ドア閉め幽霊(下)
「それは幸運でしたね」
岡田は佐々山の朝の出来事を知るなり言った。彼は佐々山が棚をどかして日光を通すようにした窓の縁に寄りかかっていた。
佐々山からすれば、むしろトイレに閉じ込められたことは不幸であり、トイレから脱出できたのは不幸中の幸いだと思っていた。
(でも確かに、ドア閉め幽霊の能力の凶悪さを鑑みれば、どこかに閉じ込められるのが普通……そこから脱出できたのは、この上なく幸運なことなのかもしれないな)
「まさかドア閉め幽霊に憑かれたあなたが、こうして週を跨いで登校できるとは、正直思っていませんでしたよ」
相変わらず口の減らない奴だ、と佐々山は思った。
〈だが、実際これ以上アレとの遭遇を回避し続けるのは至難の業かもしれない〉
〈状況的にも、精神的にも〉
「僕も最初にそう言ったはずですよ、ドア閉め幽霊から逃れる術はないと。五日も生き延びているあなたは十分称賛に値しますよ。ドア閉め幽霊の方も、さぞや煮えくり返るほどの怨念を滾らせていることでしょうね」
ヒヒ、と岡田は気味悪く笑った。
佐々山は背後のオカルトマニアの気色の悪さにはもう慣れ始めていた。
キーボードを叩く。
〈この前、ドア閉め幽霊から一か月以上生き延びた人間はいないって言ったな〉
「はい、その通りです」
〈逆に言えば、一か月近く生き延びた人間ならいるってことか?〉
「そうなりますね」
〈そいつのことについて詳しく教えてほしい。どうやってそんなに逃げ続けることができた?〉
「あなたのご要望に応えることはできそうにありませんね……」
岡田は溜息をついてから言った。
「その人は、ドア閉め幽霊に遭遇したショックで精神的におかしくなり、自殺を図ったそうです。気付いた家の人間が救急車を呼びましたが、手首からの出血量は多く、数週間もの間意識を取り戻しませんでした。そして彼が目覚めた翌日、病院の階段の下で死亡しているのが発見されました。死亡推定時刻である明け方、数人の患者が何者かの聞くに堪えない断末魔のような悲鳴を聞いたそうです」
佐々山は悄然とした様子で椅子に深く腰を沈め、大きく息を吐いた。
「僕がドア閉め幽霊の情報を提供しているんです。当然、今までで一番まともに逃れ続けているのはあなたですよ」
佐々山は顔を両手にうずめて考えた。
ドア閉め幽霊の魔の手から脱する方法は本当にないのか。
もう二度と自分はまともな生活を送ることは許されないのか。
このままドア閉め幽霊の出現を恐れる毎日で、心が保つのか。
「ドア閉め幽霊を撃退したいですか?」
佐々山は自分の耳を疑った。
ゆっくりと振り向くと、逆光の中で岡田が例の気味の悪い笑みを浮かべていた。
「ドア閉め幽霊を撃退したという事例はありませんが、それは撃退する方法がないということにはなりません」
(あるのか……?)
佐々山は光の中で不敵に微笑む岡田の姿が、崩壊した世界に舞い降りる救世主のように見えた。
「まあもちろん倒せる保証はどこにも――」
パン、と音を響かせ、佐々山は嘆願するように両手を合わせた。
(この悪夢のような状況から脱せられる可能性があるなら、それがどんなに難しいことでも俺は必ずやり遂げる!)
岡田は鬱陶しそうに佐々山の傍を離れた。
「別にそんな祈られるほどのことでもありませんよ。至極単純、ドア閉め幽霊を殺すんです」
(殺す……? どうやって……)
佐々山は困惑の視線を送った。
――午前三時。
家族がすっかり寝静まった頃、佐々山は自室のベッドで目をぱっちりと開いていた。
(今夜が決着の日だ)
決意を固め、すっと身体を起こす。
ベッドの下から、放課後に購入した刃渡りの長い包丁を取り出す。
彼はベッドから降りると、開け放たれたドアから月明りの差す廊下に出て、まるで背後から忍び寄る影のように音もなく階段を下りた。
『ドア閉め幽霊はドアを開け閉めするんです。ということは、少なくとも出現している時は実体をもっているということです――これはトイレの外に妹さんがいる時、ドア閉め幽霊がトイレ内に出現したというあなたの経験が裏付けしています。
そしてドア閉め幽霊の背丈は出現するドアの大きさに等しい……つまり小さな戸棚のような場所に出現させれば、こちらがハサミで相手の首をちょん切ることもできるかもしれないということです。まあそれが怖かったら、別に殴るでも刺すでも、有効でさえあれば結果に大差はないでしょうけど』
佐々山が因縁の敵を殺す道具として包丁を選んだのは、単にハサミの短さでは首を切り落とす前に、ドアを閉められて腕ごと潰されるかもしれないという保身的な考えからだった。
だが、佐々山は半信半疑だった。この奈落の上の綱渡りに今更恐れを為しているのかもしれない。
ひょっとしたら、岡田は今夜の佐々山の決行をドア閉め幽霊のさらなる情報を得るための実験としか思っていないかもしれない。実は他にもっと有効な手段を知っているが、それを隠し自らの知識欲を満たすべく、佐々山をその余興の役者として仕立て上げたのかもしれない。もっと言えば、本当はドア閉め幽霊の祓い方を知っていて、やはりその好奇心のためにそれを教えず、佐々山を駒のように扱っているのかもしれない。
岡田への疑念は枚挙に暇がなかった。
(悪いのは岡田だ。あんな捻じれた性格をしているから本心がわからないんだ)
階段を下りたところで、佐々山は意図的な思考の逸脱をやめた。
そろそろ気を引き締めなければならない。
決闘の場であるキッチンのシンク下の小さな戸棚は、もうすぐそこにある。
「呼び」の音は聞こえない。どのドアから佐々山を呼ぼうか、迷いながらドアからドアを渡り歩いているのかもしれない。
キッチンの蛍光灯を点け、戸棚の前で足を止めると、彼はポケットから携帯を取り出した。
約束通り岡田に電話をかけると、彼はすぐに出た。
「始めるんですね。では僕は、静かに今夜の一部始終を聞かせていただくことにしましょう」
携帯をシンクの上に置き、戸棚の前でしゃがんだ佐々山はゆっくりと深呼吸をした。
だが、何度深呼吸をしても呼吸は落ち着かなかった。
包丁を握る手に汗が噴き出す。手が包丁を滑ってはいけないと、手汗を服の裾で拭う。
右手で包丁を力強く握るが、その手はぶるぶると目に見えるほどに震えていた。
自らドア閉め幽霊を呼び出すなど、今でも佐々山はこれから自分が行おうとしていることを理解できない。ただその手に帯びるのは、自分自身をこの状況から救い出すという使命感のみ。
佐々山が右手に力を込め、もう一方の手を戸の取っ手にかけた時、音がした。
キィィィ……
たった今通ったばかりの、居間から廊下へ続くドアがひとりでに開いていた。
(いるのか、そこに……)
バタン!
