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決意の日

 あたしこと、竜禅寺(りゅうぜんじ)美咲(みさき)は頭を悩ませていた。

 幸人(ゆきと)さんの前の女、佐倉(さくら)千佳(ちか)と対面したのは一昨日のこと。

 凜花(りんか)お姉ちゃんとの久しぶりの楽しい会話中に入って来た一報がそのきっかけだった。

 それは幸人さんの親友――この称号は未だ受け付けないけれど――からだった。

「元カノ来たれり」

 まるで悪魔が吹く笛のようなそれに、あたしはいてもたってもいられなくて、凜花お姉ちゃんに謝罪と万が一の時のための幾ばくかの現金を置いて駆け出した。

 その場には藤井(ふじい)さんもいるみたいだから、あたしが危惧する事態にはならないかもしれないけど、それでも。

 幸人さんを傷つけた人と一緒にいさせるなんて、我慢がならなかった。

 そうして乱入して、あたしという存在を見せつけてやった。

 ――まではよかったものの。

 自主的に退場しようとしていた敵に、まさに塩を送ってしまったと聞かされてあたしは頭を抱えた。

 大失態。

 そういうしかなかった。

 正直、その日はもう考えるのに疲れて藤井さんも交えて幸人さんと遊んだり、晩御飯までご馳走になってしまって充実して帰った。

 ようするにヤケだったのだろう。いえ、藤井さんがいたとはいえ、楽しかったのは事実だったのだけど。

 けれど、日を追うごとに、あえて強敵を復活させてしまった事実があたしにのしかかってくる。

 学校に行っても、表面上はともかく、内心は落ち着かず気もそぞろ。

 だから、お昼休みにトイレに駆け込み、心を落ち着ける様に努めなければならなかった。

 洗面台の鏡に映るあたしの顔は険しい。

 それを自覚して、無理やり顔を揉み解し、ため息として吐き出さないと外見を取り繕えない。

 塞ぎ込んでたら、背中が丸まるし暗くもなる。

 幸人さんは、あたしの姿勢がいいと、可愛いと言ってくれた。

 だから、あたしはそうありたい。

 それがあたしの誇りだから。

 誰もいないことを確認して、大きく背伸びして、髪を撫でつける。

「よしっ」

 鏡の中のあたしは、微笑むことが出来ていた。

 外に出ると、お昼休みということもあって、廊下には人が溢れている。

 中でも目立つのは、一か月前までは存在しなかった男子生徒の姿。

 学校の方針が変わり、お嬢様学校から共学に変わったのだった。

 あたしにとって、歩くだけで視線が胸や腰にまとわりつくような現状は不快でしかない。

 けれど、さすがにそれが嫌だからと言って何かをする気も起きなかった。

 色々なものを振り切って廊下を行くと、待ち合わせ場所にしていた角には、アクセサリー塗れのスマホをいじる一際派手な女子生徒の姿があった。

 その子はあたしに気づくと、スマホを胸ポケットにしまってのんびり歩いてくる。

「やほ、リフレッシュはできたかな、ミサ」

 どこか猫なで声に聞こえるのはあたしの気のせいかしらね。

 金髪に染めたサイドテール、赤いカラーコンタクトレンズ、いくつものピアス、着崩したブラウス、足が大きく露出する短いスカート。

 校則違反の見本市みたいな彼女と、優等生の皮をかぶったあたし。

 きっと、ひどく不釣り合いな組み合わせに見えるでしょうね。

「お待たせ、なんとかね。今日のおすすめは何か知ってる? リコ」

「焼肉定食だってさー。ガッツリ系増えたよねー、ここ」

 歩き出すと、リコ――本名、八重垣(やえがき)瑠璃子(るりこ)――の胸元でスマホのアクセサリーがじゃらじゃらと揺れる。大きな胸と一緒に。

 リコは視線を引くために、あえてそこにアクセサリーをぶら下げているのではないか、と思うほどだった。

