ドア閉め幽霊(中)
翌朝、やつれた顔で教室に入った佐々山は、すぐに教室の違和感に気付いた。昨日までとは明らかに違う。教室の学年を間違えたかと錯覚するほどだった。
(誰もこっちを見ない……)
いや、一瞥をくれることはあっても、すぐにみな視線をそらした。学校での佐々山は、主にチャラけた男子たちが寄り集まってくるような、明るいお調子者のキャラで通っていた。
昨日は得体の知れない恐怖に遭遇した影響でだいぶ暗い印象を周囲に与えてはいただろうが、それだけでまったく誰も話しかけてこないというのはおかしかった。
(やっぱり、昨日の呪いが現実に……)
彼は最後に、わざと離していた視線を隣の席の小野に投げかけた。
小野は相変わらず一時間目の教材を机上に揃え、黙々と読書をしている。
佐々山はどうしていいかわからず、考えに考え抜いた結果、昨日の課題を始め、少しして、消しゴムを小野の机の方へと落とした。
小野は音に気付き、足元の消しゴムを見つけると、一瞬佐々山の顔をちらりと見た後、拾って佐々山の机に置いた。
佐々山は頬を上気させた。
(もしかしたら)
ノートの端にシャーペンを走らせ、隣の席の方へ寄せて小野に見せる。
〈お前、俺の友達だよな?〉
小野はそれを読むと、佐々山に向き直って小さく笑った。
「ああ、そうだね」
(やっぱり! よかった、小野はまだ俺を友達だと認識してるんだ! 何でかはわからんが、きっとアレの呪いはまだ完全には発動していな――)
「ところでさ」
小野が不思議そうな表情で声をかけてきた。
「どうして喋らないでノートに書くんだ? 喋るのが苦手なのか?」
頬の熱はさっと冷えた。
佐々山は、ようやくさっきまでの小野の行動が、自分の知る小野のものとは違うことを悟った。
彼が佐々山の落とした消しゴムをわざわざ親切心で拾ったりするとは考えられない。そもそも佐々山が机で課題を始めた時点で不審そうな視線を投げかけてくるだろう。
(それに何より、どうして俺がノートに書いた文字を見せてきた時点で「まだオカルトごっこをしてるのか?」って言葉が返ってこなかった?)
佐々山は自分が精神的に参っているのだと知った。普段なら、親友の行動の違和感などその場で気付くだろう。
絆が、それまでその人と一緒に培ってきた過去の記憶そのものだというのなら、友を失うということは、その絆――すなわちそれらの記憶全てが失われるということ。
彼はあやふやだった何かがしっくりきた気がした。
(小野は、もう今までの俺のことを覚えていないんだな)
「どうやらご存命のようでよかったです」
佐々山が憔悴した面持ちで埃をかぶったその部屋に足を踏み入れると、岡田は皮肉めいた言葉で出迎えた。
佐々山は目を見開いて岡田の顔を凝視した。
「ん? どうかしましたか?」
佐々山は岡田に紙切れを渡した。
「……なるほど、そういうことですか」
岡田は紙切れの文字を読むなり、自分をいぶかし気に見つめてくる佐々山の真意を悟ったようだった。
彼は極めて無感情に言った。
「別に、僕はあなたを友達だとは思っていませんから」
その単純明快さに、佐々山は思わず口角を上げた。
佐々山は嵐で農作物を全てダメにされた農家のように沈鬱な様子でテーブル前の椅子に倒れ込んだ。テーブルに頭を押し付けて項垂れると、ドア閉め幽霊によってもたらされた悲しみ、怒り、苦痛がしばらくの間頭の中に去来した。
それら謂れのない苦悩による鬱憤が最高潮に達した時、彼は手近の棚を拳で叩きつけていた。
「どうして俺がこんな目に、ですか?」
岡田は鋭い視線を部屋の壁に向けながら口を開いた。
佐々山は射貫くような視線で岡田を睨む。
「……ドア閉め幽霊の正体は、結果的に扉やドアなどを閉められたために死んだ者だと言われています。恨みのあまり幽霊となって自分を閉じ込めて殺した者に取り憑く、と」
その言葉を聞いて、佐々山は無意識のうちに昨晩の悪夢を思い出していた――かつて実際に見た、炎の渦巻く地獄絵図のような光景を貪り喰らって生まれたような、彼にこの上ない罪悪感をもたらす悪夢を。
「本当に、自分が苦しめられる心当たりはないんですか?」
岡田が面白げに下衆を眺めるような、意味ありげな視線を佐々山に寄越していた。
〈昔、悪戯心でいとこの女の子を押し入れに閉じ込めたことがある〉
岡田は少ししてから不意に佐々山がパソコンに打ち込んだ文章を冷酷にも思える表情で見つめた。
〈その後、その家は火事で全焼した〉
佐々山は自らの身体を締め付けるようにして、その時見たいとこの美優の家が炎上していく地獄の光景を思い出した。忘れていたわけでも、自分の犯した過ちを受け入れられないわけでもない。自分の罪として忘れてはいけないと思っていたからこそ、彼は鮮明なあの地獄絵図を進んで脳裏に思い起こした。
