまるで、子供から大人へのグラデーションを思わせる艶に満ちていて。
見惚れた俺は、思わず気のない返事を返してしまっていた。
ぷくり、と正面にある顔が膨れ上がる。
「へえ、じゃないでしょ、へえ、じゃ! ちょっとは気にしてよ、可愛い彼女が悩んでるんだから!」
「なんだいきなり」
「いきなりじゃないの! 気にならないの、気立てが良くて魅力的な彼女のことが!?」
「修飾子増えてるぞ」
「まだまだ足りないわよ!」
「まあ、それは確かに。俺も時々、語彙の乏しさに歯噛みすることがある」
「そっ…………っ!?」
急ブレーキをかけられたかのような美咲。
と、その白皙が見る見る熱を持つと、それを見られまいとしてか顔を覆ってしまった。
「そ、それって、そそそ、そういうこと……!? 言外に褒められてる!?」
「まあな」
「ず、ずるっ! 直接的に表現しないことが数多の誉め言葉に勝るって何……!? どこでそんな高等技術習ったの……!?」
「気に入らないなら今後は控えるが」
「どうぞご存分にお褒め下さいませ!」
「落ち着かないやつだな」
「幸人さんが落ち着き過ぎなのよ……! うう、もおお、どう攻略すればいいのよ……!」
「落ち着けって。んで、モデルがなんだって?」
「うう、ホントにずるい……!」
とりあえず話を前に進めるため、己の制御に努めているようである。
日頃攻勢が激しい癖に、一度自分が防御に回ると壊滅状態になるのが、面白くて可愛い奴ではある。
「モデル! スカウト! 大手!」
「なんで片言」
半ば叫びながら差し出して来たのは、恐らくは大手モデル事務所の名刺であった。
恐らくは、というのは、俺はその手の業界に詳しくないので知らない事務所名だったからである。
「もお、ちょっとは嫉妬してくれると思ったのに。一緒の時間が減るじゃないか、とか」
「俺以外に色目を使うなよ、とかか?」
「いやあああああんっ! そ、それっ、そういうの! お、おかわり! おかわりプリーズ!」
「ああ、確かにお茶冷めてるな。淹れなおすか」
「冷めてるのは幸人さんでしょおおおっ!?」
立ち上がった俺に噛みつかんばかりの美咲であった。
表情はぷんぷん、腕をぶんぶん振り回す美咲を尻目に、俺はちゃぶ台上の二つの湯飲みを回収してお茶を淹れなおした。
その間に、ある程度は美咲の感情も収まったようである。
「要するに、道端でスカウトされたってことか? 今時名刺とは珍しい感じだが」
「そうね。それが逆に安心感になったところはあるけれど」
名刺を片目で見やって、言葉通りの美咲であった。
「調べてみたら、別に詐欺とかじゃないし。名刺渡してきた人もちゃんと在籍してて、コンプライアンスもしっかりしてるみたい」
「割と乗り気なんだな?」
「だって」
そこで美咲は、おずおずと視線を上げると俺を見つめてきた。
「そういうところで自分を磨けば、幸人さんがもっとあたしを見てくれるかもしれないし」
「……見ていないわけじゃないんだが」
「そういうことじゃなくって。……もう、わかって言ってる?」
「何がだ?」
「もお、いいわよお」
美咲は何やら不貞腐れて、つん、と顔を背けてしまった。
「そういった業界に身を置いてみるのも、いい経験にはなりそうだし。幸人さんだけが理由ではありませんからー」
顔を背けたままの、やぶ睨みな視線が突き刺さってくる。
というには可愛らしいが、と思うあたり俺も大分絆されている。
こんな表情もできたんだな、というのが俺の正直な感想だ。
ある意味甘えてくれている、ということなんだろう。
だから俺も、それには苦笑で答えることができるのだ。
「ああ、頑張れよ。まあでも――あんまり遠くに行かれると困るけどな」
きょとん、から呆然、を経て潤んだ瞳となるのに時間はかからなかった。
「こ、これはもうプロポーズとしか……!」
答えた結果、欲情した美咲を抑えるのが大変だった、とだけ感想を述べておこう。
「知ってますか、この娘!?」
職場の休憩室。
俺と亨がいつものように雑談をしていると、興奮気味に後輩の瀬戸が飛び込んできた。
丸顔の瀬戸はそこから連想されるふくよかな体形で、横幅の狭い休憩室の扉にぶつからんばかりだった。
「何の話だ、瀬戸」