「それにしても遅かったねー。待ってる間、声かけられまくって愛想笑いに忙しかったのなんの。あの日?」

 自慢げに近況報告して来たと思ったら一転、気を遣ったように囁いてくる。なるべく小さな声で、って気を回してくれたんでしょうけど、話題そのものがないわよ。

 あたしは耳元のリコの鼻を、軽く指ではじいた。

「はにゃっ。うちの可愛いお鼻になんてことすんのにゃー」

「いつから猫になったのよ」

「ミサ相手ならネコも捨てがたいにゃー」

「もしかしてセクハラ的な話をしてる?」

「どうかにゃー?」

「にゃーにゃーうるさいわね」

「うい、言っててうざかった」

 リコと軽口をたたき合いながら、食堂の入り口をくぐる。

 この学校の食堂は、カウンターで注文して受け取る仕組みで、いくつもの横長のテーブルに腰掛けて食事するスタイルだ。

「で、ミサは何頼む?」

「和風ハンバーグランチにしようかしら」

「ミサ、それ好きね。じゃあ、うちが行ってくるから、場所取りよろー」

「お願いね」

 あたしもカウンターに並ぼうかと思ってたけど、出遅れたせいもあって食堂は混雑気味だ。役割分担はした方がよく、軽快に駆けだしたリコを見送って、あたしは席を探した。

 ほどなく、食堂の端当たり、テーブルの一角に二人分の席が空いているのを発見した。

 そこに陣取ると、リコにスマホで場所を連絡。すぐに「りょ」と返信があった。

 見ると、列に並んだリコが手を振るのが見えた。あたしも振り返そうとして――リコの姿が消えた。視線を遮られたのだ。

 見上げると、料理が乗ったトレーを持った、ブレザーに包まれた大柄な身体。もっと見上げると、精悍な角刈りの男子生徒だった。何やら緊張の面持ちで、こちらを見下ろしている。

「りゅ、竜禅寺さん。ご、ご一緒しても、よろしいかな?」

「よろしくないですね」

 うっすら笑みを浮かべたあたし。

 ちぐはぐな言葉遣いに対して、あたしはこう返すしかない。思いもかけない返答だったのか、その男子生徒は、きょとん、となっていた。

 言葉が足りなかったか、と思ってあたしは付け足した。

「連れがいますので」

「そ、それは一人?」

 どうにも、相手は挙動不審だった。大きな身体をおどおどとさせている。

「そうですが、それがなにか?」

「こ、こちらは空いているかな?」

 まだ微笑みは維持できているかしら。

 指し示したのはあたしの隣の席。

 確かに空いているけれど、他にも席はあるはずでしょうに。

 ちらりと他のテーブルを見やると、点々と空いている席と、こちらの様子を窺っているかのようなグループが目に入る。

 そのグループはなにやら熱気が籠っていて、この男子生徒を応援しているのか、はたまた賭けの対象にでもしているのか。

 そう思いつつも、あたしとしては常識的な返答をするしかない。

「そうですね。そちらを予約した覚えはありませんので」

 セリフ半ばで、トレーの料理はやや雑にそこに置かれた。

 あたしの気が変わらぬうちに、という焦りが動作に現れた模様。

 何定食かあまり興味もないけれど、お味噌汁が津波を起こしそうな勢いで、料理を作った人への敬意は感じられなかった。

 次いで、そいつはテーブルを回り込んでくると、どしん、とあたしの隣に腰掛けた。

「いや、よかった! 前々から竜禅寺さんとは話したいと思っていたんだ!」

 肺活量を自慢するような声に、さすがに笑みを形作るのが難しくなってきた。なんとか身体が揺れるのは抑えたが、感情が冷ややかになっていく一方だ。

 なんなのこいつ。

 お腹が空いていたはずなのに、なんだか胃がむかむかして来たわ。

 横に腰掛けたから視界からは消えたはず。なのにそれでも横から視界にぐいぐいと入り込んでくるのはどういう了見?

 その近さは、幸人さんにだけ許されているもののはずなんだけれど?

