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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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57話 三つ目の存在

空中の魔導板に乗って、北西の歪みに近づいた。


 今日は、リーネと二人。半日の偵察、最低限の対処——という方針に従って、艦からの距離は最小限に抑えていた。歪みまで、八歩。書き上がる前の段階の歪み、しかも一つだけ。これまで対処してきた中で、最も簡単な部類のはずだった。


 歩きながら、空気の流れを確認した。北西の乾いた風が、歪みの周囲で、わずかに渦を作っている。だが、その渦の強さは、昨日の五つの歪みの時より、明らかに弱かった。書き手の手が、まだ初期段階で、十分な密度を集めていない証拠。


 乾いた空気の中で、歪みの輪郭が、視覚的にはっきり見えた。湿気を含んだ北東の空気では、ぼんやりと滲んで見えることが多かった。乾いた空気の中では、書き手の手の薄い記述が、はっきりと縁を持って空中に浮かんで見える。観察の条件としては、こちらの方が向いていた。


「これなら、改行一発で消えそうだな」


 赤い髪が、剣の柄に手を置きながら、低く言った。


「ああ」


 短く応じた。


 四歩の距離で、止まった。


「——歪みの中心、薄める」


 短く宣言した。


 半径三メートル、五秒。書き上がる前の歪みの中心の密度を、薄める方向の改行。これまで五度繰り返してきた手順。今日も同じ手順で、効くはずだった。


 空気が、一瞬、息を止めたような静けさになった。書き換えが走る前の停止。だが、その停止の長さは、昨日の最後の歪みの時のような重さはなかった。歪み自体が初期段階だから、書き換えへの抵抗も、軽い。


 歪みの中心が、ゆっくりと薄れ始めた。崩れる速度は、これまでで一番速かった。書き手の手が、まだ完成からほど遠い段階で、薄める改行の効果が、十分に通っていた。


「リーネ」


「ああ」


 炎刃が、青白く立った。乾いた北西の空気の中でも、温度は十分に保てる。湿気がない分、酸素の回りが良く、炎の温度は、湿気のある北東より、わずかに高くなる傾向さえあった。


 崩れた中心に、炎刃が一閃した。


 歪みは、あっさりと消えた。完全に焼き払われた。


 刃を引き戻すと、空中に何も残らなかった。輪郭も、薄い揺らぎも、すべて消えていた。北西の乾いた風が、何事もなかったかのように、また本来の方向に流れ始めた。


「……簡単だな」


 赤い髪が、剣を鞘に戻しながら、低く呟いた。


「ああ」


「これで、北西は片付いたってことか」


「観察できた範囲では、そうだ」


 短く応じた。


 艦の中央で、灰色の目が、空気を指でなぞって、最終確認をしていた。


「……他の歪み、見えない。北西の方角、今、書き手の手は止まってる」


「分かった」


「ただし、いつ再開するかは、こちらには分からない」


 短い分析。


 書き手の手は、一つを書き上がる前に止められた。だが、書き手自体が消えたわけではない。同じ場所で、また書き始める可能性は、十分にあった。北東の本格戦闘が終わってから、再度の偵察が必要になる可能性。


 その不安を、各自が頭の中に置きながら、艦に戻る準備に入った。


 北西の戦果は、一つ。書き手の手の進行を、初期段階で止められたことの意味は、確かにあった。書き手の側でも、書きかけの記述が止められた——という結果は、こちら側の能力が、書き手の手の進行を遅らせられる証拠だった。


 艦の魔導板から、甲板に戻った。短時間の戦闘だったが、空気の流れの中で集中を保ち続けた負担は、確かに体に残っていた。北西の乾いた風の中での発動は、湿気のある北東の戦闘とは、別の種類の疲労を残す。それでも、その疲労は、午後の戦闘までに、十分に回復できる範囲だった。


 ◇


 艦が、ヴァルトハインに向けて、舵を切った。


 北西から、ヴァルトハインに戻る航路。風向きは、北西から南東。艦の進行と、ほぼ同じ方向。帰路は、行きより速い。


 甲板の上で、各自が、午後の北東に向けた準備を始めていた。北西の偵察が短時間で終わった分、午後の戦闘に向けた準備の時間が、十分に取れる。それでも、ヴァルトハインまでの帰路は、一刻ほどかかる。その時間を、各自が、それぞれの方法で使っていた。


