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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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56話 二つの方角

観測室の中は、夜明け前から動いている人数で、いつもより密度が高かった。


 机の上には、夜中から朝にかけての観測記録が、何枚にも分けて広げられている。信号鏡の点滅の頻度、目視で確認された歪みの位置、風の方向——複数の観測値が、地図の上で、新しい印として打たれていた。


 助手たちが、新しい観測値を、まだ受け取り続けていた。塔の最上階で観測を続ける担当からの伝令が、一定の間隔で、観測室に届いている。書き手の動きの再開が、夜明け前から本格化していたことを、観測値の更新の頻度が、視覚的にも示していた。


 女性が、地図の前で、こちらを見て短く頷いた。


「来てくれましたか」


「呼ばれる前に、と思って」


「助かります」


 短い遣り取り。


 灰色の目が、整理した帳面を、テーブルの上に置いた。昨日の戦闘の観測記録。整った形で、塔の側に渡す準備が、すでに整っていた。


「昨日の分の報告です」


 短く言って、帳面を観測の助手に手渡した。


「整理、ありがとうございます」


 助手が、帳面を受け取って、すぐに頁を確認し始めた。書き手の手の構造、こちらの戦術の効果、書き換えへの抵抗の変化——観察の使い手にしか読み取れない情報が、整った形で並んでいる。観測網の助手たちにとって、この帳面は、貴重な資料だった。


 帳面の頁をめくる音が、観測室の中の動きの中で、低く響いていた。観察の使い手の整理した記録は、軍の観測網だけでは読み取れない情報を、補完する役割を果たしていた。両者の情報が組み合わさることで、書き手の手の動きが、より立体的に見えてくる。


「今朝の観測の状況は」


 短く訊いた。


 その視線が、地図の方に戻った。


 昨日の北東の五つの歪みが打たれていた場所には、もう印は残っていない。代わりに、別の場所に、複数の新しい印が打たれていた。


「動きが、広がっています」


 短く告げた。


「昨日処理した北東の場所からは、観測値が消えました。代わりに——」


 指が、地図の上を、複数の方向に動いた。


「北東の岩塊B-7付近と、北西のフォルジア寄りの空域。二つの方向で、同時に観測されています」


 地図の上で、二つの新しい印の集まりが、それぞれの方角に分布していた。北東のヴァルトハイン近辺の従来の場所、北西の昨日の古い歪みの近く——どちらも、観察してきた範囲の中で、書き手の手が動き始めていた。


 短い沈黙。


 書き手の動きが、これまでより広い範囲で、進められていた。一日の戦闘で五つの歪みを処理した代償として、書き手は、二つの方向で、新しい手を始めていた。


 地図の上の二つの印の集まりを、もう一度確認した。北東は、昨日処理した場所より南。書き手の手の本体が、再開している可能性。北西は、二日前に古い歪みを処理した場所より東。新しい歪みが、新しい場所で、書かれ始めている。


 二方向の同時の動きは、書き手の側の戦力の規模を、これまで考えられていたより大きく示していた。一方向で書き手の手を止めても、他の方向で同時に進められるなら、こちらの対処の手数は、相対的に薄くなり続ける。


 その認識が、観測室の中の各自の表情の中で、共有されていた。声には出さない。だが、戦況の重さは、地図の上の印の数だけで、伝わってきた。


 ◇


 灰色の目が、地図に近づいた。指で空気をなぞる動作。観測室の中の空気の流れまで、解頁が読み取っている。


 灰色の目が、地図の上の二つの印の集まりを、順番に確認していった。


「……北東の方は、岩塊B-7付近の従来の動き。これは、これまでと同じ性質。書き手の手の本体が、戻ってきている可能性が高い」


 短い分析。


「北西は、昨日処理した古い歪みとは、別の場所。新しい歪みが、北西の方角でも、書かれ始めている」


「両方、観察できる範囲か」


「北東は、これまで通り。北西は、観測網の縁に近い分、解頁の精度が、完全じゃない可能性がある」


 眼鏡が、地図を見ながら、低く言った。


「二方向、同時に動かれると、こちらの手が分散します」


「同感です」


 短い沈黙の後、頷きが返ってきた。


「軍の側でも、後方支援を二方向に同じ規模で分けるのは、難しい状況です。一方向に集中する方が、後方支援の厚みは、確実に保てる」


 短い説明だったが、戦況の厳しさが、その含意の中にあった。


 書き手の動きが広がるほど、こちらの対応の手数が、相対的に薄くなる。一日に一方向しか対処できないなら、残り一方向は放置することになる。だが、放置した方向で、書き手の手が完成すれば、それがどんな影響をもたらすかは、まだ分からない。