 思った瞬間、あたしは椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がっていた。

 「――私にはそんなものはありませんので。失礼」

 もはや表情も口調も取り繕えず、あたしはその場を後にしようと歩き出した。丁度、リコもこちらに向かっていることだし。

「え? い、いや、ちょっと待てよ」

 リコが別の席を見つけてくれて、そこに料理を置いてくれた。丁度よかった、やっぱりお腹は空いてるし。

「おい、待てって!」

 聞き苦しい足音があたしの背後に迫る。

「待てって言ってんだろ!」

 その声より早く、リコがあたしとすれ違って前に出た。

「まっ……!」

 振り返ると、あたしの肩を抑えようとしていた男子生徒の手が、宙に縫い留められていた。

 手首を抑えていたのはリコ。大柄な男子生徒の動きを、手首を片手で掴むだけで制していた。

「なっ、お、おま……っ」

「なーにをやっちゃってくれてんのかなー?」

 いっそ微笑ましい、とでも表現すべきリコの表情。

「お、お前、八重垣……っ」

「質問に答えてくんない? ミサにさーあ」

 リコの手がゆっくりと、秒針より遅い動きで徐々に角度を変えていく。掴んだ手首を、より強く、より痛みを伴う方向へ。

「何を――しようと――したのか、さ」

 それでもリコの表情は変わらない。なのに、男子生徒の表情は苦悶へと落ちていく。

「い、いでええぇっ……!?」

「リコ、離してあげて」

「はーい、仰せのままに」

 リコが手を離すと、男子生徒はあたしから遠ざかる方向へとたたらを踏んだ。

 痛みはまだ残っているようで、解放された手首を擦りながら、リコを睨みつけている。

 これがこいつの本性ってことね。最初は紳士的――いえ、エセ紳士かしら? として近づいたけど、粗暴さを隠し切れなくなったようね。まあ、あたしと身長のほぼ変わらない女子生徒に、容易く捻られて平静でいられない、っていうこともあるかもしれないけれど。