 眼鏡が、補助刃の状態を、もう一度確認していた。北西では発動しなかった。紋様は満タンの状態。午後の北東で、改行と鍛魂の連動を、確実に発動できる準備が、整っていた。北西で温存できた分、午後の戦闘で、複数回の発動が確実に可能。


 水使いが、艦尾で、水袋の量を確かめていた。北西では潮流を使わなかった。だが、北東は、湿気のある空気の中で、潮流が本来の効率を発揮する条件。午後の戦闘では、再び水流を出す可能性が高い。出航時の水量と比較して、まだ十分。北東で大規模に使っても、足りる量だった。


 白衣が、ミアの肩に、軽く治文の光を当てていた。北西の偵察での観察の負担を、軽い治癒で整える。午後の北東で、解頁の精度を最大に上げるための準備。


 赤い髪が、剣の手入れをしていた。炎刃を一度抜いただけだが、刃の状態を、念入りに確認する習慣。海賊の流儀で、戦闘ごとに刃を整える。北西の戦闘で得た感触——乾いた空気の中での炎刃の感覚——を、湿気のある北東で使う時の準備として、整理していた。


 灰色の目が、帳面に北西の観察結果を、簡潔に書き留めていた。詳細は、北東の戦闘が終わってから、清書する。今は、午後の戦闘に向けて、解頁の精度を温存する必要があった。


 全員が、それぞれの位置で、午後の戦闘に向けた切り替えを進めていた。


 ◇


 ヴァルトハインの桟橋に着いたのは、昼に少し早い時刻だった。


 桟橋の動きは、午前より一段、活発になっていた。第二小隊と第三小隊が、出撃前の最終確認を、桟橋の中央で進めている。北東への本格出撃が、もうすぐ始まる。


 艦の固定が終わり、各自が桟橋に降りた。


 水使いが、すぐに桟橋の中央に向かって、軍の連絡兵に北西の戦果を簡潔に伝えた。北西の歪みは、一つ、処理済み。書き手の手は、今、停止中。詳細な観察結果は、後で帳面ごと提出する——という伝言。


 連絡兵が、その情報を、塔の観測室に伝えるために走った。軍の側でも、北西の状況を確認することで、北東への戦力配分を、より確実に整えられる。


 拠点に戻り、短い昼食を取った。


 ナミが、用意してあった塩漬け魚と固いパン、それに温かい湯を、各自に渡していく。北西の偵察で消耗した分の体力を、最小限の食事で補う。長時間の準備は取れない——という条件の中で、戦闘期の食事の手順は、最大効率で進められていた。


 毛布の上で、それぞれが定位置に座って、急いで食事を取った。会話は最小限。各自が、午後の北東に向けて、頭の中で準備の手順を確認している時間。


 眼鏡が、湯を一口飲んで、息を吐いた。


「午後の北東、規模が大きそうですね」


「ああ」


「補助刃、いつでも抜ける状態にしておきます」


「頼む」


 短い遣り取り。


 昨日の北東の戦闘では、鍛魂発動は一度だけだった。だが、午後の戦闘は、書き手の手が、これまでより一段大きい範囲で動いていた。これまでより大きな規模の歪みが、複数同時に出てくる可能性もあった。


 眼鏡の指が、補助刃の紋様の縁を、ゆっくりとなぞった。職人として、自分の能力を、戦闘の中で最大限に発揮するための準備。今日のうちに、出番の少なかった分を、午後の戦闘で確実に取り戻す——という意気込みが、テーブルの上の補助刃に向ける視線の集中に、わずかに表れていた。


 ルーナが、医療所の薬箱の中身を、再度確認していた。北東の本格戦闘で、治癒の出番が多くなる可能性。北西で使わなかった分の余裕を、北東に持ち越せる。だが、戦闘の規模が大きい以上、念のための補充も、忘れずに進めていた。


 リーネが、剣を膝の上に置いて、刃の状態を確かめていた。北西で一度抜いた炎刃の感触を、湿気のある北東の条件で発動する時の準備として、頭の中で切り替えている。乾いた空気と湿気のある空気——条件の違いを、剣を握る手の中で、確実に整理していた。


 灰色の目が、帳面を膝の上に置いて、北西の観察を、簡潔に書き留めていた。詳細は、北東の戦闘が終わってから整理する。だが、最低限の記録は、午後の戦闘前に済ませておく。観察の使い手として、記録を後回しにすると、細部の感触が失われる——という習慣だった。