「優先順位を、どうつけるか」


 短く訊いた。


「それを、これから決めたいと思っています」


 軍服の指揮役が、地図を見ながら答えた。


「軍の判断としては、北東を最優先。岩塊B-7付近は、これまで観測してきた本体の動き。書き手の手の本拠が、ここにある可能性が高い」


「北西は」


「現状では、観測の継続のみ。本格的な対処は、北東の状況が落ち着いてから」


 短い説明。だが、その判断には、軍として動かせる範囲の限界が、滲んでいた。


 軍の判断は、戦力の集中。二方向に分散させると、どちらの方向でも書き手の手を確実には止められない可能性が高い。一方向に集中することで、確実に一つを止める——という戦術論は、戦闘の基本に沿ったものだった。


 だが、それは「もう一方は、書き手の手の完成を許す」ことを意味した。北西で、書き手の手が完成すれば、それがどんな影響をもたらすかは、まだ分からない。確実な一つを止めるか、不確実な二つを薄く対処するか——その選択を、軍は北東に集中する形で出していた。


 ◇


 赤い髪が、地図の前で、低く言った。


「北東に集中する、ってことだな」


「そうなります」


「でも、北西は、放置するんだよな。それで、いいのか」


 短い問い。


 わずかな沈黙の後、応じる声が聞こえた。


「いい、とは思っていません。だが、軍の手配では、現状、それ以外の方法がない」


 戦闘の指揮を取る側の、率直な答えだった。優先順位をつけることの不本意さを、声に出して認める判断。


 短い沈黙が続いた。


 水使いが、観測室の窓から、外を見ながら言った。


「北西の方は、昨日処理した古い歪みの近くですよね」


「そうです」


「もし、私たちが北西を担当できるなら……軍の方は北東に集中できますか」


 短い提案。


 水使いの目が、地図の上の北西の印を見ながら、続けた。


「北西は、昨日処理した場所のすぐ近く。一度行った方角だから、移動の手間は、最小限で済む。半日くらいの偵察なら、北東に出る前に、行ける気がして」


 控えめな口調だったが、戦術的に妥当な提案だった。北西は、昨日のうちに観察と対処を済ませた方角。再度の偵察は、これまでの情報を活かせる分、効率がいい。


 灰色の目が、低く応じた。


「私の解頁の負担は、まだ深いところに残ってる。半日の偵察なら、観測の精度を、最低限のところで保てる。だけど、その後の北東の本格戦闘で、精度を最大に上げるのは、難しい」


「観察を最低限にする手はあります」


 水使いが、続けた。


「北西の偵察では、歪みの存在の確認だけ。詳細な解析は、北東の本格戦闘の方に取っておく」


「それなら、可能」


 灰色の目が、頷いた。


 眼鏡が、テーブルの補助刃を見ながら、補足した。


「補助刃の発動は、北東の本格戦闘のために温存します。北西の偵察では、改行と炎刃の組み合わせで対処できる範囲なら、刃を抜かない方向で進めましょう」


 短い戦術検討。


 北西の偵察は、最低限の観察と、最低限の対処。それを午前中に済ませて、午後から北東の本格戦闘に入る——という二段構えの方針が、急速に固まっていった。


 ◇


 観測長が、その方針を、軍として確認した。


「北西の偵察を、皆さんで担当していただけるなら、軍は北東の本格戦闘に、後方支援を集中できます。第二小隊と第三小隊の連携で、北東の支援規模は、昨日より厚くできる」


「同意します」


 短く応じた。


「半刻後に、北西への出航。午後から、北東への本格戦闘」


「軍の側も、その時刻に合わせて準備します」


 短い遣り取り。だが、その短さの中で、今日一日の戦闘の段取りが、固まっていた。


 観測室を出る前に、地図の前で、もう一度、二つの方角の印を確認した。北東は午後から本格戦闘。北西は午前中の偵察。短時間で、確実に対処できる範囲を見極めて、書き手の手の進行を、両方向で止める。