〈原因はガスの消し忘れだった〉
佐々山は改行して次の文章を打ち込んだ。
〈だが、全焼した後の家から遺体は一つも見つからなかった〉
いつしか岡田の眼差しが険しいものへと変わっていた。
〈だから、そのいとこはきっとどこかにうまく逃げられたんだと思ったんだが、結局あれから家族のもとには一度も姿を見せていない〉
佐々山がキーボードから手を離した時、岡田は思考の海に没頭するように、棚によりかかってあごをさすっていた。
「あなたがドア閉め幽霊に憑かれる正当な要因があるとすれば、かつてのその経験以外にはないと思うのですが……まあ何にせよ、この悪霊の情報はまだ多くはないので、確かなことは言えません。それに、ドア閉め幽霊は恨みの対象がすでに死んでいる場合――特に相手が幸せに死を迎えている場合、恨みが晴れず、同じように幸せに暮らしている別の誰かに取り憑いたのだという記事もどこかの文献で見た覚えがあります。万に一つの確率で、あなたが憑かれた理由はそちらなのかもしれませんね」
佐々山が再びテーブルに頭を押し付けて項垂れているのを見て、岡田がおかしそうに言った。
「そんな格好、ドア閉め幽霊の前では絶対にしちゃいけませんよ」
佐々山は無言で顔を上げる。
「どんな理由があるにせよ、ドア閉め幽霊は取り憑いた対象を実際に苦しめ殺めてしまうほど憎んでいるんです。そんな風に俯いていたら、首を差し出しているのと同じようなものですよ」
佐々山は表情を強張らせた。
(その言い方だとまるで……)
「ドア閉め幽霊が物凄い勢いでドアを閉めるその真の理由、知っていますか? 彼らは……」
岡田が佐々山の耳元に口を近付け、恐怖を煽るように囁いた。
「……取り憑いた相手の首を欲しているんですよ」
佐々山は鼓膜をなぞる恐怖に震え上がるように目を見開いた。
「ね、面白いでしょう? これだからオカルトは病みつきになるんですよ」
岡田は不吉な笑みを浮かべた。
くれぐれも、彼らの前で頭を下げたりしないように。
佐々山は、ドア閉め幽霊に対する考えうる限りの方策を巡らせた。家中の各ドアをガムテープで開いたままに固定し、自室に閉じ込められた時のために、部屋の窓はガラスを全て抜き取り、そこからベッドの足に固定した長いロープを垂らした。
トイレと浴室、洗面所のドアは加奈にガムテープをはがされたが――といっても、これは予想の範囲内であり、それらのドアは何かと理由をつけて他の人間に開けさせることは容易かった――、それでもまずまずの成果が上がり、三日間、彼はドア閉め幽霊との遭遇を回避することに成功した。
まず、ドア閉め幽霊への対策として「ドアを開けたまま固定する」というのはまったくの愚策とまではいかないまでも、効果的、と呼ぶには少し頼りなかった。というのも、ドア閉め幽霊が深夜にドアを開け閉めする「呼び」の際に、強制的にドアが閉められてしまうからだ。だがドアを自分で開けないという目的には多少なりとも適っていると言えた。
次に、開いた自室のドアの前に自分の背丈ほどもある衣装ダンスを置き、「呼び」の行為を妨害した。だが、佐々山は深夜に衣装ダンスがメキメキと音を立てて押し潰されていく恐ろしい奇怪な音を聞く結果に終わった。
窓のガラスを取り外すというのは比類なき名案だった。窓や開き戸はドアと同類とみなされ、ドア閉め幽霊の出現範囲内であったが、ガラスを抜いた窓枠の内側を出入りすることは「窓を開ける」とは認識されないようだった。つまり、家の出入りは全てその二階の窓からロープを伝って行えばよく、自室のドアが閉まってしまっても、敢えて両手を塞いで誰かに開けてもらうことは大して難しくはなかった。
「呼び」の行為は深夜に複数回、それぞれ別々のドアで行われることもあった。佐々山はそのたびに眠りを妨げられたが、ドア閉め幽霊の存在そのものを認識する恐怖には心を鬼にして立ち向かい、耐えることを覚えた。
日を経るにしたがって、わけを尋ねても答えようとしない佐々山の奇行に関しては、家族も黙過することが暗黙の了解となっていった。だが、それは常識の範囲内において通ずるものであって、例えば、最初にドア閉め幽霊が現れてから五日目の朝のように、佐々山が一歩でも気を抜けばそれが悲劇へと一変することを彼はその身をもって知ることとなった。
気を抜いたと言っても、それはほとんど不可抗力に近いものでもあった。
普段、彼は理解のない家族にドアを閉められないよう、風呂とトイレはタイミングを見計らって使用するようにしていた。しかしその朝は起きてすぐに催し、父親の使用後、入れ替わるようにトイレに入った――もちろんドアは開放して。
そして――。
そのドアは妹の罵声と共に乱暴に閉められた。
「今食事中だから!」
(は……!? おい!)