「この娘ですよ、サキちゃん! 今一番の話題なんです!」
ファッション雑誌のとあるページを開いて見せつけてくる瀬戸だったが、顔面に押し付けてくるような近さなので何も認識できない。
「会社に何を持ってきてんだ」
言いながら押しのけると、視界に入るのはブランド物のバッグをぶらさげて街行く女性の写真だった。
「いいじゃないですか、休憩中ですし。それより、可愛いでしょう? 今、最推しなんですよー」
ちゃんと見せびらかすためか、瀬戸は休憩室のテーブルに雑誌を広げた。
「へえ、どれどれ?」
亨が覗き込む。
まあ付き合ってやろう、と俺もとりあえず眺めてみる。
さっきは雑に視界に入れただけだったが、こうしてみると可愛いと綺麗が同居した面立ちに、カジュアルな服装が映えている。
何よりその表情は待ち合わせた恋人を見つけたかのように輝いていて、翻ったスカートの裾を置いていかんばかりの躍動感に満ちていた。
「おお、確かにいいじゃん。瀬戸ちゃん、慧眼だぜ」
「でしょでしょー?」
得意げな瀬戸と一緒に雑誌を覗き込んでいた亨だったが、ふと何かに気づいたようにそこから顔を上げて俺を見た。
俺は視線を逸らした。
亨はその動きだけで得心したようで、少し落ち着きを取り戻したようだった。
「サキちゃんね。お年は?」
「なんとまだ十六歳! それなのにこの色気、たまらないでしょ!? 頭もいいらしくて、なんと英語も中国語も話せちゃうとか!」
ドイツ語もできるって言ってたな。フランス語はまだ勉強中だったか?
「ほー。才女ってやつか」
「ええ、芸術や音楽にも詳しくって、その表現がぴったりなんです! かと思ったら、ライトノベルやアニメも好きらしくて!」
「そりゃまた、すごいギャップだな」
「そうでしょう、そうでしょう! しかもスタイルよくって! 僕の女神ですよ!」
「ほうほう」
なぜ瀬戸がドヤ顔なのかはわからないが、付き合いのいい亨は上手く聞き流していた。
俺はその会話を背にして、早々に仕事に戻った。
内心は複雑である。
そう、瀬戸が連呼するサキちゃんは竜禅寺美咲その人なのだ。
デビューしたと聞いたのはつい一ヶ月前だったはずだが、すでに各紙の表紙を飾るまでになっていた。
俺が知る美咲は少々ポンコツなところもあるが、世間一般的には、道を歩けば十人が十人とも振り返る美少女である。
そんな彼女は、モデルとして映像媒体にも登場すると、優雅にしとやかに振る舞い、控えめで大人な笑みを浮かべる淑女であった。
それを見た時、誰だお前は、と突っ込んでしまったほどだった。
幸い、そばに誰もいない時だったので何らかのアクションを起こされることはなかったのだが。
仕事を終えた帰り道、立ち寄った書店で購読しているアニメ雑誌を手に取ると、その表紙はアニメキャラの衣装に身を包んだモデル、サキの姿。
俺にとってアニメ雑誌の表紙などある意味頂点なので、ついにここまで来たか、と感慨にふけってしまった。
「遠くに行ったもんだな」
と思ったのは、ほんの一瞬。
なぜなら、俺との接触の機会が減ることは一向になかったからである。
今日も今日とて、竜禅寺美咲は俺の家へとお茶をしにやってきた。
「くっはあ! やっぱり幸人さんが淹れてくれたお茶が一番落ち着くわ!」
ビールでも飲んだかと思う態度に、俺はこれが本当に同一人物かと苦笑を浮かべてしまう。
「控室とか、もっと上等なものが出るだろう?」
「現場直行直帰だし、口にするものは持参してるわよ」
「なら、よほどいい物を飲んでるか」
「でも、やっぱり幸人さんに勝るものはなしね」
「そりゃ光栄なことで」
飾り気のない笑顔に、俺は内心に熱が灯るのを自覚する。
これを独占していることに、ひそかな優越感さえ湧き上がり――大人の表情の裏で慌ててそれを押さえつけるのだ。
「けど、こんな頻繁に来て大丈夫か? 忙しいんじゃ?」
「心づかいが嬉しいわ……!」
いつもながら大袈裟なまでに喜ぶ美咲だった。
笑みを浮かべたまま、彼女は続ける。
「大丈夫、余暇でこなせるようなスケジュールにしてるから」
「してるから、と来たか」
デビュー間もない新人なわけだが、大層な人気者、もはや有名人となり仕事を選べる立場になったということだろうか。