猛烈な勢いで閉まった途端、再びドアが開き始める。
佐々山は意に介さず、意を決して左手で戸を引き開いた。
バタン!
まばらに食器が置かれているだけだった。
(まだあっちにいる……)
戸を閉め、もう一度取っ手に手をかける。
キィィィ……
右手に力を入れる。
そして、再び戸を引いた――。
そこには人形のように小さな白い女が立っていた。
居間のドアの閉まる音が途絶えている。
佐々山は渾身の力を込め、右手の包丁をミニチュアのドア閉め幽霊に突き刺した。
ゴリッとした感触があった。
包丁の刺さったドア閉め幽霊の胸から、真っ赤な鮮血が滔々と流れ出した。
小さな女は自分の胸を見つめていた。
そして、佐々山の方へと顔を上げた。
「イテェナ」
どすの利いたその声を聞いた瞬間、佐々山の全身を死の冷気が凍らせた。
ドア閉め幽霊は包丁ごと彼の腕を引き、もう片方の手で戸を閉めた。
肉が裂け、骨が砕ける音がした。
突如腕に走る激烈な痛みに、佐々山は叫喚した。
身を引いた際にかろうじて繋がっていた手首が完全に切り離された。
殺虫剤を噴射された昆虫のように床の上で身体をくねらせ、無音の悲鳴を上げ続けた。
手首から心臓の脈と同じリズムで温かな血が噴出している。
もうそこは血の海だった。
(腕……腕……俺の腕……)
切断された手首を取り戻すべく無我夢中で再び戸を開いた。
赤いものが見えた気がしたが、一瞬あとにはそんなことはもう頭に残っていなかった。
(あった……)
自分の腕から離れた手首を見つけるのは奇妙な感覚だった。
(はやく……はやく……どうすれば……)
彼はシンクの上に携帯を置いたことを思い出した。
(そうだ……救急車を呼ばないと……)
「佐々山さん、どうかされましたか?」
携帯の向こうから声がした。
「救急車でも呼びましょうか? それとももう死んでしまいましたか? まだ知りたいことあったんですけどねぇ」
(遅い……遅い遅い遅い遅いんだよ! 俺がかけなきゃ……早く……早くしないと……血が……あぁもうこんなに……)
電話を切り、左手で急いで「119」をプッシュする。
『はい、こちら――』
声が聞こえた瞬間、佐々山は叫んだ。
「………………」
自分の声が出ていないことに、彼は気付いた。
(そうだった……俺、声が出ないんだった)
彼は笑みを浮かべたような表情でその場に倒れ伏した。
『火事ですか? 救急ですか? もしもし、もしもし!?』
結局こうなる……
何で俺が死ななきゃいけないんだ……
加奈のせいか? 小野のせいか? それとも岡田のせいか?
誰も俺の味方にはなってくれなかった。
あいつら全員のせいだ。
みんな死んじまえ。
俺を殺したのはお前らだ。
お前ら全員……
(ノロッテヤル)
岡田は月光の差す自室の椅子に座っていた。
「あーあ、これは本当に死にましたね」
切れた携帯の画面を見つめて溜息交じりに呟く。
「あなたじゃ救急車は呼べないでしょう?」
彼は雲間に覗く窓外の月を興覚めしたような表情で見上げた。
毎朝家族の誰よりも早く起きて自分の朝食を用意する加奈は、その日も一番早く階段を下りた。
(何? この臭い……)
臭いのするキッチンへ向かう。
その光景を目にした加奈は、ただ、驚き、悲鳴を上げた。
やがて加奈の叫び声を聞きつけた両親が駆けつけた。
加奈は無言で指を差す――おびただしい量の血で染まった異様なキッチンを。
「何だこれは……」
「加奈、あなたは向こうに行ってなさい。ねえ、あなた、太一を呼びましょう? 何か知ってるかもしれないわ」
「そうだな」
父親は階段の下から未だ姿の見えない息子の名を呼んだ。
しかし、いくら大声で呼んでも佐々山太一は現れなかった。
どこか朧げな光の中で、佐々山は不意にさっき見た赤い文字を思い出した。
『次にこのドアを開けたら、ただでは死なせない』
(ドウイウ……イミダッタンダロウ)
ドア閉め幽霊2へ続きます・・・