 その方針が、各自の中で、確かに共有されていた。


 ◇


 観測室を出て、街路を急いだ。


 灰色の目が、隣を歩きながら、低く言った。


「北西は、観測網の縁に近い分、現場に行ってみないと分からないことが多い」


「ああ」


「予想外の性質が出てきた時に、対処できるか——その判断を、現場で出すことになる」


「分かる」


 短く応じた。


 今日の北西は、短時間の偵察と最低限の対処。だが、現場で予想外のことが起きた場合、その判断を、こちらの五人で出す必要があった。軍の後方支援は、北東に集中する。北西は、こちら側の判断で動かせる範囲で進める——という方針だった。


 その自由度と、責任の重さが、これからの戦いの、新しい課題になっていた。


 ◇


 拠点に戻り、北西への出航準備を始めた。


 半刻という限られた時間。各自が、自分の役割の準備を、最大限の効率で進めていた。今日は二段構えの戦闘——午前中に北西の偵察、午後から北東の本格戦闘。装備の整え方も、二段階に分けて考える必要があった。


 半日で北西を片付け、すぐにヴァルトハインに戻る。それから午後の北東の本格戦闘に出る。一日のうちに二つの戦場を回るのは、これまでなかった種類の戦い方だった。各自の体力配分も、この二段構えに合わせて、慎重に管理する必要があった。


 水使いが、台所で、簡単な携帯食を急いで整えていた。北西は、半日の偵察。だが、状況によっては、長引く可能性もある。塩漬け魚と、固いパンと、水袋——最低限の備えを、各自に渡していく。手の動きは、いつもより速い。だが、慌てているわけではなく、戦闘期に何度も繰り返してきた手順を、最大効率で進めているだけ。


 セリカが、補助刃を腰に固定した。北西では、刃を抜かない方向で進む——という方針。だが、念のために、補助刃は最大限の発動準備で、装備しておく。職人として、不測の事態に備える手の動きだった。鞘の固定の仕方も、戦闘の中で、即座に抜ける角度に調整されていた。


 ルーナが、医療所の薬箱から、最小限の分を、自分の鞄に入れた。北西の偵察用の、簡略版の備え。重い薬箱は、午後の北東の本格戦闘のために、医療所に残しておく。鞄の中の薬の配置も、北西で必要になりそうな順に、上から並べ直していた。


 リーネが、剣帯を腰に締め直した。今日は、二段構えの戦闘。北西で炎刃を抜く可能性は低いが、抜く場合に備えて、刃の状態を、出航前にもう一度確認していた。湿気のある北東と、乾いた北西——条件の違いに合わせた、刃の感触の確認。


 灰色の目が、整理した帳面を、抱えた。北西の偵察では、観察を最低限にする。だが、新しい情報が出た場合に備えて、書き留める準備は、整えておく。


 全員の準備が、半刻という限られた時間の中で、急ピッチで整っていく。


 ◇


 桟橋に着くと、軍の動きが、観測室で確認した通りに、北東に集中する形で組み直されていた。


 第二小隊と第三小隊の指揮役が、桟橋の中央で、出撃前の最終確認をしている。今日の北東の本格戦闘に向けて、後方支援の規模を、これまでで一番厚くする方向で、軍の側が動いていた。


 桟橋の物資の積み上げは、いつもより多かった。長時間の戦闘を想定した備えが、午後の北東への出撃用として、桟橋の別の場所に整えられている。今日の北東の戦闘規模が、いつもより一段大きいことを、その積み上げの量が示していた。


 偵察艦の甲板に、六人が並んだ。北西への航路は、二日前に通った道。慣れた風向き、慣れた距離。だが、目的は、これまでと違っていた。


 偵察と、最低限の対処。半日で戻る——という、これまでなかった種類の戦闘。


 艦が、北西に向けて、舵を切った。


 風向きが、北西から。乾いた空気が、また肌に当たり始めていた。湿気の少ない空気の中での戦闘条件——昨日確認した感触が、各自の体の中に、まだ残っていた。


 今日の北西は、二日前と同じ方角。だが、空気の流れは、前回より一段強い。書き手の動きの再開と、空気の流れの変化が、何らかの関係を持っている可能性は、依然として残っていた。


 甲板の前縁で、リーネが剣の柄に手を置いていた。乾いた空気の中での炎刃は、湿気のある北東より、酸素の回りがいい。短い偵察でも、刃を抜く必要が出れば、即座に発動できる準備をしている。