「そういうわけで、私たちはこちらで頂きますので、失礼いたしますね? ――どこのどなたか存じませんけれど」

 今度は羞恥で顔を赤くして、身体を震わせながらその男子生徒は身を翻し、視界の端にいたグループと合流し、そそくさとその場を後にした。

 というか、逃げたのかしらね。結局何だったのかしら、あの団体さんは。

 リコはそれを、やっぱり表情は微笑ましげに見送った。

「二度とツラぁ見せんじゃねーぞ」

 ぼそっとした、けれどドスのきいた声は知らんぷりした。

「お昼が冷めるわよ、リコ」

「おっとお、そーれは一大事。早く食べよー」

 待ちきれなかったのか、バンザーイとでも言いたげに両手を振り上げたリコと一緒に席に着く。

 あたしは注文通り和風ハンバーグランチ、リコはカルボナーラ。リコもおすすめの焼肉定食は注文しなかったみたい。

 いただきます、と食べ始めたあたしたち。

「相変わらずだね、お二人さん」

 リコの隣から苦笑気味の声があがった。

 そちらに視線をやると、小柄な男子生徒の姿があった。すでに半分ほど料理を平らげているところを見ると、先客のようである。

「そうね。相変わらず――考えなしが多くって困るわ」

「バカが増えちゃったよねー」

 あたしがあえて言わなかった表現をして、けらけらとリコが笑う。

 あたしは視線を、先客の男子生徒の料理に移した。

田坂(たざか)くんはおすすめ定食なのね。お味はどう?」

「美味しいよ。ただ、僕にはちょっと量が多いかな」

 同じクラスの田坂くんは男子の平均よりわずかに背が低く、食も細いイメージだった。どこか中性的で、女子に、そして一部の男子にも人気と聞く。

 以前大病を患ったらしく、そのせいもあってか距離感が自然で、他の男子生徒より話す機会はいくらか多いので、こんな時にも気軽に声を掛け合うことが出来た。

「そうなのね。頼まなくて正解だったわ」

 それでものんびり箸が動いているところを見ると、残す気はないようだった。

 リコが爪の艶を気にしながら首を傾げる。

「でも、なーんか風紀がおかしい感じ。ミサがもてもてなだけかもしんないけど」

 おかしい風紀代表が、よく言うわね。

「嬉しくないわよ。結局、何だったのかしらね、あの人たち」

「さっきのは野球部のエースくんと、そのお仲間……みたいだよ」

 田坂くんが説明してくれたけど、仲間というより取り巻きって印象だった。あえて田坂くんも言いかえたような気がするし。

「べきべきにやっちゃうべきかな? かな? ミサ、どうするべきかな? かな?」

 手をわきわきとさせて、期待感に笑みを我慢できないリコ。落ち着きなさい、隣の田坂くんが妙なテンションに引いてるでしょ。

「今度はヒグラシにでもなったの? やめときなさい、危ないことは」

「ミサが心配してくれて、うち嬉しー」

 きゃっ、と手を合わせて喜ぶリコに、あたしはため息をつく。

 まあ、やっておしまい、と言いたくなるところもあるけれど、そこまで気分を害したわけでもないし。

 ――今後、どうなるかは分からないけれど、ね。



 田坂くんはよほど量が多かったのか、あたし達が食べ終わってもまだ食べていた。

 そんな彼をおいて、食堂を後にして校舎への渡り廊下を歩いていると、クラスの担任に出くわした。

「ああ、竜禅寺さん、丁度良かった」

「なんでしょう」

「進路調査票、未提出はあなただけなのよ。いつまでに出せそう?」

「……近日中には」

「先週もそう聞いた気がするけど。あなたほどよくできる人なら、迷う余地が大いにあるのは分かるけど……早めにお願いね」

「……はい」

 苦い声音を抑えきれただろうか。

 担任は、次はリコに狙いを定めた。

「八重垣さん。いつも言ってるけど、その格好、なんとかならない?」

「いやー、これがうちのアイデンティティーっていうやつなんで。そこはなんとか個性ということでお目こぼし頂けませんかねー」

「尊重はしてあげたいけど、先生にも立場があるから注意はしないといけないのよ。というわけで、ほどほどにね」

「あいさー」

 おどけた敬礼を返すリコに、担任はため息とともに去っていった。

「……リコは」

「んー?」

「進路、なんて書いたの?」

「ミサに飼われる」

「ちょっと!?」

「って書いたら怒られそうだから、とりあえず大学って書いたかなー? もう覚えてないや」

「……そう」

 とぼけた様子のリコ。