相変わらず凄い奴である。
「あんまり露出が多いと飽きられるのも早いから、っていう戦略的な意味もあるけど、あたしまだ高二よ? 普通、そっち優先でしょ」
「そりゃ立派な心掛けだな」
まんざらお世辞でもなくそう言ってしまう。
俺が同じ年頃の時に、そんなに勤勉だったかどうか。
同じ立場だったら浮かれて、おろそかになる部分も出てくるだろうに。
「まあ、それは建前なところもあるけど……」
一転、恥ずかしそうにする美咲。
何かを言いたげに俺をちらちらとみてくる。
――ああ、自惚れでないならこれは。
「……あんまり無理すんなよ。俺との時間を作ってくれるのは嬉しいけどさ」
そういうことなのだろう。
当たっていたようで、身体の震えを抑える様にして、こらえきれない喜色がこぼれる。
「や、やったあ……! む、無理なんてしないわよ、絶対! 心身健康で幸人さんに会うのが最優先だもん!」
「……けど、有名モデルが男のところに来るって大丈夫なのかよ?」
それが気がかりなことである。
一転スキャンダルに発展しうることだし。
ところが、俺がそう口にした瞬間、美咲はなにやら下から貫かれたかのように身体を跳ねさせた。
「お、お、おと……!? ゆ、ゆゆゆゆゆ幸人さん? や、やや、やっとその気になってくれたのね? あ、あたしならいつでも準備万端よ、あなたの男であたしを女にしてちょうだ、いだっ!?」
「あほか、落ち着け」
暴走しだした美咲の脳天にぽかりと一発して、飛びかかってこようとした姿勢を改めさせる。
少々強めだったので涙目が返って来るが、言って聞きそうになかったので仕方がない。
「有名人にパパラッチはつきものだろ。その辺の心配をしてるんだよ」
「だからって叩くことないじゃない……」
頭を抱えて身を竦ませている美咲。
一つため息をついて、その頭を撫でた。
途端、笑みが顔からこぼれそうになる美咲。
それを愛おしいと思う俺を自覚する。
遠ざかる俺の手を名残惜しそうにしながら、美咲は髪型を整えた。
「対策済みだから大丈夫よ」
「対策?」
「そ。こっちを探る割に、探られることは想像の外なんでしょうね。だからかしら、出てくるわ出てくるわ。ちらつかせるだけで睨みになるから大丈夫なのよ」
「……あんまりやりすぎるなよ?」
言うが早いか、美咲の得意げな表情が嬉しさに変わり、身体を震わせた。
「ゆ、幸人さんの心づかいが沁みるわ。あ、あ、染みたらどうしよう」
「おい」
太ももをすり合わせる美咲に、いつまで「待て」が通じるか不安になる俺だった。
「幸人、あれ」
「ん?」
とある日の退勤時、大通りで飲みに行くか相談しながら歩いていると、亨が指差したものがある。
人だかりに囲まれた、通りに設置された大型モニターだった。
それは高い位置に設置されているので人の囲いに隔てられず、俺たちもモニターに映し出されている光景を見ることができた。
「サキちゃんだなー」
「ああ」
ふと立ち止まってしまう。
というより、見入ってしまった。
モニターの周りにいる人たちも同じようなものなのだろうか。
それは映画の試写会の様子で、サキこと美咲はゲストとして呼ばれたようだった。
疲れや寝不足の色は見受けられなかった。
俺はその様子に安堵のため息をつく。
自分の言った通り、心身の健康を最優先にしているようでなによりだ。
モニターの中では、美咲が主演男優に花束を渡すところだった。
「今日はお招き頂き、ありがとうございます。とても素敵な時間で、うっとりしてしまいました」
司会者に映画の感想を聞かれた美咲は、内容そのままの表情で出演者に視線を流した。
いつもと違った落ち着いたその様がとても色っぽく、視線の先の演者たちのみならず、俺の周囲でも熱いため息が漏れる。
「化けるもんだねえ。女優としてもやっていけそうだな」
素の美咲を知る亨が、しみじみとつぶやく。
同意見だった。
多彩な彼女だ、危なげなくやりきってしまうんだろうな、とも。
その道に進んだ美咲と、俺はどう接するべきなのだろう。
――接しないべきなのか。
そんなことすら思ってしまう。
いつか考えた釣り合いの話は、度々芽を吹き返す。
「いやあ、サキさんに見てもらえて本当に嬉しい! 僕、サキさんの大ファンなんで!」