 全員が、それぞれの位置で、午後の戦闘への切り替えを進めていた。


 ◇


 半刻後、桟橋に戻った。


 軍の動きは、午前中と比較にならない規模で、北東への出撃準備に集中していた。第二小隊と第三小隊の隊員たちが、艦の側面に並んで、出撃前の最後の確認を進めている。


 桟橋の中央に、いつもより大きな艦が、停泊していた。


 後方支援用の物資を、より多く積載できる構造。第二小隊と第三小隊の合同出撃のために、軍が用意した艦だった。


 その艦の甲板に、六人が乗り込んだ。


 艦の中央には、補給物資の山。長時間の戦闘を想定した、大規模な備え。医療所からの治癒薬の大箱、予備食料、水袋——書き手との戦いが長引いた場合の備えが、これまでで一番厚く整えられていた。


 ◇


 艦が、北東に向けて、舵を切った。


 北東への航路は、昨日と同じ。だが、艦の規模が一段大きいせいで、進む速度は、いつもより遅い。それでも、本格戦闘のために必要な物資を運ぶには、この規模の艦が必要だった。


 艦の側面には、第二小隊と第三小隊の隊員たちも、いつもより多く乗船している。これまでの偵察艦の編成と比較すると、はっきり大きな編成。北東の動きが、これまでより一段大きい規模で観測されている以上、軍が最大限の対応を取っていた。


 甲板の上で、各自が、戦闘前の最終準備を整えていた。


 ミアが、艦の前縁で、空気の流れを指でなぞっていた。北西から戻った直後だが、午後の戦闘に向けて、解頁の精度を、最大の状態まで持っていく作業。観察の負担は、まだ深いところに残っている。だが、午後の戦闘の規模が大きい以上、精度を上げる必要があった。


 セリカが、艦の中央で、補助刃の最終確認をしていた。複数回の鍛魂発動を想定した準備。今朝、テーブルの上で並べた素材のうち、北東で使う分が、すでに鞄に入っていた。鞄の中の素材の配置も、戦闘の流れに合わせて、取り出しやすい順に並べ直されていた。


 リーネが、艦の前縁で、剣の柄に手を置いていた。湿気のある北東の空気の中で、炎刃の発動条件を、肌で確認している。乾いた北西から戻った直後の感触の切り替え。海賊の娘の習慣で、戦場の空気の質を、即座に肌で読み取る訓練が、こういう場面で効いていた。


 水使いが、艦尾で、水袋から水を取り出していた。出航前から、潮流の発動準備を整えている。湿気のある空気の中で、効率は最大。北東の戦場で、再び水流を出す可能性は高い。手の動きは、午前の北西と比較にならない真剣さだった。


 白衣が、医療所からの大箱を、艦の中央の自分の位置に並べ直していた。北東の戦闘の規模が、北西と比較にならないことを、軍の物資の規模が示していた。それに合わせて、治文の備えも、最大限に整える。


 艦が、北東の空域に入った頃——


 空気の質が、これまでで一番、はっきり変わっていた。


 湿気のある重さの中に、書き手の手が加わって、空気の流れが何重にも絡み合っている。風が、本来の方向に流れず、複数の渦が、空域全体で同時に発生していた。これまでの戦闘で経験した空気の異常さを、はるかに上回る規模。今日の北東で、書き手の手が、これまでより一段大きい範囲で動いていた。


 甲板の上で、各自が、その空気の質に、気を引き締めた。湿気の重さに、書き手の手が加わった独特の空気の圧。歩を進めるだけで、肌に纏わりつく感覚があった。これまでの戦闘でも経験してきたが、今日はその密度が、はっきり違っていた。


 甲板の縁に立って、空域全体を確認した。雲の層が、いつもより低く、空域の各所で渦を巻いている。書き手の手の動きが、雲の流れにまで、影響を及ぼし始めている——という証拠。これまでの戦闘で、ここまで広い範囲で空気の流れが乱れることは、なかった。


 灰色の目が、低く言った。


「……規模が、大きい」


 短く確認した。


「岩塊B-7付近の歪みが、複数。これまでより、明らかに多い」


「数は」


「正確には、近づかないと分からない。でも、昨日の五つよりは、はっきり多い」


 短い分析。


 艦が、歪みの手前で停泊した。


 甲板の縁から、空域を確認した。空中に、薄い揺らぎが、点々と存在している。一つ一つは、昨日の最後の歪みより小さい。だが、その数は、はっきりと多かった。視界の中に、いくつも分布している。視界の外にも、続いている可能性。