 リコはあたしが行くところは、どこへでも着いて来てくれるんだろう。

 けれど、そのあたし自身がどこへ行きたいかが見えていない。

 先週、提出を求められた進路調査票。

 進学か、就職か、それとも別の道か。

 受け取った瞬間に意気揚々と「お嫁さん」と書こうとして――不思議と手が止まった。

 それしか意識になかったはずなのに、それが最たる望みだったはずなのに。

 どうしても書き込めず、提出を保留にするしかなかった。

 今ならその理由がわかる。

 どこか冷静なあたしが、「それは違う」と押しとどめていたのだ、多分。

 凜花お姉ちゃんとの会話で、それは明確にあたしの認識として掘り起こされた。

 将来の展望が、あたしにはない。

 あの担任は迷う余地と言ったけれど、選択肢が多いのではなく、ゼロなのだ。

 あたしは幸人さんと一緒に未来に行きたいのであって、あたしの未来に幸人さんを巻き込みたいわけじゃない。

 幸人さんとのビジョンは確かにあったはずなのに、あたし自身のビジョンが全くないなんて、自嘲どころの話じゃなかった。

 だからリコの未来もあやふやなままなのだ。

 勝手に決めてくれていいから、というのは簡単だけれど、あたしはリコと一緒に行きたい、という気持ちもある。

 置いて行かれたら、きっと泣くだろう、と思うくらいには。

「ミサー」

「うみゅ」

 気づくと、リコがあたしの頬を手で挟み込んでいた。

「眉間の皺が深くなっちゃうぞー」

「やめてよ、もう」

「きゃー」

 手首をつかむと、それを打ち払う様に動かす。

 リコの手はすぐに離れて行った。

 楽しそうなリコの表情につられて、あたしの頬も緩む。

「どうして眉間の皺なのに頬を揉むのよ」

「ごめんちて。お詫びに、こっちも揉んでいいんでっ」

「いやよ。それ以上大きくなられても、うっとうしいもの」

「揉むと本当に大きくなるのかにゃー?」

「知らないわよ。昼休み終わりそうだし、行くわよ、リコ猫」

「はいにゃー」

 ちゃんと考えないとね――この親友のためにも。



「ミサ。今日は寺島(てらしま)さんとこ行く?」

 学校が終わり、リコと一緒の帰り道。

 実はあたしの護衛でもあるリコが、行動方針を聞いてくる。

 今までも、幸人さんの家の近くまで送ってくれて、帰る時には合流する、という動きをしてくれていた。

 なるべく幸人さんと二人っきりがいいから、という理由でそうしてもらっていた部分があった。

 今日はどうなのか、というその問いに、あたしは即答できなかった。

 幸人さんには今日、用事も残業もないのは把握済みだ。

 だからあたしが訪れれば、優しい笑顔で迎えてくれる――のだろうか。

 そう自信がなくなってしまっているのは、きっと将来に盲目ではいられなくなったからだと思う。

 後ろめたい、のだ。

 せめて何かの手がかりだけでも見つけないと、幸人さんに堂々と会えない気がする。

「今日はやめておくわ。リコはどうする?」

「久々ミサんちに泊まりたいっ」

 何やら韻を踏んでいるような、いないような提案をしてくるリコだった。

「……まあいいか。いらっしゃいな」

「やたーっ」

「ちょ、刺さって痛いわよっ」

「うちのミサイル型おっぱいが?」

「胸ポケットのアクセサリが! 抱き着いてこない、人目があるでしょっ」

「照れるな照れるな。よいではないか、よいではないかー」

「瑠璃子?」

「いやん、怒んないで、冗談、冗談だから―」

 あたしの低い声に、すぐさまリコは離れた。

 乱れた髪や服装を整え、あたしの家がある方角に歩き出すと、リコが横に並ぶ。

「あのー、あなたたち、ちょっといいかしら」

 横合いからの声に、それが自分たちに向けられたものとは数瞬は気づけなかった。

 今日はやけに呼びかけられる、と思いつつ視線を向けると、そこにはスーツ姿の凛とした女性。後ろにはこれもまたスーツの男性が佇んでいた。

 すっ、とリコが自然な動きであたしのやや前に出る。

「なんでしょー?」

 聞いたのはリコであった。表情にも声音にも完ぺきに能天気な感情を乗せている。

「あ、っとごめんなさい。警戒させちゃったかしら」

 リコとあたしの様子に、すぐに気が付いたようだった。その女性は振り返ると、この場を外すようにスーツの男性に声をかけた。それにすぐさま答え、スーツの男性は近くに止めてある車に向かった。