「木羽くん、目がキラキラしていますねえ。さてサキさん、この映画は恋愛がテーマなわけですが、ご自身の恋愛事情はいかがでしょうか?」
「あ、僕も気になる! 誰か気になる人、いるの?」
年若い主演男優と司会者の会話が、いやでも耳に飛び込んでくる。
なにか、鉛が身体の芯に落ちたような気がする。
今すぐにでもこの場を立ち去りたいのに、身体が重く動かない。
だというのに、モニターの中の美咲は輝かんばかりの笑顔を返した。
「はい、います」
ざわり、という動揺はモニター内外から響いてきた。
「お、おい」
それが俺の口から漏れたものだったのか、それとも他の誰かか。
さざ波となって広がっていったそれは、質問した者たちにも強く動揺を植え付けた。
「こ、これは意外な返答が。お、お相手は? あ、僕とか? あ、ファンの人たちとか!?」
主演男優が身を乗り出したのは、動揺なのか期待なのか。
それに美咲は小首を傾げると、笑みのまま目を細めた。
「秘密、とだけ。わたしのとても大事な人は、一般の方なので」
少なくともあなたではない――言外の痛撃は主演男優を絶句させ、司会者を慌てさせた。
「あ、ありがとうございました、サキさん! では、この映画の見所などを、他の方にもお聞きいたしましょう……!」
気まずくなってしまった雰囲気を断ち切るような司会者を尻目に、マネージャーと思しき人物に連れられ美咲はその場をはけて行った。
インタビュー形式でその場は進んでいったわけだが、誰も彼も戸惑いつつだったので、まともな返答は出てこなかった。
半ば呆然とした俺と、難しい顔をした亨は、同じように困惑の色を強めるモニター前を立ち去った。
次の日、職場で待っていたのは雑誌を握りしめる瀬戸の泣き顔だった。
「サキちゃん、サキちゃんがあああ……!」
「せっかくの貴重な昼休みなんだから、もう少し景気のいい顔してくんねえか」
「出社しただけでも褒めてくださいよ!」
今日も休憩室は騒がしかった。
主に瀬戸の嘆きで、だが。
それに付き合う形になっている亨の対応も、さすがに雑になっていた。
「僕の天使が! 女神が! 推しがああああ……」
「うるせえな。つーかなんで来た。そんなショックなら有給でも取りゃよかったのに」
「もうとっくに使い切りましたよ! サキちゃんのイベントで!」
「ああそう」
とは言っても、今日の瀬戸はさほど使い物になっておらず、むしろ後始末に周りが奔走する羽目になっていた。
ちなみに俺も被害者の一人だ。
だから、この話題自体ももう終われ、という俺の提案もやっつけ気味である。
「卒業したらいいんじゃないか」
「そんな簡単にできませんよ!」
それは即座に却下されたわけだが。
「というか、あの伝説の試写会でもっとファンになりましたよ!」
「なんだ伝説って」
「なんでもっとファンになるんだ」
最初からだが、うんざりという感情を全く隠せていない亨と俺が続けて聞く。
「恋愛映画の主演男優が試写会で袖にされたんですよ!? 公式サイトに載る予定だった試写会の様子なんてきっとお蔵入り! あのスカした、名前なんてどうでもいい俳優のあの振られ顔、ほんとザマァでご馳走様でした! そうしたサキちゃんは匂わせどころか直撃でしたが、あの毅然とした態度に惚れ直したんです! ありがとうございましたぁ!」
「お前、結構性格悪かったんだな」
若干、距離を取って亨が、瀬戸の本音満載のセリフの感想を述べる。
対して俺は、顎を撫でつけて考え込んだ。
「そういう見方もあるのか」
伝説となったことではなく、美咲の発言そのものについてである。
ああいう時、その場のノリに迎合するのが思いつく対応だ。
ましてや人気急上昇中の女性モデルだ。
男の存在を明かすなど自殺行為、と普通は考える。
咄嗟に戸惑って本音が漏れた、という風でもなかった。
かといって自棄でもなく、ただそれが当然という風に見て取れた。
果たして、美咲はどんな心境でそれを表に出したのだろうか。
「やっぱり推すよおサキちゃああああああんっ!」
「うるせえ!」
とうとう我慢できなくなった亨が叫ぶ。
とりあえず今は、錯乱した後輩をどう扱うかが問題だった。
――あの試写会の裏側がついに明かされる!