 書き手の手が、北東で、いつもより大きな規模の作業をしていた。空気の流れの異常さの規模が、これまでの戦闘とは違うことを、はっきり示していた。


 ◇


 その時——


 空中に、別の気配があった。


 歪みの集まりから、わずかに外れた位置。空気の流れが、歪みとは違う種類で、わずかに乱れていた。書き手の手の動きとは、明らかに異なる、何か。


 乱れの性質が、書き手の歪みとは違っていた。歪みは空中で固定されているが、今、感じ取れる気配は、ある一点に向かって、空気の流れそのものが引き寄せられている——という性質。


 誰かが、その場所に、確実に「いる」。


 灰色の目が、その方向に、視線を固定した。


「……誰か、いる」


 短く告げた。


「人?」


「分からない。でも、書き手の歪みとは違う種類の気配。歪みじゃない」


 短い分析だったが、その含意は重かった。


 書き手の歪みは、空中で固定されている。今、感じ取れる気配は、それと違って、動いている。歪みではない何かが、空中の一点にいる——それだけは、確かだった。


 空気の流れの中で、その気配の位置が、わずかに変わった。少し近づいてきたのか、それともこちらの認識の精度が上がったのか——どちらにせよ、固定された歪みではない、別の何かが、確かにそこにあった。


 艦の前縁で、赤い髪が、剣の柄に手を置いた。


「敵か」


「分からない」


 短く応じた。


 書き手の手と、こちらの戦いを、観察している誰か。それが、何のために、ここにいるのか——その答えは、まだ分からなかった。


 だが、その存在が、これからの戦いに、新しい要素を持ち込むことは、確実だった。


 艦尾で、水使いが、低く言った。


「あれ、空気の流れが、こっちに向かってる」


 肌に当たる風の向きから、その動きを確かめている。


「歪みの方じゃない。こっちに向かって、空気が動いてる」


 短い指摘。


 ミアの解頁とは別の側面から、空気の動きとして、その気配が確かに伝わっていた。書き手の歪みとは違う種類の何かが、艦に向かって、確実に近づいてきている。


 灰色の目が、もう一度、その方向を確認した。


「……向こうが、出てくる気がする」


 短く告げた。


「こちらが、書き手の手を処理する前に。たぶん、今、出てくる」


 その予感が、各自の中で、急速に共有されていった。


 空中の歪みの集まりと、その外れにある何かの気配——二つの方向に、同時に対処する必要が出てくる可能性。これまでの戦いで、こちらが経験してこなかった種類の構造だった。


 甲板の上の風が、わずかに変わった。


 その方向から、確かに、何かが、こちらに近づいてきていた。空中を、ゆっくりと動いてくる何か。書き手の手とは、根本から違う種類の気配。


 艦の側面で、軍の隊員たちが、こちらの動きの変化を見て、構えを整え始めていた。冒険者の側に何かがあった——という気配だけは、隊員たちにも伝わっていた。


 空中の歪みの集まりへの対処と、近づいてくる気配への警戒——二つの方向に、艦の上の各自の意識が、急速に分散していった。


 その気配が、姿を見せる瞬間が、もうすぐそこに迫っていた。空気の流れの中で、その動きが、確実にこちらに近づいているのが、各自の感覚で、確かに伝わってきた。


 書き手との戦いに、確実に、新しい要素が加わろうとしていた。それが何であれ、こちらの戦い方を、根本から組み替える可能性のある何かだった。


 空気の動きの強さが、わずかに増した。その方向から伝わってくる気配が、艦の手前で、ようやく止まったような感触。声や姿は、まだない。だが、何かが、確かにそこに存在していることは、各自の感覚の中で、すでに確定していた。


 艦の前縁で、改行のクールタイムを確認した。完全に戻っている。だが、それを書き手の手に使うべきか、近づいてくる気配に使うべきか——その判断を、これから出す必要があった。


 短く、息を吸った。書き手との戦いの、新しい段階が、これから始まろうとしていた。空中の歪みと、近づいてくる気配——その両方に、こちら側の手で対応する瞬間が、すぐそこにあった。


 甲板の上で、各自が、自分の役割の最終確認に入った。これから始まる戦いの中で、何が起きるのか——その答えは、すぐに出るはずだった。

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