 それを確認して、スーツの女性はあたしに向き直ると、懐から名刺を取り出して、綺麗に一礼しながら差し出してきた。

「初めまして。私は黒瀬(くろせ)柚乃(ゆの)、と申します。今、モデルのスカウトをしています」

 あたしに差し出されてきた名刺だったが、あえてそこでリコに話を振った。

「また声をかけられちゃったわね。これで何件目よ、あなた」

「もてる女はつらいにゃーっす」

「いえ、確かに彼女も魅力的なのだけれど」

 黒瀬、という人はリコに申し訳なさそうにした後、あたしを、ひた、と見つめた。

「私が見初めたのはあなたなの」

「見初めた、ときましたか」

 表面上の変化はなかった、と断言できる。

 しかし内面にはさざ波が立っていた。

 今のあたしは、誰かにそんな表現を使われるほどの存在なのだろうか、と思ってしまう。

「なぜです?」

 端的なあたしの質問に返って来たのは、柔らかい笑みだった。

「今まさに花開こうとしている瞬間に、立ち会えたと思ったのよ」

 それはどのような立場からの目線なのだろうか。

 あたしに差し出されてきた名刺だったが、リコに目配せをすると、代わりに受け取ってくれた。

 名刺を吟味したリコは、やや冷淡に問いかけた。

「シャッチョさん自ら、ですか。もしかして、人足りてません?」

「これでも大手よ。自分の足で人材を探さないと気が済まないだけよ」

 気を悪くした様子もなく、黒瀬さんは魅力的な微笑みを浮かべる。

 これは、大人の余裕、というものだろうか。

 姿勢だろうか、表情だろうか。いえ、違う。これはにじみ出るものだ。

 それは経験であり、教養であり、信念であり――そして、今のあたしにないもの。

 ――自信。

 この人を輝かせているのはそれだと、あたしは直感した。

 あたしはリコに並んで前に出た。

「一つ、お聞きしてよいでしょうか」

「はい、なんなりどうぞ」

「美しくなれますか」

「…………あらあら」

 その目に浮かんだのは、瞠目、だろうか。どうやらあたしは、ずっとにこやかなこの人を驚かせることに成功したらしい。

「……私、ちょっとあなたを見くびっていたみたい。てっきり、お給料とか、有名になれるか、とかを聞かれるとばかり……期待以上の反応が返って来たわ」

 黒瀬さんは、満足げに目を弓なりにした。

「努力次第、とだけお答えするわ」

「そうですか」

 差し出したあたしの手に、リコが名刺を手渡してくれる。

 見下ろすと、住所、電話番号、役職、名前、そして社名――「ORBIS∴VEIL」。特徴的なそれには、オルビス・ヴェイル、とルビが振ってあった。

 それらが飛び込んできて、あたしを刺激してくる。

「考えさせていただきますね」

「あらあら」

 間を持たせるようなあたしの様子に、その女性はころころと笑うだけだった。

 それがきっと余裕で自信で――今のあたしには、少し眩しい。

「行こっか、ミサ」

「ええ。それでは、失礼します」

「期待しないで待ってるわね」

 黒瀬さんは雅な立ち姿なのに、愛嬌を感じさせるウインクであたしたちを見送った。



 リコと一緒に家に帰り、夕食も済ませ、お風呂も済ませ。

「上がったわよ」

 パジャマに着替えて、寝室に入るとリコがベッドの上で両手を広げて待っていた。

「よし来い!」

「どこによ」

 ドライヤー片手にわくわくしている様子のリコに、苦笑気味のあたし。

 ベッドに腰掛けると、後ろから温風がやってきた。優しく髪を梳いてくれる動きが心地よい。

「おおー、相変わらずの麗しさ。綺麗な髪してまんなー、お嬢さん」

「どこの人よ」

「ミサ様親衛隊、会員第一号じゃーい」

 よほど嬉しいのか、リコのキャラが何だか崩壊している気がする。

 しばらくは好きにさせるか、と思って嘆息すると、さっき受け取った名刺がサイドテーブルにあるのに気が付いた。

 何の気なしに手を伸ばし、それをしげしげと眺めやる。

 いつもなら、あの類の勧誘は取りつく島なく断るのに、今日はどういう心境の変化なのか。

 気分の沈みに、ちょうどよくあの微笑みがはまったのかも知れないけれど、やはり変化を求めていたということなのだろうか。

 先が見えないのは決まりきった未来のように思えていた。

 いずれ破綻に行きつくそれを変えたくて。

 幸人さんと共に行く未来が見たくて、手を伸ばしたくて、そうやって得た小さなきっかけ。

 これで、あたしの何かは変わるだろうか。

「ミーサーってば!」

「きゃ、なに?」

 急に後ろから抱き着かれた。

「何度も呼んだのにっ」

「……それはごめんなさい。ちょっとぼうっとしてたみたい」

 耳元での抗議がくすぐったい。

「うーうーううん」

 変な調子で唸りながら、リコはあたしの身体を解放すると、今度は膝の上にのしかかって来た。

「リコにも構ってにゃー」

 そうして、あたしのお腹に顔を埋めた。

「ちょっ」

「……寂しかったし」

「……ああ」

 今日はなんだかテンションがおかしいと感じていたのは、それが理由だったんだ。

 確かに、最近のあたしは幸人さんへの思いが強すぎて、色々なものを蔑ろにしていたかもしれない。

 言ってみれば、視野が狭くなっていた。

 それは学校でも一緒で、リコといてもどこか上の空だった気がする。こうやって泊まるのも、リコ自身に用事があって随分久しぶりだった。

 あたしはリコの頭を撫でた。染めた金髪はちょっとごわごわしているけど、そんな手触りが猫を連想させて可愛い。

「ミーサー」

「シーサーみたいに言わないでくれる?」

「やっぱうち、進路はミサに飼われるでいいかも」

「幸人さんとの新婚生活に、それはちょっとお邪魔よ」

「邪魔って言われた! うちが先だったのにー。ねーとーらーれーたーあー」

「まだ寝とってもらってないわよ!」

「え、まだなん?」

 むしろびっくりしたように、リコは顔をあげた。

 流石に恥ずかしくなり、あたしは顔を背けた。

 膝の上で嘆き声がする。

「いやいやいや、それはない、それはないでしょ。こんな、こーんなえろいカラダ目の前にして貪らないとかないって。寺島さんってもしかしてふの――」

「瑠璃子?」

「嘘です冗談です! い、痛い痛いっ!」

 あたしは腰辺りを這い回っていた手の甲を思いっきりつねっていた。

「幸人さんの悪口は、嘘でも冗談でも言わないこと。お返事は?」

「い、いえすまむっ」

「よろしい」

 素直な返事に、あたしは万力から手の甲を解放してあげた。

 リコは涙目で患部を擦っている。

「うう、ミサが厳しいっす」

「それはね。でも」

 あたしは、膝の上のリコの頭を、ぎゅっと抱きかかえた。

「ごめんなさい、寂しくさせたのは」

 リコは、猫のように身体を摺り寄せてきた。

「げへへ。とんでもねえっす」

「……冷めるノリね」

「なんでえー? リコたんかなぴー」

 あたし、この子を親友にしていいのかしらね、本当に。

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