ちょうど済んだところだった。
トイレを流し、もう終わったと伝えるべくドアを叩く。
「ねえ、いつまでこんなこと続けるつもり?」
ドア越しに妹の冷たい声が届く。その声には憐れみしか宿っていない。
「さすがに気持ち悪いんだけど。何かの実験? これ以上続けるならさあ、私、家中のドア、全部閉めてあげるよ」
佐々山は言葉を失った。今の彼にとって、この時の加奈が発した言葉ほど強制力をもつまじないはなかった。
レバーを見つめる。
(これを引けば俺は外に出られる。でも、これでアレが出たらどうする? それならこのまま加奈の怒りを買うか? そんなことをすれば、俺は二度とこの家で生活できなくなる。家出でもして外で生きるか? そのうち犯罪を犯すことになって捕まるに決まってる。そしたら俺は刑務所か? 刑務所の人間にドアを開けてくださいなんて言えるか? 言ったところで言うとおりにしてくれるか?)
彼は凄まじいスピードで思考を進めた。そしてその終着駅について思考を止めた時、彼はドアを開ける決断を下していた。
(ここを出たら、加奈にはドアを閉めないことの正当性をうまく説かねえとな)
レバーに手を載せ、ガチャリとドアが開いたその瞬間――。
ドアを押し開けようとする佐々山の手の上に、背後から伸びる真っ白な手が重なった。
「アケルナヨ」
背後から冷気が肌をなめる。
背後の手が、まるで壁ごと破壊しそうな勢いでドアを閉めた。
「ちょっと! 何? 出てくるんじゃなかったの!?」
あまりの勢いに驚いた加奈が喚き、「わけわかんない!」と最後には食事へ戻っていった。
だが本当に混乱しているのは佐々山の方だった。
(何で、こっち側に……?)
まるで外界の時間だけが停止したようだった。不動の身体に反し、思考のみが加速を続ける。
(加奈がいたからか? 最初から俺の背後にいたのか? それとも――)
佐々山の高速で広がる思考の波は、目の前の血文字によって完全に凍結させられた。
脱力し、便座に腰を落とす。
佐々山は苦笑した。
(詰みじゃねえか)
『次にこのドアを開けたら、命を失う』
目の前のドアには、不吉な赤黒い文字でそう書かれていた。
狭き方形の個室で、彼は全てを投げ出して全身の力を抜き、ぼうっと文字を見つめる。
涙は出なかった。心のどこかでは、いつかこの時が来るのを悟っていた。
居間の方から家族の談笑する声が聞こえる。
(もっと楽しみたかったなあ……)
悲しさと寂しさが募る傍ら、走馬燈のようにこれまでの人生が瞼の裏で再生された――罪深い十年前のあの日の光景も。
彼は溜息をついた。もちろん声は出なかった。
(どうにか、助かんねえかなあ……)
そもそも、今誰かがドアを開けたとして、本当に呪いが発動しないのか、彼には甚だ疑問だった。彼が「ドアを開けさせた」と認識されればそれはそのまま彼が「ドアを開けた」ことに繋がり、血文字の内容が実現してしまうかもしれない。
(誰かに開けられて殺されるなんて、惨めな死に方だよな。でもドアを開けないってんなら、他にどうすんだ……)
首を曲げ、隣の壁を見つめる。
(これをぶっ壊して出ろってか?)
いっそのことそうしてもいいような気がして、彼は壁をコンコン、と叩いてみた。薄くはないが、火事場の馬鹿力でも出せれば破壊できそうな、そんな気がした。
(こうでもしなきゃ死ぬってんなら、やってみてもいいかもな)
だが、それは本当に最後の時だ、と彼は自分を律した。おそらくこんなごり押しが通ったとしても、目前の死を回避するだけで、状況的には悪化の一途をたどることになるだろう。
他に何も方法はないのかと、立ち上がり、周囲を見回す。
(え……)
背後を振り返ったところで、彼は世の真贋を疑いたくなった。
(これ、本当に現実でいいのか?)
便器に接する壁の上部に、明かり取りと思われる小窓が取り付けられていた。
身体に電気が流れ、筋肉が痙攣し、活力と共にどこからか暖かいものが溢れてくるような感じがした。