そんな記事が週刊誌に踊ったのは、次の日の午後であった。
誰がそんな素早い対応を取ったのかはわからなかったが、それを熱心に確認した瀬戸の要約によると、美咲はインタビューに次のように答えたらしい。
「ええ、愛している男性がいます。結婚を前提に、押して押して押しまくっています。ただ彼はとても優しくて理性的で誠実な人なので、わたしがある程度の年齢になるまでは、頑固に手を出してくれず、そこにまた惚れ直しちゃうというか……え、なに、マネージャーさん? 恋愛事情はご法度? そんなの契約書にはなかったですよ? 暗黙の了解? モデルは男性の存在を匂わせないもの? なんですそれ? 大事な人の存在を抹消しなきゃいけないとか、どんな業界です? はあ、仕事がなくなる? 別にいいですけど。言ったように、大事な人を優先したら仕事なくなる業界とか、あたしおかしいと思うので。ということで、引退します!」
これに対し、世間は二分。
プライベート尊重は当たり前、という擁護。
プロ意識に欠ける、という批判。
しかし、女性たちの後押しもあり、徐々に擁護――というより熱狂が大勢を占めて行った。
そもそも女性の恋愛事情を聞くことはシンプルにセクハラであるし、返答を持て余すなど知ったことではない、というのが女性たちの大半の意見であった。
プロ意識についても、プロの背景には家族やパートナーなど支えてくれる存在があるもので、それらを前面に押し出せないとはどのような業界や文化か、と海外からも批判を受けることになってしまった。
もちろん、その批判の矛先は芸能業界やマスコミだ。
返ってサキの意識や意見は女性たちにとっての模範となりえるもので、そんな彼女の引退は文化の衰退、損失とも言われた。
そうして、世の女性たちの間ではむしろ若きカリスマとしてさらに名をあげ、男性たちの間では「それはそれ、これはこれ」として依然と熱視線を浴び続けている。
その影に、映画主演男優のセクハラまがいの言動に辟易していた女性共演者たちが「スカっとした!」と美咲の言動を称えて裏で活動した事実もあったらしい。
よって、美咲の引退発言は様々な方面の三顧の礼によって、なんとか引き延ばされているところである。
「すげえな。トレンド作っちまった」
「そう? 割と海外では当たり前の考え方で、日本が閉鎖的なだけなんだと思うけど」
「それを自然にできるのが凄い、っていう話だよ」
「まあ、幸人さんに褒められる材料が増えたのは嬉しいわね」
能天気に微笑む美咲に、俺は内心呆れるやら感嘆するやら複雑である。
聞けば、あの主演男優には度々言い寄られていたとのこと。
あの試写会を節目に過去のあれこれが掘り返されて立場が悪くなっているようだが、映画自体は逆に関心を引いて大盛況なのだとか。
主演男優をやり込めたかったのか、窮屈な業界の風通しを良くしたかったのか、モデル業を見切るきっかけとしたかったのか、俺には見当がつかない。
が、一つ確かなのは、美咲には一本の揺るぎない芯が通っていて、それをごまかす気も、貶めを見逃す気もない――ということだろうか。
そこまで考えて、俺は自問する。
果たして自分にそこまで貫けるだろうか、と。
俺にそこまでの覚悟や価値があるのだろうか。
それこそ、釣り合いが――。
「また難しいこと考えてる?」
細い指先が、俺の眉間に伸ばされていた。
それと共に、おかしそうな笑みも視界に入る。
俺は身を引いて、そこに刻まれた苦悩を伸ばすようにほぐした。
「そんな風に見えたか?」
「ええ。真面目なのは幸人さんの良い所だから、それをやめてと言う気はないけれど」
美咲は伸ばしていた人差し指を引き戻し、自分の唇に添えた。
そこに浮かぶのは、目を細めた不敵な笑みである。
「あれは女の矜持の話なの。だから最初から、殿方に出番はないのよ」
「殿方とか、また古めかしいな」
「お嬢様なもので」
カッコイイな、と素直に思う。
相手が俺でいいのか、と思う部分も確かにある。
けれど、美咲が女の矜持と言うのなら、俺にだって矜持があるのだ。
今更こいつを手放したくない、という想いが。
もっとも、それを言うときっとこいつは暴走し始めると思うから。
――俺も抑えられる自信がないから。
「まあ、ほどほどにな。見ていてハラハラする」
「あら、幸人さんを揺さぶれるなら、何度だってしちゃうかも」
終始、無難な会話に努めてしまうのだった――。
読んでくださり、ありがとうございました。
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励みにもなりますので、よろしくお願いします。
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