 灰色の目が、艦の中央で、帳面を開いていた。最低限の観察に絞る——という方針。だが、目に入った情報は、すべて記録する習慣が、観察の使い手の手の動きに、染みついていた。


 眼鏡が、艦の中央で、補助刃の状態を、出航中も確認していた。北西で抜かない方向だが、北東に向けて温存する分の確認は、出航中も続いていた。


 水使いが、艦尾で、空気の質を読んでいた。乾いた空気の中で、潮流の効率が、どれくらい落ちるか——昨日の偵察で確認した感触を、もう一度、肌で確かめる作業。


 白衣が、ミアの隣で、治文の光を、最小限の出力で保っていた。観察の負担が深いところに残っているミアの状態を、艦の上でも、慎重に支えていた。


 全員が、それぞれの位置で、北西への偵察に向けて、準備を整えていた。


 ◇


 艦が、北西の空域に入った頃、空気の質が、はっきり変わっていた。


 乾いた風が、艦の進行方向から強く吹いてくる。湿気のない空気の中で、書き手の歪みが、どんな性質を持つのか——それを、これから確認することになる。


 艦の前縁で、赤い髪が、低く言った。


「……前に来た時より、風が強いな」


「同感」


 水使いが、艦尾から応じた。


「乾いた空気の中で、風がここまで強いと、潮流の効率は、昨日よりさらに落ちるかも」


 短い観察。


 目的地が、視界の前方に見え始めていた。北西の浮遊岩の集まり——昨日の古い歪みを処理した場所からは、わずかに東に外れた位置。新しい歪みが、その空域のどこかに、書かれ始めているはず。


 艦の高度を、わずかに上げた。空域の広い範囲を、上から確認するため。


 雲の表面が、北西の朝の光を受けて、白く輝いていた。湿気の少ない空気の中で、雲の輪郭がはっきり見える。北東の湿気のある空気では、雲の縁がぼやけることが多かった。乾いた空気と湿気のある空気——同じ書き手の歪みでも、見え方が違う条件が、二つの方角で確実にある。


 甲板の上で、灰色の目が、空気の流れを指でなぞっていた。最低限の観察に絞る——という方針。だが、解頁の精度を、必要な範囲で維持しておく必要があった。


「……歪み、見えてきた」


 短く確認した。


「この前と同じ場所じゃない。少し東に外れた位置。一つだけ、書かれ始めてる」


「規模は」


「小さい。書き上がる前の、初期の段階。今ならまだ、十分に対処できる」


 短い分析。


 艦が、歪みの手前で停泊した。新しい場所、新しい条件、新しい歪み——だが、対処の手順は、昨日確立した「改行と炎刃の連携」を、そのまま使える可能性が高い。


 今日の北西は、午前中の半日で片付ける。それが終われば、午後の北東の本格戦闘に向けて、艦をヴァルトハインに戻す。北東の戦いの規模が、今日の本命であることは、各自の中で、共有されていた。


 だが、目の前の北西の歪みも、放置はできない。書き手の手が、新しい場所で書き始めていることが確認された以上、その手を止める必要があった。書き手の手が完成すれば、それがどんな影響を及ぼすかは、まだ分からない。完成させずに、初期段階で止めることが、こちら側の取れる最も確実な選択だった。


 甲板の縁から、空中に浮かぶ歪みを確認した。風の中で、わずかに揺らぐ薄い輪郭。書き手の手が、まだ完成にはほど遠い段階で、こちらの観察に晒されていた。書き上がる前の段階の歪みは、これまで何度も対処してきた相手。手順は、頭の中に確実に入っていた。


 今のうちなら、対処できる。書き手の手が、これ以上書かれる前に。


 その判断が、各自の中で、急速に固まっていった。


 空中の魔導板に乗る準備が、自然に整い始めた。今日の北西は、観察と最低限の対処。半日で済ませる——という方針を、各自が頭の中で再確認していた。書き手との時間との競争は、今日も、確実に進んでいる。


 艦の縁で、改行のクールタイムを確認した。完全に戻っている。最初の発動が、いつでも打てる状態だった。


 短く息を吸って、空中の歪みに、視線を固定した。今日の北西の戦いが、これから始まろうとしていた。改行のクールタイムは、戻っている。準備は、整っていた。

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